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9/30の日記

海鮮丼屋にも秋が来た。厨房にいても汗を一滴もかかない。炊き立ての米に酢を加えてかき混ぜるのにもできるだけ冷房直下の位置を陣取ろうと悪戦苦闘していた日々が嘘のように涼しくなってしまった。秋の新メニュー、漬けバラ温玉コチュジャン丼の売れ行きは不調だ。名前から味が想像できないのが原因ではないかと睨んでいる。しかし僕は結構気に入っていて、先日はシフトも入っていないのにわざわざ店頭まで足を運んで大盛を注文した。コチュジャンの仄かな辛みと、マグロ・サーモン・イカ・タコの織り成す多様な食感、そして温玉によるまろみがマッチしていて、つまりやみつきになっている。アルバイトの女子大生も「最高傑作だと思いました」と賛美を惜しまない。店長は「酒のつまみに最適だよな」と同意を求めてくる。そうは思わなくとも、一旦は首肯する自分がいる。

アルバイトの同僚のHさんは、元々共同通信の記者をされていたが退職し、一度は帰郷したものの現在は作家を志望し再度上京してきたのだという。カウンターに腕をつきながらHさんは「書かなきゃ書かなきゃと思ってはいるんだけど書けていないんですよねえ」と漏らした。困っているのか困っていないのかよくわからない響きだった。「締め切りがない、というのは逆に難しいもんなんですよ」とHさんは続けた。「なんて言ってるうちにそのうち人生の締め切りがきちまうぞ」と返す店長。そして一人で「わはは」と笑った。僕はブツを仕込むべく、巨大な卵焼きを黙々と包丁で等分していた。細かい立方体状になった卵焼きが手元に溜まっていくのを眺めながら、合間合間に適当な相槌を打つ。てっきりHさんは何かの文学賞に応募しようとしているのかと思っていたが、どうやら違うらしい。Hさんの講釈が始まった。
「サンダーみたいな素人(僕は『サンダー』と呼ばれている)が本を出そうと思ったら賞への応募を考えるのかもしれないけど、僕は記者時代に知り合った編集のツテがあるから。執筆の暁にはうちで是非出版したいって声をもらっているんだよ。それに賞への応募は枚数が決まっているからね。数百枚っぽっちなんて文庫の厚さにしたらこんなもんだよ!僕の書こうとしているのはそういうものじゃない。まあ、あちこちに編集さんの知り合いはいるからさ。講談社ノンフィクション大賞って知ってる?あれって選考過程は基本的に公開されていないんだけど、講談社の編集さんから最終選考に僕の本が残っていたというのを聞いたことがあるよ。まあ受賞は出来なかったけど、審査員の方が『こういう作品を評価していかなきゃいけない』と激賞してくれたみたいでね」
それは凄いですね、と大仰に驚いてみせればいいとわかった。なのにその瞬間、喉が躊躇してしまった。Hさんが以前、ハンセン病患者の国家賠償請求訴訟裁判後の日々を追ったノンフィクションを執筆・出版していたことは話に聞いていた。本人の言葉に寄れば、「報道のくだらない現実を前にして心が折れ、それでもと足掻いた結果書くことが出来た」のだそうだ。その本のことを言っているのだ。Hさんの誇示するような調子から、そんな魂の結晶が選考に残った事実は勲章のような役割を果たしているのだとわかった。だけどだからこそ余計に、今Hさんが僕を前にしようとしているのが一時的な優越感の獲得に過ぎないのなら、その換金は許されないことに感じられて仕方なかった。
ブツになった卵焼きを片付けて、僕はトロサーモンを切り始めた。
「でもまあ、確かに普通の人が作家デビューをしようと思ったら賞への応募だよね。サンダーはさ、文学部なんでしょ?周りに作家志望の人なんて沢山いたでしょ」
「いましたよ」
「その中からさ、デビューした人はいた?」
Hさんの会話は、道筋をどことなく指定しているように感じられた。その日に限って、何故かその事が無性に癇に障った。僕は、出来るだけ抑揚を無くして、努めて無感情に「はい、先輩から二人ほど」と答えた。
「ふうん……その人たちとは親しかったの?」
「ええ、まあ会話をするくらいには」
「ああ、そう……」
しばらく沈黙が続いた。ほっと気を緩めたその途端、Hさんがまた口を開いた。
「サンダー自身はさ、小説を書いてみようとか思わなかったわけ?」
「……そういうのは、あんまりないですね」
「演劇やってたんだし、戯曲とかさあ」
「書こうと思ったこともないですね、不思議と」
「それは勿体ない!」
僕は奥歯を噛み締めつつ、捌いたトロサーモンの下へ細長いスライサーを滑り込ませると一気に持ち上げて、ステンレストレイの中に放り込んだ。
「……ような気がしちゃうなあ、俺なんかは!一度書いてみればさ、案外書けちゃうもんだよ。俺なんかもさ、小学校の時は文章を書くのなんて大嫌いだったのね。読書感想文も苦手でさ……あれって、『あなたの思ったことを書きなさい』って教えるでしょ。あれってさ、現代教育の良くない……」
「すみません!注文、してもいいですか」
簾の向こうから声が響いてきた。気づかないうちに来店客があったのだ。会話はここで打ち切りとなった。応対のため、Hさんは颯爽とレジ前へ歩いていった。コルセットで固定された直っすぐな背筋が、視界の隅を横切っていく。

閉店作業後、Hさんは早々と着替えて「じゃねン」とだけ告げると革ジャンを羽織りさっさと帰っていった。更衣室に一人残されると、次第に全身の血液が沈殿していくようだった。自分の苛立ちが正当なのか、それとも過剰反応なのかがわからない。その事が余計に自分を悶々とさせる。畳に寝転んで、先程のやり取りを反芻する。液晶上に表示されたSNSの投稿たちが脳を上滑りしていく。段々と感情の起源がどこなのか、わかりたくもなくなってきた。鬱屈とした気分だけが残った。すると、薄らと声が聞こえてきた。
「電気と、戸締りだけ確認しておいてくれよォー……!」
一階で売り上げの計算をしている店長が呼び掛けているのだ。僕は、階段から顔を出して「わかりました!」と返事をした。
すると、この日で一番大きい声が出た。

店前のカラーコーンを跨いで、駅へ向かって歩き出した。夜の寒さは半袖が既に間違いになったことを伝えてくれている。秋口のこの凛とした空気が好きな人はわりと多いんじゃないかと思う。自分もそうだ。立ち止まってみると、不意打ちのように震えが来ることがある。その身震いの中で、目が覚めるような、自分が世界で一人きりのような、でもそれが別に気にもならないような、そんな気持ちになる。
ずっとHさんのことを考えていた。僕とHさんは違う。その根本にあるものをわかりたかったからだ。おそらく、彼は書けば書くほど、現実に近づいていくことが出来るのだろうと思った。そして本人もそれを望んでいる。これはなにも文章に限った話ではなくて、目的を何処に据えるかという、つまり信仰の問題なのだろうと思った。Hさんと僕は、宗教が違っている。互いにその事を知らなかった。僕はHさんのように、現実へ向かうことをおそらくはしたくない。僕は、僕の神様を信じていたい。信仰の喜びも苦しみも、ただ黙って胸元に隠しておきたい。

そこまで考えを整理して、ふと立ち止まった。今の今まで、自分にとっての「聖書」とは何なのか、言葉にしようと試みたことがないことに気づいた。

ガールズバーの客引きの女性たちが、宛先もなく「いかがっすかー」と呟きながら腰を叩いている。前を横切りつつ、自分も最近尻に違和感があることを思い出した。立ち仕事がもたらす弊害だ。僕は整体に行きたい。1時間2980円で中国人が揉んでくれるタイプじゃなくて、由緒ある正しい整体へ行ってほぐされたい。LINEを開いて、次にやる予定の演劇の脚本を書いてくれる後輩へ連絡をした。「ここしかないというタイミングで、エド・はるみのグーグーダンスを入れてほしい」。

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