1、 ルクーの生涯

 まずは彼の伝記的事実をまとめてみよう。
 ジャン=ジャック・ルクー(Jean-Jacques Lequeu)は1757年9月14日、ルーアンでフランソワ=ロマン・ルクーの元に生まれた。1766年よりルーアン科学・文学・芸術アカデミーのデッサン・絵画・建築無償学校にて、画家ジャン=バプティスト・デシャンと建築家ル・ブリュマンの教育を受ける。建築の分野でいくつかの賞を得たのち、1779年からはパリの建築アカデミーへ移った。同年にはジャック=ジェルマン・スフロとその甥フランソワ・スフロに雇われ、パンテオンの設計などに関わった。1786年にルーアン科学・文学・芸術王立アカデミーに準会員の建築家として登録され、革命後1790、91年には連邦祭の装飾に公立アトリエを率いて参加している。1793年からは土地登記局(Bureau du cadastre)の、97年からは公共事業委員会(Commission des traveaux publics)の、いずれも1級画工(dessinateur de première classe)として働いた。同じ93年からは9年間にわたり、エコール・ポリテクニークの2級画工のポストについた。1802年より内務省の地図製作局や統計局の第一測量画工(premier dessinateur géographe)の職を得、最終的には市民建造物素描局(Bureau de Dessin des Bâtiments civils)に落ち着いたのだった。その後1815年9月18日に退職金を受け取っている。離職後は、サロンへの出品を試み、新聞や雑誌に幾度も彼の未公開の作品を宣伝する記事を載せた記録が残っているが、めぼしい効果をあげることはなかったようである。1825年には当時の王立図書館(現在の国立図書館)にルクーのデッサン、原稿、水彩などの作品が寄贈された。そして1826年3月28日、2区のla rue Saint-Sauveurにあるアパートで、ルクーは69年の生涯を終えることになる。
 彼が学生時代その実力を認められていたことは確かだが、パリへ赴いて以降のキャリアはお世辞にも順調とは言えないものだった。それは生年と享年をルクーと同じくする建築家・画家ジャン=トマス・ティボーがエリゼ宮を設計し、エコール・デ・ボザールの教師として働いていたことを鑑みれば自ずと理解できる。ルクーは数々のドローイングを残してはいるが、建築家として自ら設計した建物を後世に残すには至らず、また画工(dessinateur)としてもデッサンを売って生計を立てることはできなかったようである。しかしながら、同時代的には「敗者」の側にまわったのだとしても、彼の謎めいた夥しいデッサンは我々の時代に至るまで関心の対象となり続けている。研究対象としてのルクーは歴史の断絶点としての大役を押し付けられている感が拭えないが、何より18/19世紀の作品として彼の生み出したイメージと対面するために、次項では当時の建築家や画家の置かれた状況を前後の時代に渡る変化に着目しながらまとめてみよう。

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