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流していく

固まった完成形というものに憧れるけど本当はそんなものは存在しなくて不断の流れの中の一瞬を取り出したものを完成形だと錯覚しているに過ぎない。多分。これは先日千秋楽を終えた演劇を踏まえて感じたことで日々の過ごし方や生き方に拡張することも出来る気づきだと思うけれど一旦演劇に話を絞って書いてみる。

演劇をやっていて本番週に入ると毎回の本番をこなす中で「今日の出来はどうだった」という話になる。前の回より良くできたかもしくは悪かったか。公演全体を通じてどの回が良かったか。疑う余地もなく採用していたフレームだったけれどこうなってみるとあまり意味がないかもしれない。朝の9時と夜の9時に優劣が存在しないようにどの本番にも本来優劣は存在しない。その日その時その瞬間でいかに存在したかがあるだけ。これは別に無意識でやればいいというわけではなくて例えばその瞬間で舞台上で発生していることにいかに適切に反応できるかということで。調子の悪いor良い共演者の存在をどう引き受けるか。客席で咳込む人がいたとしたらその存在をどう引き受けるか。暑いか寒いか湿気ているか。無数の変数が生み出す震えの渦に自分を投じてみることが出来ているか。投じた上で任意の方向へ向かって流れを導いていけたか。

上演中に舞台の上を蠅が飛んでいる時がある。あの蠅をどう引き受けるかは私にとってとても大事な問題。凄い真面目なシーンでぶんぶんと一匹の蠅が飛んでいることがある。あの蠅がいなかったらもっと良いシーンになったろうになと思いかけて判断を一度保留してみる。蠅が飛んでいるだけでぶち壊しになってしまうような演劇は良い演劇とは言えないんじゃないか(とは思いつつ私もそういう演劇をやっている時の方が多いけど)。蠅っていうのはあくまで比喩だから何でも良い。携帯が鳴るとかでも良い。脳裏に描かれていた完成図を破壊するような偶然が紛れ込んできた時に受けとめて流していくようなしなやかさがあるような舞台が良い。

「稽古」なる工程が演劇にはあるのだけどあれの意味が未だによくわかっていない。意味というか意義というか。きちんと言葉に落とし込めていない。もちろん稽古が無いと本番は迎えられない。そんな本番はしっちゃかめっちゃかな混沌に陥ってしまうだけだろうと思う。でも完成形を確認するだけの稽古時間ならそれにどれほどの意味があるんだろうと思う。決まった完成形に縛られて今その瞬間を生きられなくなるならそんな完成形は捨てたほうが良い。だから稽古って何をする場なのかよくわからない。こうやったら上手くいきそうだよねという命綱を練り上げていく場なのだろうけどその命綱は実は役に立たない。その命綱は存在を忘れたときに初めて機能するものだ。そんなような気がする。もう少し上手い言い方がありそうだけど。

「命綱」ってちょっとガッチリしたイメージだなと思い直した。形あるものをイメージしてしまう。その出発点がそもそもズレているのかもしれない。人のひとりひとりが纏っている不確かなエネルギーらしきものがあるとしてそれはとても人の手で制御できるものではないとしてなんとか戦略を持って調教しようと試みる。ファンタジーな例えで笑ってしまうけど魔法使いが術の練習をして失敗すると力の反動でドカーンってなるみたいなそういうやつ。その為の鍛錬の場っぽいけどどうなんだ稽古。そしてそんな過程の中で徐々にコントロールできるようになったエネルギーを可視化するために設けられた枠組みを我々は時々「作品」と呼んだりするのだとそう考えてみる。

本番までの流れは建築物を組み立てるために物資を管理しながら進める工事日程のようなものを想像していたけどこれも違うなと思った。それよりも川下りっぽい。岩にぶつかるし急流もあるし突然の氾濫もある。流していったほうが良いなと思った。更に言うと流していくし流れていく。流れこそが自分だ。そう気づく事にこの営みの醍醐味がある。昔(たしか小学校高学年だった)台風一過の後の川の流れの中を一羽の水鳥が平然とした佇まいで流されていくのを見たことがある。あの鳥はあの日あの時あの瞬間の川と調和していた。ああいうことかもしれない。記憶の中のあの一羽が今現在の私にまで響いている。

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