見出し画像

10/2の日記

朝起きてから夜寝るまで、コンビニくらいにしか外出しない日々が続いている。別に悪い気はしない。陳列されたフードやスイーツの変化に季節の移り替わりを感じる。セルフレジの便利さを知った。誰とも会話しないで買い物ができるのは嬉しい。

椅子を深く倒して、机の上に足をのせて、合間にコーヒーをすすりながら仕事をしている。部屋のクオリティは確実に上がったと思う。と言っても、マイナスからゼロになったくらいのものだけど。ついこないだまで、万年床に引っ越し時から未開封のままの段ボールを置いてその上を作業スペースにしていたのを、再就職に合わせて環境を刷新した。椅子と机はあるだけで人間の尊厳を得られた気持ちになる。淀みが祓われ、文明の音が聞こえてくる。何故今まで買わなかったのか。椅子と机は良いですよ、と過去の自分に教えたい。

残業をすることになりそうだとわかると、間食を買いに今度は商店街へと足をのばす。日替わりメニューを売っている鯛焼き屋へ。生チョコレート味目当てで行ったのだけど残念それは昨日までの販売で、本日はカボチャプリン味だった。夕食もついでに買っていこうと数ヶ月前まで働いていた海鮮丼屋へも寄っていく。知らない店員がレジを打っていた。厨房へ声をかければ顔なじみの面々がいるのだろうけど微妙にシコリの残る辞め方をしたのでそれはせず、粛々と丼を買って帰った。「別の店へ行けよ」とは言わないでほしい。近隣で海鮮を安く食えるのはこの店だけなのだから。海鮮がとっても好きなのだから。とかなんとか勝手に言い訳を準備していると、最近になって近場に持ち帰り専門のスシローがオープンしていた。切り替えていくかもしれない。

日付が変わって1時から2時くらいには寝る。翌朝は9時から10時には起きて業務を開始する。気づけばさほど苦にもならず起床と睡眠のサイクルが出来上がっていた。学生時代からずっと、朝起きることに関して頭のどこかで「ギャンブルだから失敗しても仕方ない」と考えていた。遅刻上等、成功したら儲けもの。目覚まし時計とかいう無駄でしかない嘘の機械。今にして思えば大間違いの認識だった。体内時計はルーチンを固定していくことで構築されていき、やがて同じ時間に起きられるようになる。四半世紀生きてようやく学んだ。自分の生活は自分でコントロールできる。
似たような話で言うと、最近の自分は一日の食事を三回に収めることが出来るようにもなってきた。今までは突発的な衝動で油そばを食いに行った上で帰宅後には親が作り置いてくれた夕飯を食べ、その後誘いがあれば再度外に出て更に飲んで食う、といった全く無計画な食生活を送っていたのだけど、栄養管理アプリを入れ、そもそも居酒屋に行く機会もめっきり減った結果、日の食事は三回になっていった。今にして思えば後先を考えて行動すれば全て解決しそうなものだけど、自分のことを自分で制御するのは不可能だと何故か思いこもうとしていたようだった。

ただ、肩透かしを食らったような、なんだつまんねえの、と言いたくなる気持ちもある。

昨年の10月からの1年間で、演劇の公演を5つやった。うち一つは体調不良者が出た都合で中止になったけれど。最新のもので今年の7月、オリンピック開催の直前に。終演後22時頃までバラシをして、汗と木屑まみれの体をひきずりながら帰宅した。王子駅からの線路沿いを黙々と歩きながら、翌日からの仕事に対して気持ちの落差が全くないのが不思議だったのを覚えている。家に着いて風呂に入り、就寝し、朝になったら起床し、デスクに向かった。そして出勤報告をSlackに流した。
今日のことは昨日になって時間は依然と流れていく。それが衣服のボタンを一つ一つかけていくのと変わらないくらいには自然なこととして腹落ちしていた。今までは終演ごとに「完!」と物語を書き終えて冒険から日常に帰還するような寂しさがあった。連綿と続く時間の流れへのささやかな反抗として、せめて生活の中に読点を打っていた。だけど今回はそもそも「終えた」と思うことが無かった。

今の自分は、演劇も仕事もどこか地続きで、内容こそ異なれど根本的には同じことをしていると思っている。何かしらの計画を遂行しようとすることを通じて、自分や他人や世界を知る。ただその過程で採用する手段が違う。つまり漠然と採用してきた二項対立が失効して、演劇が特別でなくなったんだと思う。言うまでもなくこれは悲しいことではないし、かといって誇ることでもない。単純にフラットになった。だから何も気負うことなく観たい演劇は観に行くし、もし何かをやるのならやることが自然だと感じられる時にやればいいと思うし、その時には万難を排して何かをやるだろう。またそのうち考えが変わるかもしれないけど、今の状態には納得がある。

役者のKと会って話す機会があったのは池袋の喫茶店だった。本当は話の一言一句を書き残しておきたかったくらいなのだけど、あいにく自分は記憶力が悪く正確な文言は忘れてしまった。でもその場で出た言葉は大きな収穫になった。Kは稽古中の僕を評して「言いたいことがありそうなのに、どこかで一線を引いているようにみえたのが悔しかった」と、実に衒いなく伝えてきた。ああいう瞬間の感動は、どう書いたら一番伝えられるだろう。正体を見られたような恥ずかしさに「あはは……」と嫌な汗をかきつつ、妙に清々しい。言葉によって自分の輪郭らしきものが形を与えられていく。こういった経験は折に触れて思い出す。背筋が伸びて、空気が澄み、遠くの景色まで良く見えて、自分が何者なのかがよくわかるような気がしてくる。

これらの言葉は直接の毒や薬になったというわけではないけど、とても大切なことを明らかにしてくれる。それは「私」が客観的にどう見えているか、ということだ。他人から指摘されることで初めて「私」への理解が深められるのだと私は思う。そしてそれを可能にするのは、「私」と「あなた」の間にある「距離」であるに違いない。隔たりが大切だ。隔たりを無かったことにはしたくないし、おいそれと埋めようとも思わない。むしろ隔たりを言葉によってなぞり直していきたい。狭間に言葉を一つ一つ置いていく作業に時間を費やしてみたい。そうやって、もっと自分のことを知っていきたい。

気付かないうちに飲み代をおごっていたらしい。「返しそびれていた3000円を渡したい」とOから連絡が来た。律義さに感心しながら黙っていれば払わずに済むものをとも思いつつ、「LINE Payでいただければ」と僕。ちょうどその頃の自分はキャッシュレス決済の便利さに革命的な衝撃を受けていた。財布を無くしたと勘違いして全クレジットカードを停止した結果のやむをえない処置だったけど、気分は既にキャッシュレス決済側の人間だった。というわけで、ちょっとイキって「LINE Pay」と指定してみたのだった。
Oは使うのが初めてだったらしく、「了解!ちょっと時間がかかるけどやっとく!」と返信が帰ってきた。それから今日に至るまで約2ヶ月間、音沙汰がない。LINEの既読もつかない。LINE Payが地雷だったのだろうか。僕のイキりの匂いが鼻について踏み倒されたのだろうか。しかしSNSの情報によれば、Oは早稲田大学主催のシェイクスピアの芝居に出ているそうである。公演映像を手に入れて見ると、朗々と台詞を発するOの姿がそこにはあった。

もしこの日記を見ていたらOさん、連絡をください。
そして、3000円を返してください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?