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「神田館の大将」・佐藤市太郎

今回は、前回の記事「大正の郷土史エピソード3題」で触れた「神田館の大将」こと、実業家、佐藤市太郎(さとう・いちたろう)についてです。
旭川の郷土史を調べていますと、多くの魅力的な人に出会います。
なかでも彼は、実に人間臭いところがワタクシのお気に入りです。
今回は、講演ではお話していますが、文字にはしていないお話です(部分的にはしていますが…)。
それではどうぞ!

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◆ 生い立ち


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画像1 佐藤市太郎(1867−1942・札幌市文化資料室蔵)

こちらが今回の主人公である佐藤市太郎。
残っている写真では一番若い頃のものです。
生まれたのは1867(慶應2年)、明治の世が始まる前の前の年です(慶応3年という説もあります)。
場所は、江戸の本所向島(ほんじょむこうじま)、隅田川を挟んで浅草の対岸、下町風情のあるところです。
実家は徳川直参の旗本でした。
ただ明治維新で侍の身分がなくなり、父親が地元で料理屋を始めたようです。

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画像2 明治期の本所向島(絵葉書)

しかし武士の商法だったのでしょうか。
父親の料理店は繁盛せず、1878(明治11)年に廃業してしまいます。
このとき市太郎は10歳ほど。
神田方面の床屋に奉公に出されます。
しかしそうした境遇にも市太郎はめげなかったようです。
その後、修行を積んで独立。
1892(明治25)年には、新天地である北海道に渡ります。
東京のあと、名古屋、そして九州で床屋を渡り歩き、腕を磨いたとする資料もあります。


◆ 新天地へ


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画像3 札幌中心部(明治30年代・絵葉書)

で、行き着いたのが、こちら札幌です。
今の札幌三越のある中心部、南1条西3丁目に、神田床という名の西洋風の高級理髪店を開業しました。
これが市太郎25歳頃のこと。
西洋理髪店で神田床、というネーミングはミスマッチのような気がします。
ただ実際、北海道で初めてバリカンを使ったモダンな理髪店だったと言われています。

おそらくそうした最新の技術はまだ北海道にはなく、自分の知識と技術なら必ずうまくいくという計算があったのではないでしょうか。
また彼は札幌に来てすぐ、それも目抜き通りの一等地に店を出しています。
このことから、本州で資金を貯め、それを元手に勝負をするため北海道に渡ってきたものと思われます。

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画像4 神田床の新聞広告(「札幌案内」より)

こうして開店した市太郎の神田床は見事に当たり、大繁盛します。       すぐに人を雇って技術を仕込み、札幌市内に本店と支店の4店を経営するという成功を収めました。                             上は当時の新聞広告ですが、「大勉強之親玉」と書いてあります。

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画像5 明治40年代の旭川(絵葉書)

さらに1900(明治33)年、市太郎は旭川に進出します。
当時の旭川は、陸軍第七(しち)師団が札幌から移されたことで好景気に沸いていました。
神田床はたちまちここでも人気を集め、旭川の店は3店に増えました。
まさに機を見るに敏ですね。

市太郎は、その後、当時の理容業団体のトップに就任するとともに、旭川進出の8年後には、本拠地を札幌から旭川に移します。
そして、これを機にまた大きな勝負に出ます。
それが興行界への進出。
具体的には活動写真館の経営でした。


◆ 興行界への転進


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画像6 神田館(改装前・「北海之礎」より)

興行主となった市太郎が最初に建てたのが、1911(明治44)年完成のこの活動写真館。
3階建ての堂々とした建物です。
旭川中心部の勧工場(かんこうば)という、いまのスーパーマーケットのような小売店の跡地に建てたこの施設、神田館と名付けられました。          正面に「THE CINEMATOGRAPH(シネマトグラフ)」と書かれているのが見えます。

このころ、北海道の活動写真は、劇場や寄席に映写機を持ち込んで上映するスタイルが一般的でした。
活動写真専門の常設館は、この前年、函館にできた錦輝館(きんきかん)が北海道で最初でした。
なので、この神田館、北海道で2番目の常設の活動写真館ということになります。

その後、市太郎は理髪店の経営を息子に任せ、活動写真事業の舵取りに専念します。
そして、1914(大正3)年には近くにあった劇場を買い取り、第二神田館として開業します(もとからあった神田館は第一神田館としました)

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画像7 第三神田館(「まちは生きている 旭川市街の今昔」より)

さらに翌年には、市内の寄席を買い取って第三神田館とします。
ただここは活動写真館と言うよりは、浪曲など寄席芸の興行の方が多かったようです。

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画像8 神田館3館の新聞広告(大正9年・旭川新聞)

こちらは当時の新聞広告です。
右が第一、真ん中が第二、左が第三神田館の広告です。
第一神田館は規模の大きい施設ですので、一度に多くの活動写真をかけることができました。
第三神田館は浪曲の興行のようです。

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画像9 札幌と函館の神田館(大正4年・「北海道拓殖写真帖」より)

一方、市太郎は旭川以外にもチェーン展開を図ります。
これは札幌の狸小路と函館に建てた神田館の写真です。
いずれも新築のモダンな建物でした。

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画像10 佐藤市太郎(札幌市文化資料室蔵)

市太郎は、神田床の旭川店を出した頃、ふるさとの東京に帰ったことがありました。
その時浅草で見た活動写真に強烈な印象を受けたことが、興行界進出のきっかけだったと話しています。

当時、札幌には、常設ではありませんが、活動写真を頻繁にかける劇場がいくつかありました。
一方、旭川ではそうした劇場はわずかでした。

このことを考えますと、ライバルの少ない旭川で本格的な活動写真館を経営すれば必ず当たると確信し、その思いで本拠地も旭川に移したのではないかと思われます。
ここらへん、市太郎の実業家としての如才のなさを感じます。


◆ 当時の活動写真事情


では、ここで活動写真をめぐる当時の北海道の状況について見ておきましょう。

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画像11 当時の映写機(「北海道映画史」より)

当時、使われていた映写機です。                      手回し式ですね。                             もちろん輸入品で、かなりの高額でした。

日本の活動写真は、エジソンが発明したキネマスコープが、1896(明治29)年から翌年にかけ、公開されたのが始まりです。
このときは、神戸、大阪、東京に次いで、1897(明治30)年4月に函館で公開されました。
ただこれはスクリーンに写すのではなく、一人ずつ覗き穴から覗いて動く映像を見るというものでした。

さらにこの3か月後には、スクリーン方式のシネマトグラフが、函館、小樽、札幌の3か所で公開されます。
なおこうした巡回映画が旭川に来たのはかなり後で、明治40年代に入ってからとされています。

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画像12 函館錦輝館通り(絵葉書)

一方、こちらは北海道最初の常設の活動写真館、錦輝館周辺を写した絵葉書です。
少し触れましたが、1910(明治43)年の錦輝館開業まで、北海道で行われていたのは巡回式の活動写真の上映でした。
また常設の施設ができても、当時はまだ音声はなく、活動弁士、活弁などと称された説明者が、台詞などをスクリーンの脇で付けました。

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画像13 岩見永次郎(「北海道映画史」より)

ちなみにこの錦輝館、建てたのは岩見永次郎(いわみ・えいじろう)という人物です。
その後、札幌、旭川にも進出し、旭川では錦座という歌舞伎も上演できる本格劇場(もちろん活動写真も)を経営します。
市太郎のいわばライバル的存在です。


◆ 「神田館の大将」


もう一度、市太郎に戻りましょう。

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画像14 第一神田館と師団道路(大正11年・絵葉書)

市太郎が旭川に初めに建てた第一神田館ですが、1917(大正6)年に大規模な改修工事が行われます。
改修後の姿がこの画像です。
望楼の部分を入れると5階建てという堂々たる姿。
師団道路と呼ばれた駅前メインストリートにそびえ立っています。
今で言えばランドマークでしょうか。
当時の旭川の街中ですと、どこからでも見えたと言います。

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画像15 別角度から(大正9年・絵葉書)

一方、こちらは通りの反対側から見た第一神田館と師団道路です。
行進しているのは、陸軍第七師団の部隊です。
大勢の人が神田館の窓などから行進を眺めています。
この建物からは、市太郎の実業家としてのスケールの大きさを感じます。

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画像16 正月の新聞広告(大正12年・旭川新聞)

こちらは1923(大正12)年正月の新聞の年始広告です。
旭川、函館、札幌に加え、夕張、釧路、帯広、北見など活動写真館だけで11館、その他の施設を入れると14もの施設が並んでいます。

「神田館の大将」。
北海道を代表する興行主となった市太郎についた異名です。


◆ お大尽市太郎


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画像17 木野工

そんな市太郎ですが、別の面もあったようです。
旭川出身の作家で、新聞記者でもあった木野工(きの・たくみ)は、このように書いています。

「神田館の大将」という呼び名が全道に知れ渡り、市太郎は遊びも盛んだったので、花柳界では佐藤市太郎氏を知らなくても「神田館の大将」を知らぬものはいなかった。札幌では見番も経営した(筆者注=見番はその地の芸者を管理する組織のこと)」(「旭川今昔ばなし」より)

他にも、市太郎は遊郭の妓楼のかなりのお得意さんであったことなども伝わっています。                                  今の世からすると、褒められたことではありませんが、まあ、仕事一辺倒の人ではなかったわけですね。

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画像18 旭川市役所庁舎(昭和6年・絵葉書)

そんな市太郎ですが、周囲に押され、1922(大正11)年には、旭川市の第1期の市会議員となります。
そして1934(昭和9)年まで、12年間議員を勤めるとともに、さまざまな社会貢献に努めました。

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画像19 常磐公園と上川神社頓宮(昭和初期・絵葉書)

そのうちの一つが、旭川市民の憩いの場、常盤(ときわ)公園にある上川神社頓宮(とんぐう)の造営事業への協力です。
頓宮とは、本宮のいわば支店のような存在です。               その頓宮、1924(大正13)年に建てられましたが、その前年に造営のための木材を本宮から運ぶ木曳式(こびきしき)が行われました。
木曳式の行列は、本宮を出た後、師団道路を経由して常磐公園まで練り歩きました。                                   市太郎は多額の寄付をするとともに、自費で音楽隊を組織し、行列に華を添えました。

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画像20 佐藤市太郎(大正12年・「市制施行記念 旭川回顧録」より)

このころ、市太郎の年収は30万円を超えたとされています。
当時は300円で家が一軒建ったと言いますから、その100倍。
ざっと20億円といったところでしょうか。

年数回に及んだという上京は、一族郎党を引き連れての「大名行列」。
ふるさと東京の人たちも、その贅沢さに驚いたということです。
また寄付も豪快で、当時8500円もした消防用のポンプを市に贈りました。
さらに毎年暮れには、生活困窮者のために餅米数10石を寄贈したと伝えられています。


◆ 陰り、そして晩年


たださしもの市太郎の勢いも、陰りが見え始めます。

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画像21 第三神田館(「まちは生きている 旭川市街の今昔」より)

きっかけは1920(大正9)年11月の第三神田館の火災です。
客に貸し出していた火鉢の火の不始末が原因と伝えられています。
第三神田館が火元となったこの火事では、周りの建物にも延焼して15棟が全焼してしまいました。

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画像22 炎上する第一神田館(「まちは生きている 旭川市街の今昔」より)

さらに1925(大正14)年には、本拠地であった第一神田館でも火事が起きます。
これは前回の記事で、詳しく書きました。
周囲への延焼はありませんでしたが、第一神田館は全焼してしまいます。
さらに夕張と札幌の神田感でも火事があり、さしもの市太郎も落ち込んだのではないでしょうか(当時の活動写真館は、火災が多いことで知られていましたが、さすがにこれは頻発しすぎです)。

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画像23 晩年の佐藤市太郎(「旭川市功労者伝」より)

1937(昭和12)年、市太郎は残っていた活動写真館を売却。
ついに興行界を引退します。
そして6年後の昭和18年には、76年におよぶ生涯を閉じました。

当時のさまざまな記録を読みますと、市太郎の活動写真館には詩人の小熊秀雄(おぐま・ひでお)をはじめ多くの旭川の文化人が集いました。
また神田館の成功が呼び水になったのか、戦前の旭川には実に多くの映画館や劇場が作られ、戦後も長く続きました。
江戸生まれの興行主、佐藤市太郎が旭川の振興に果たした功績はきわめて大きかったと思います。


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