見出し画像

8/9の日記

店頭に来る客からの注文とUberEatsのオーダーが重なると、にわかに厨房が慌ただしくなる。急いでレジを打つ。トレー上におつりの小銭を等間隔に配置する。お札を数えるのは苦手だから、一枚ずつ置く。気づけば厨房からあがってきた海鮮丼がレジ横に溜まりだしている。袋に詰めなくてはいけない。醤油とワサビを入れるのを忘れてはならない。UberEatsならお吸い物の素も入れる必要がある。タイマーの音が鳴る。白米が炊けたのだ。狭い厨房の中をすり抜けて巨大な炊飯器の前まで移動し、蓋を開ける。むわっと蒸気が顔にぶち当たり、眼鏡は一瞬で曇って何も見えなくなる。小さな憤りを覚える。炊き立ての熱いうちに米へ酢を混ぜなければならない。800ml。入れた後はやはり巨大なシャモジで何度も米をひっくり返す。米の山を作っては切り崩す。まんべんなく米に酢を吸収させるためには必要な工程となる。蒸した米の匂いと、鼻をつく酢の匂いの中で腕から汗が噴き出す。何も考えていない。自分が機械のように動き続けられていることに満足を覚える。

自分は先月の中頃から海鮮丼屋でアルバイトをしている。その店は半年ほど前に駅の改札口を出て真横にオープンしていた。貯金も底をついて生活に困窮した自分はバイト募集の張り紙を見て迷わず応募のメールを送った。ありがたく採用された。交通費を出す必要のない地元の人を中心に採用をしているようで、その条件に適ったということだ。資本によって、地元のプー太郎が労働力として活用された。素晴らしいことだと思う。

朝シフトで出勤すると、必ず仕込み作業をやることになる。足りない食材を解凍し、その上で順次細かく捌いて個々のボックスに分類していく。時折業者の人が来る。事前に発注された食材達が届けられる。「よ、調子はどうだい」と店長が話しかけると、チルド上のマグロが入ったトレーを担ぎながら「今日はどういうわけか暇なんですよ」と運転手の方が生真面目な調子で返事をしていた。店長はチルドマグロをペーパーで丁寧に一個ずつ包んでいく。狭い店内を掃き掃除しながらその様を見ていた。こうして運ばれてきたマグロたちは数時間後には包丁によってひと口大に切られ、更に数時間後には丼に盛り付けられ、持ち帰られ、あるいはUberEatsによって自転車で運ばれて、ついにはどこかの誰かに食されて胃袋へ収まることになる。それが理解できた。これが流通だ、と納得がいった。心地良かった。世界が明確に見えてくるのは楽しい。今までの自分はとても無知だったのだと思った。

大学時代に所属していた文芸サークルのE先輩は今や作家デビューされて、精力的に作品を発表している。次世代の寵児になるかもしれない方だと認識している。E先輩は浮世離れた魅力で周囲の人間を虜にする。当時の僕の言葉を使うなら「みんながEさんの人生にどう爪痕をのこすか必死」にさせてしまうような方だった。そんなE先輩も、更に一学年上のR先輩の前では何やら殊勝だった。小説に関して舌鋒鋭いR先輩はまだ小説家志望だったE先輩に痛烈な駄目出しをした。E先輩は負けじと次回作を次々と書き上げた。戦いを通じて能力を高めあうライバル同士のような、互いへの深い信頼に裏打ちされた赤入れと執筆の応酬があった、のかは知らないけれど、他人が立ち入りできない領域があることを感じさせた。そんな領域が、部室でのふとしたやり取りから時折顔を覗かせる。まだ自意識過剰な一年生の自分には堪らなかった。当時居酒屋でクダを巻く際には、「人生を物語にするな」「あんなのほぼセックスじゃねーか」と目に見えない二人の絆を精一杯腐したのを思い出す。簡単に言えば疎外感だった。先日、E先輩はそんなR先輩との関係をツイートにまとめていた。

サークルの中で一人小説ガチ勢だった先輩がいて、私は延々と小説を書いてはその先輩に「これはゴミだな」「何これ?」「意図が分かる」「割といい」「この売文野郎」などのありがたい講評を受けてはガチギレし、いつか見返してやる!と思いながらデビューした瞬間、そっちが編集者になったんですよ

このツイートは大いにバズった。触発されて、当時の文芸サークルの皆々も言及するツイートをしだした。玉突きが次々と連鎖していくように言葉は持ち出された。便乗するか迷った挙句、結局自分も何かしらをツイートした。こういう際にいっちょ物申しができるのは、当事者の特権と言わざるを得ない。非常にありがたいことである。

先日、後輩Yの誕生日ということで催された飲み会に参加した。一次会は学生時代に界隈が愛用していた居酒屋。二次会は近場の公園だった。公園で我々はまだ在学中のはるか年下の学生らに絡まれた。明らかに文化圏の違う絡み方をされ、自分は後輩Yらを見捨てて黙って帰った。案の定、数分後には殴り合いの乱闘に発展したらしい。Yはやはりこの経緯をツイートした。

大学近くの公園で在学生(たぶん四代くらい空いた後輩)に絡まれ、ボコボコにされるという得難い経験をしました

このツイートはそれとなく伸びた。Yの誕生日飲み会には後輩Oと後輩Mと後輩Iもいた。彼らはそれぞれの価値観にのっとり、やはり一連の流れの言語化をおこなった。それらのツイート群もそれ相応の伸び方をした。その流れに触発されて、自分も何かしらをSNSに投稿した。

客足もピークを過ぎて店内が静かになると、そういうことをする余裕が生まれる。Twitterを閉じて携帯をポケットにしまうと、また厨房に戻る。夜にはまた忙しくなるから、それに備えてまた仕込み作業をしておく必要がある。ネギトロ、焼きハラス、サーモン切り身等は消費のスピードが早いから、だいたいこの時間帯には冷凍庫からパックを取り出して解凍をおこなわなくてはならない。ネギトロは溶けすぎてトロトロになるとあまり美味しくないのだそうだ。解凍済のネギトロを別容器に移し替えているとき、粘土をいじっていた図工の時間を思い出した。単純に触覚が似ているのもある。目の前に積みあがっていくムニュムニュしたピンク色のネギトロを見ていると、食べ物だって物なんだなとわかる。こういう作業をしている合間も単発的に注文は入る。店長の指令で多少面倒なメニューでも自分は練習として作ることになる。炙り作業は少し興奮する。マヨネーズやチーズのトッピングをして炙る時なんかは緊張する。あれらは急速に焦げるので、本当にこれでいいのかと不安になるから。温玉は綺麗に割れない。崩れる。炙りサーモンも綺麗に盛り付けられない。崩れる。それでもそれらは丼に収められて、レジ袋に入れられて、お金をもらって、どこかに運ばれていく。小盛の時はお吸い物の素が付いてくる。店内での食事の場合は+100円でお味噌汁も提供している。

こういう時には、同じシフトで入っている方々と雑談をすることもある。大学生が多い。女性が多い。最年長は僕の一歳上の方で、彼女はちゃきちゃきした姉御肌キャラとして扱われている。実際仕事の手も早い。彼女は彼氏と一緒に福島から上京してきたらしい。彼氏は仕事を探しており、ネズミ講のような職に就きそうになったが、彼女が諭して止めさせたらしい。この話を、彼女は二回僕に聞かせてくれた。同じ話が繰り返された場合、それは人格理解に関して重要なエピソードである可能性が高い。僕はそう思っているので、頭に残っている。そういえば一度、彼女はオフ日に彼氏を連れて丼を買いに来た。彼は、メリケンサックのような指輪を全ての指に嵌めていた。他にもう一人大学四年生で秋にはバイトを辞める男性がいる。黒く焼けた顔を見て体育会系だと思ったらやはりサッカーサークル所属。物流系に就職するらしい。「俺、面接はうまいんですよ。だからそのうち本来の希望だったマスコミ系に転職するつもりです」と漬け醤油にまみれた服から着替えつつ彼は教えてくれた。自分はパンパンに張ったふくらはぎを握りこぶしで殴りつけながら「へえ、そうなんですか、きっと上手くいきますよ」と返した。立ち仕事は疲れる。だいたい交代時間の30分前くらいから立ってられなくなり、どこかに肘をつきながら残り時間をやり過ごしている。自分の下半身は貧弱なのだと知った。この世界のすべての立ち仕事の人々を尊敬する。着替え終わると、「ああ、やだやだもう疲れたあ」とつぶやきながらまかないの海鮮丼を食べる。アルバイトは全メニュー200円引きで、それがまかないとなる。海鮮丼に不味い場合があるか知らないけど、普通に食える味だと思う。出勤するたびに違うメニューを食べるようにしている。少しでもこの店に愛着がわくことを願って。注文するたびに店長は「おおい、サンダー!大盛じゃなくていいのかあ!!」と大仰に揶揄う。まず、自分はサンダーと呼ばれている。昔のプロレスラーにサンダー杉山というレスラーがいて、僕は杉山なので、だからサンダーになった。そしてもう一点、僕は一度も大盛で注文をしたことがない。だけど僕自身小太りなので、こう揶揄われている。こういう文脈がある。そして、僕が「いや~普通盛でいいっすよ~」と特に捻りのない返事をすると、店長はやはり大仰に「はっはっは!」と笑って、会話は終わる。特に楽しくもなければ、嫌な気持ちもない。会話が深化していかない代わりに円滑がある。会話というものの意義を考えるなら、それへの回答の一つとしてこの『型』は理解できる。ありがたい。

海鮮問屋から駅を挟んで向こう側、階段を上っていった先にコンビニがある。だいたいバイト終わりにここでサクレレモンを買う。140円。ある日小銭をトレーに置きながら、梶井基次郎で『檸檬』って話があったなとふと思い出した。檸檬を爆弾に見立てて古本屋に置いていくヤバい男の話、だったと思う。そんな妄想は面白いだろうと思った。実は僕の作っているのが海鮮丼じゃなくて爆弾なのだとしたら、ちょっと凄い。たしかにネギトロなんかは専用のディッシャーで丸く盛り付けるから爆弾に似ている。お客さんすみません、実はこれ爆弾なんです、と。くだらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?