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昭和2年の夏期講座

今回も別ブログなどで既出の記事をアップデートして登録する「蔵出し」です。
旭川は、昔から北海道の交通の要所であったことから、数多くの文化人が訪れた場所です。
中には、一時期、旭川に住んだという人も少なくありません。
今回はそんな文化人のうち、詩人として知られる2人が関係した昭和初期のあるイベントのお話です。

それでは、どうぞ。

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◆ 雨情と小熊

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画像01 野口雨情(1882−1945・郷愁と童心の詩人 野口雨情伝)

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画像02 小熊秀雄(1901−1940・小熊秀雄全集)

旭川にゆかりの深い2人の詩人、野口雨情(のぐち・うじょう)と小熊秀雄(おぐま・ひでお)です。
雨情は、「七つの子」「赤い靴」「雨降りお月さん」などの童謡で知られていますよね。
小熊は、戦前、多くの芸術家が集った池袋モンパルナスの名付け親として知られ、「焼かれた魚」などの童話でも知られています。
この2人、実は青年時代に旭川にやってきて地元の新聞社に勤めた経歴の持ち主です。
ちなみにその新聞社とは、雨情が勤めたのが「北海旭新聞」、小熊が働いたのが「旭川新聞」です。

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画像03 北海旭新聞社(明治35年・上川便覧)

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画像04 旭川新聞社(左・大正12年・旭川回顧録、右・昭和4年・旭川新聞)

ただ雨情が旭川で過ごしたのは1909(明治42)年の8月から11月までの3か月間です。
一方、小熊が姉を頼って樺太から旭川にやってきたのは、10年余り後の1922(大正11)年です。
なので接点はないはず・・・と思っていました。
ところが、大正末から昭和初めにかけての旭川の文化史を調べていたところ、意外な事実を知りました。

◆ 大雪山夏期大学

その2人の接点の舞台となったのが、こちらです。

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画像05 大休寺(旭川市5条通5丁目)

旭川にある曹洞宗のお寺、大休寺(だいきゅうじ)です(ちなみにワタクシの実家はここの檀家なので、お付き合いの深いお寺です)。

大休寺は、明治27年創建の旭川でも長い歴史を持つお寺です。
昭和2年7月、ここを会場にある催しが行われました。

当時の新聞に載った告知記事です。

「大雪山夏期大学 7月29日、30日  旭川市大休禅寺にて
         8月1日より5日まで 層雲峡にて
  当代一流の名家数名
     主催 北海タイムス社 大雪山調査会
  後援 北海道山岳会」(昭和2年7月5日 北海タイムス)

初日の様子を伝える記事もありました。

「遥々(はやばや)と 各地から集る 大雪山大学聴講者
大雪山夏期大学会員は二十九日朝からドンドン来旭し駅前には南條山岳会書記、
伊藤商工会議所員出迎え樺太の国境に近い内路の木村君が遥々と遣ってきたの
を皮切りに前列車で到着した。午後四時四十八分着では有馬講師夫人、井上サン
等婦人会員の方も見え夫々宮越屋旅館と越後屋旅館に分宿した。夜は大休寺の
講演に臨み涼風に吹かれながら喜田、馬場両講師の講演を聴く。尚喜田講師は延
原旭師教諭と支援員の案内で神居古潭並びに納内の古代人の遺跡を調査し本日
の見学の資材を収集した」(昭和2年7月30日 北海タイムス)

「大雪山夏期大学」は、このころ本格的な開発が始まったばかり大雪山連峰や層雲峡(そうううんきょう)のピーアールを目的に開かれたイベントです。
大雪山連峰は言わずとしれた北海道の屋根。
層雲峡はそのエリアにある石狩川が作り出した渓谷であり、温泉地です。
講師を立てて、このエリアの魅力を語らせたことから「大学」という名前にしたのでしょう。
日程は7月29日からの8日間。
前半は大休寺を会場にした講義(講演会)、後半は実際に層雲峡を訪ねての登山や温泉体験という内容でした。
告知には「当代一流の名家数名」と講師を紹介しています。
北大や東北大、慶応大の教授が招かれましたが、実は当時、新進気鋭の童謡詩人として知名度が上がっていた雨情も名を連ねていました。

なお主催の「大雪山調査会」は、層雲峡の開発に力を注いだ旭川の実業家、荒井初一(あらい・はついち)が中心になって作った組織です。
こうしたイベントのほか、パンフレットや書籍の制作、発行等の事業を行っていました。
ワタクシの手元にも、昭和3年に調査会が発行したパンフレットがあります。

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画像06 荒井初一(郷土の歴史に生きる 旭川九十年の百人)

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画像07 大雪山調査会が発行したパンフレット「北海アルプス写真帳」

なお、このイベントについては、「大町桂月の大雪山」、「知られざる大雪山の画家 村田丹下」などの著作がある清水敏一氏の著書に詳しく紹介されています。
この中で清水氏は、村田丹下(むらた・たんげ)という画家が、「大雪山夏期大学」の講師として、知り合いの雨情を推薦したと書いています。
村田は、荒井初一の依頼で大雪山の絵を精力的に描くなどピーアールに尽力した旭川ゆかりの画家です。

こうした事情に加え、旭川に縁があり、童謡詩人として著名だった雨情は講師としてうってつけだったということではないでしょうか。
雨情は講演の席で、荒井の依頼で作った「層雲峡の歌」を自ら披露するなどして、大好評を得たと伝えられています。

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画像08 夏期大学の一行が泊まった層雲閣(右上は同じく層雲峡にあった陸軍療養所・北海アルプス写真帳)

◆ 小熊が参加?

で、一方の小熊秀雄ですが、どういう関わりがあったのでしょうか。
実はこの夏期大学、基本的には旅費などを払っての参加でしたが、大休寺での講演は一般の市民も聞くことができました。
そして、まさにその聴衆の中に小熊秀雄がいたことを示す文章があるのです。

昭和34年、詩誌「情緒」に掲載された「小熊秀雄との交友日記」。
著者は当時の旭川の詩人グループの一人だった小池栄寿(こいけ・よしひさ)です。

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画像09 詩誌「情緒」

「小熊秀雄との交友日記」は、小池が小熊や周辺の人々と過ごした大正15年から昭和3年にかけての日々を、日記をもとに書き起こした手記です。
昭和2年7月30日にこんな記載があります。

「七月三十日。大休寺の大衆夏期大学二日目に夜ゆく。「国史より見たる国民思想」喜田貞吉博士。「民謡と大衆文芸」野口雨情氏。小熊、涼木、塚田兄弟も見えた。塚田君達は早く帰った。小熊、涼木君と帰る。帰れば既に十二時」(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)

まさに日付も場所もぴったり!
言葉を交わしたかなど詳しいことはわかりませんが、雨情と小熊、講師と聴衆という立場ではありましたが、接点があったことは確かです。
ちなみに文中にある「涼木」は、その後、旭川の文芸をリードする詩人、鈴木政輝(すずき・まさてる)のこと。
「塚田兄弟」の弟は、30代で夭折した旭川のダダイズム詩人、塚田武四(つかだ・たけし)のことです。

さらに「交友日記」の少し前の日付にこんな記述も見つけました。

「四月二十六日。午後七時半から北海ホテルで円筒帽詩人祭が催うされる。十二、三人の予定のところへ二十名も来る。タイムス支局長竹内武夫氏、画家村田丹下氏、弁護士鈴木重一氏、実科高女主事沢井一郎氏等も出席され盛会裡に十時半閉会。小熊、鈴木、塚田の三君とヤマニでコーヒー、喜楽で紅茶、ニコニコでコーヒー、生ビール皆意気軒昂一時に及ぶ」(注 円筒帽は鈴木、小池、小熊らの詩誌 ヤマニは4条通8丁目にあったカフェー)(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)

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画像10 カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)

村田丹下は先ほどもお話しした荒井初一、野口雨情と接点のあった画家。
竹内武雄は、当時の北海タイムズ社の旭川支局長です。
小熊らのグループとどの程度の付き合いがあったかはわかりませんが、北海タイムズは大雪山調査会とともに夏期大学の主催者でもあります。
なので、もしかしたらこの会合の場で夏期大学の話も出て、竹内、村田が講演を聴きに来るよう小熊らを誘ったのかもしれません。
またそうした話はなくとも、既知の竹内や村田が関係していて、旭川ゆかりの詩人、雨情が講師を務める催しとあれば、小熊らの興味を惹くには十分だったのではないでしょうか。

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画像11 昭和初期の旭川中心部(旭川市博物館蔵)

大正の末から昭和初期にかけての旭川は、個性豊かな文化人が交錯し、影響しあった熱い時代でした。

この時期はまた層雲峡・大雪山の観光振興など、地域おこしという面でも旭川の人々の活動が活発化した時期でもあります。
大休寺での夏期講座(大学)は、そんな時代の「熱」を感じるエピソードといえます。(2014年9月初出をアップデート)

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画像12 昭和初期の層雲峡(北海アルプス写真帳)


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