取っ替えっこ

 去年の暮れごろから、論文を書いている間あることに悩まされ続けてきた。
 カタカナで外国人名を打ち込もうとすると、パソコンの自動変換で全く違う単語に置き換わってしまうのだ。例えば・・・

 論文の主人公だったルクーという18世紀フランス人建築家はポリフュリオス(本当はポルフュリオス)という別の20世紀ギリシャ人建築家に変換されてしまう。注意していないと、ルクーについて書いたつもりが勝手にポリフュリオスで話が進んでしまうということになりかねない。他にも・・・

 18世紀のフランス人建築家スフロは「V」に、

 同世紀のスイス人観相学者ラファーターはヘルメティシズムに、変換されてしまう。置き換わる単語は、確かに私が論文の中で少なくとも一度は打ち込んだものだ。パソコンが勝手に打ち間違いと認識して修正を試みているのかもしれない。しかし交換される単語同士に、打ち間違いだと認識されるような類似も、キーボードの位置の近さもない気がする。なぜこの交換が起こるのか、全くの謎だ。

 これは本当に面倒な出来事だった。常に自分の書いている人名が正しく打ち込まれているか用心していなければならなかった。時には後から読み返してミスに気づくという冷や汗ものの場面もあった。締め切りが迫って焦るなか、機械のほうに執筆の邪魔をされると苛立ち、しかし拳の振り下ろしどころのない、嫌な感じを何度も味わった。
 にも関わらず、この交換がなんだか面白いと感じてしまうのだった。論文なるものには本当にたくさんの固有名詞が出てくる。しかもその大半は、特定の分野でしか知られていない専門用語だ。そのよくわからないカタカナの羅列が、論文内で非人為的に入れ替えられていく。そうすると、体裁は論文であるのだがなんだかよくわからない異世界の文章が生まれるのではないか。一般の人には違和感を抱かれないかもしれない。しかしよく調べてみると内容は全くのデタラメで、アカデミックからは程遠いような文章。

 私が例えば宇宙物理学において宇宙には十二次元まであるということを示した論文を読むとき(そんなときはないが)、それがこのような固有名詞の交換が施されたデタラメの文章だったとしても、全く気がつかずに納得してしまう(あるいはどちらにせよ全く内容が理解できない)だろう。世界のどこかで流通しているかもしれないπ結合の定義や13世紀ブータンの歴史についての論文だって、もっと言えば生物工学や量子力学のような少しは私たちの生活に近いようなものについても、同じことが言える。私には少なくともそれらの論文がもしデタラメだったとしてもそれを指摘することはできない。べニューズがボルツマンであろうと、メジエールがクリゾストムであろうと、ヴィドラーがカンパーであろうと、誰にも違いはわかるまい。
 私たちの世界はモノの呼び名を決めることによって成り立っている。少なくとも学問はそのようにして世界を表象する。その呼び名にある程度の一貫性があるという信頼の上に、アカデミックの構築した世界は成り立っている。そこに私たちは住み、恩恵を受けることができる。
 しかしそんな命名の網目を狂わせていくことは案外簡単なようだ。論文の固有名詞は、人目につかない場所でいとも簡単にすり替えられてしまう。学問が生み出す言葉はその形式を遵守したままに、現実から離れていく。もともと名前だった単語たちは、指示していたモノから離れ、自由に漂い始めるのだ。
 そうしてできるのは、異世界の論文、異世界の学問だ。表象としての異世界の創作だ。

 盤石に見えるアカデミックな世界の、その髄まで入り込んでいる、文字をつかさどる機械。パソコンの変換機能が少しずつ固有名詞を交換していくことによって、既往の堅固なランガージュは小さなズレを内包していく。そうして薄っぺらな表層の言語が広がっていくだろう。しかしその薄っぺらさにこそ、豊かさがあるかもしれない。表象の遊戯としての詩が広がっているかもしれない。

 だとしたら、人間へのこの小さな反乱を、私は応援したい。

 

 

 

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