2、 DessinateurからIngénieurへ:18世紀における建築家の変貌

 政治的、文化的に大きく変貌を遂げた18世紀のフランスにおいて、もちろん建築家という職業もその影響を免れることはなかった。事の始まりは1747年、王立土木学校(l’École royale des ponts et chausées)の設立である。このことは道路や橋の建設といった土木事業、国土整備が国主体で進められる、すなわち国土行政が始まったことを示しているが、以降土木専門教育によってテクノクラートと呼ばれる技術官僚が多数輩出されることになる。ルクーより21歳年上の建築家クロード=ニコラ・ルドゥー(1736-1806)は、アルケ=スナンの製塩所監視官を務めていた際の上官に土木学校の初代学長も兼任していたジャン=ロドルフ・ペロネ(1708-1794)がおり、テクノクラートが主導する国土整備の枠組みの中で彼自身製塩所の造設という国家事業に携わっていたことがわかる。あるいは土地登記局で働いていたルクーの上役はガスパール・ド・プロニー(1755-1839)という技術者で、百科全書の編纂に関わった彼も土木学校の卒業生だった。その後1794年にはガスパール・モンジュ(1746-1818)がエコール・ポリテクニークを創設し、公共事業を担う技術者の養成に拍車がかかることになる。このときモンジュが土木技術者教育において重視したのが画法幾何学(Géographie descriptive)であり、その教師としてルクーが雇われたのであった。このように18世紀後半からすでに建築・土木の分野では高度な国家教育を受けた技術者の存在感が増し、従来の建築家との協働も珍しくなかった。ベンヤミンが指摘した通り上述の王立土木学校はアンシャン・レジーム下で生まれながら革命を生き延びることを許された非常にユニークな機関であり、建設事業をIngénieurたちが担っていく19世紀への変化の端緒をここに見ることが出来る。その変化とは言い換えれば、ルクーやルドゥーに代表される、デッサンにより各建築の造形を表現していく建築家=dessinateurたちから、分析的方法論を通して「都市としての国家」を設計していく建築家=Ingénieurたちへと、建てることを本質的に担うものの性質が大きく転換したということである。ルクーは建てることに直接参画することは少なく、専ら実用的な図面や地図を描くこと、あるいは全く空想的な絵を描くことに終始していた、つまりそのキャリアは建築家という職能を失い単なるdessinateurに制限されてしまっていたといって良い。その傍ら、実際にものを建て空間を考え国家を形作っていたのはingénieurたちだったのである。このような状況を嘆く「建築家」もいた。Charles-François Viel(1745-1819)は数ある建築のコンクールでエコール・ポリテクニークの学生ばかり入賞することに不満を持っていたという。建築が技術偏重になり、彼の言い方を借りれば「数学化」し、もはや芸術ではなく産業技術に成り下がってしまうことに警鐘を鳴らそうとしていたのである。彼は古き良き建築家=dessinateurの時代を回顧しているようである。
 以上のような葛藤もありつつ、その後19世紀には科学的なアプローチをとる土木技術師と空間造形を受け持つ美術学校(École des Beaux-Arts)出身の建築家というように両者の職能が明確に分離していった。この大きな変革の過渡期にあって、ルクーの生きた時代は建築家のアイデンティティーを根本から問い直したと言えるだろう。

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