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メモ

昨日、舞台の出演を一つ終えましたので、雑記的に思ったことをメモしておきます。

・外部の団体で知らない方のほうが多い稽古場だった。それでも、かなり居心地よく過ごせた。私には環境に応じて表出する自分を変える臨機応変さはない。ただ受け入れていただいた、という実感がある。皆が社会人経験者だったから起きたことだと思う。社会人は優しい。

・最近はもっぱら自分は出演せずに演出に回ることが多かったので、久しぶりの役者一本勝負だった。当たり前すぎるけど、自分の演技って自分で見れないのでマジで怖いです。当人は気持ちよくやっててもハタから見たらハチャメチャ大根芝居で、なのにみんなの謎の気遣いで誰からも指摘されないとか普通に起こりうると思っているので、稽古中は嫌な汗を沢山かいた。舞監のヒガシさんから「想像の5倍は演技がウマかった」と褒めてもらって一瞬天にも昇る心地になったものの、当初の想像がどの程度のウマさだったのか気になりつつ、上記の背景もあり、どの程度マシな演技だったのか自信がない。人前に出るのはやっぱり怖いという素朴な気持ちが強い。でも役者ならではの「究極的には台詞を覚えてやることをやっていればOKだよね」な割り切り感、劇のために成すべき事が明確な感覚は気持ちがよかった(主宰や演出は、無限にタスクが増えて全てを制御しきれるわけではないのに責任を一手に引き受けるので大変)。

・演出の石橋さんは自分で演技をやってみせるとかはなく、台詞の音とかテンション感を決め切るとかもなく、あくまで役者に委ねながら解釈や見え方を擦り合わせていく演出方針だった。素朴に演出スタイルとして勉強になり、正解を提示されきらないからこそ頑張ろうと燃える気持ちも芽生えた。ご本人は「自分の演出観はやはりアーティストではなく、俳優同士の噛み合わせを最大化する調整役」とおっしゃるけど、演出の在り方として大人だと思う。そして我が身を顧みる。「俳優同士の噛み合わせを最大化する調整役」に憧れがあるものの、押し出したい自我がムズムズしていて、かと言って「アーティスト」になるには俯瞰した羞恥心が燻っている。あと何回演出をやる機会があるかわからないけど、その範囲で早く解を出したい。

・「今後バリバリ売れていきたい!」「ちゃんと演技でお金を稼げるようになりたい!」とガッツに燃える出演者の方がいた。凄い。私はあと数年で30歳なんだけど、もう気の合う人としかやりたくないし、演劇は産業として崩壊しているし、成り上がったとしてもその先に何もない終わった界隈だといつからか諦めきってしまっているのに気付かされた。冷めた中年って恥ずかしいよね。むしろアラサーだからこそ世の中に打って出る前向きな気持ちがないとな、と感化された。だからどうしたい、とかは今のところ無いけど。

・小劇場楽園という下北沢の劇場で本番をおこなった。ここはわりと「演劇!」って感じの劇場だった。そこに起因してか、稽古段階での面白さと劇場入りしてからで、微妙に面白さのニュアンスが変わったような気もする。区民施設の会議室で稽古をした際の、善とも悪とも言い切れないマダラ模様な禍々しさが日常の中に渦巻く居心地の悪さ。劇場入りしてからの、明確なコントラストが入り混じりながら緊張感を高めていく強度ある物語の面白さ。どちらも甲乙つけ難いと思いつつ、ともあれ場所から受ける影響って馬鹿にならないなと考えさせられた。

・平日は社会人をしながら傍らで参加している人が殆どを占める座組だった。だからなのか何なのか、各々が公演を通じてやりたいことがクリアに見えつつ、その上で折衝しあっている感覚が面白かった。自己表現したい、友達とワイワイしたい、褒められたい、笑いをとりたい、期待される役割をこなしたい、才能ある人の助けになりたい、等々。社会人にとって演劇をするのは当然ではなくそして食い扶持でもない。わざわざクソ忙しい中で時間をとって演劇をするに足る理由が必ずある。私はその辺フワフワしている。そんな中で、刺激を求めて目の前にぶら下がる選択肢に軽率に全ベットしている。近いうちにそうもいかなくなると思う。だから「何がしたいのか」「何が楽しいのか」の優先順位は考えておいてしかるべきだ。判断を間違えないために。


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