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旭川初! 大正の野外劇

北海道旭川市の中心部にある常磐(ときわ)公園。
日本の都市公園100選にも選ばれている美しい公園です。
大正時代、開園してまもないこの公園を舞台に、なんと野外劇が上演され、大喝采を浴びました。
今回は、当時、人気絶頂だった喜劇役者一座による旭川初の野外劇のお話です。
それと大正期の旭川の演劇史についても少しだけ。

別のブログなどで既出の記事をアップデートしたうえで投稿する「蔵出し」シリーズ。
それではどうぞ。

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◆ 喜劇王、曾我廼家五九郎

まずは、こちらの写真を。

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画像01 曾我廼家五九郎顕彰碑

東京浅草にある地元ゆかりの喜劇人の顕彰碑です。
観光名所、浅草寺の境内にあります。
喜劇人の名前は、曾我廼家五九郎(そがのや・ごくろう)。
明治9年、徳島県生まれの方です。

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画像02 曾我廼家五九郎(1976−1940・日本肖像大事典)

彼がまず加わったのは、オッペケペー節で知られる川上音二郎(かわかみ・おとじろう)の壮士芝居の一座。
その後、関西の喜劇役者、曾我廼家五郎(そがのや・ごろう)の門下に入り、五九郎を名乗ります。
明治40年代には、独立して東京浅草に進出。
昭和15年に亡くなるまで、喜劇界の第一線で活躍しました。

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画像03 画像01拡大

顕彰碑には、絣の着物に羽織、チョビ髭にハイカラ帽子姿の男が描かれています。
「ノンキナトウサン」と言います。
当時、新聞に掲載され人気を博したコマ漫画の主人公です。
大正14年には映画化され、五九郎が主人公のトウサンを演じて大ヒットしました。

「ノンキナトウサン」、略して「ノントウ」。
全国的に知らぬ人がいないほどの人気だったそうです。

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画像04 大正時代の浅草六区(五九郎の幟が見える・絵葉書)

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画像05 浅草六区

◆ 旭川初の野外劇

その喜劇王、曾我廼家五九郎が、大正13年夏、旭川にやってきます。
7月1日からの函館を皮切りにした北海道巡業の一環でした。

旭川新聞はこのように伝えています。

「本社主催で一般に公開 曾我廼家五九郎の野外劇
 来る二十五日午後四時から 公園池の端で開演の予定

喜劇界の大立物曾我廼家五九郎一行の来演を好期として本社主催の下に旭川に於ける最初の試み『野外劇』を常盤公園に於いて挙行すべく目下準備中であるが、既報の如く『月給日』一幕を公園の風景を背景として演出し公開するもので、無論一銭の料金も要せぬものである。開演期日は来る二十五日午後四時、場所は公園池の端築山の予定で、小高い所で演ずるのであるから多数の人々が見物する事が出来るのである。
尚当日雨天の際は一行が旭川に於いて開演中好晴の日を選んで延期開演するのである。
開演の日は朝から花火を打ち上げ又開演の合図も花火を以てする事となっている」(旭川新聞・大正13年7月23日)

公演の主催が当の旭川新聞とあって、記事にも力が入っています。
旭川新聞は翌24日にも広告を出しています。
館巡業の際の野外劇の写真も合わせて掲載しています。

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画像06 野外劇の広告(旭川新聞・大正13年7月24日)

こうした宣伝の成果もあって、当日は大勢の市民が詰めかけました。
その数、なんと2万人というからオドロキです!

「人気高潮に達す 本社主催五十九郎一行の野外劇
 公園の会場に殺到せる民衆2万悉く笑殺さる

本社主催民衆慰安の五十九郎劇一行野外劇は既報の如く昨日午後四時から常盤公園池畔芝山に於て公開した。(中略)会場には本社の社旗と五九郎の大幟がヒラヒラと翻り舞台となる池畔小高い所の四阿(あたり)に紅白の幕を張り一方本社の幔幕張った天幕との二ケ所が楽屋とした。(中略)観衆は正午すぎる頃から早くも公園目がけて繰出して時半ばには既に舞台正面と言うべき広場より頓宮境内は立錐の余地なく殊に池のボートは全部観衆買切り・・・(中略)野外劇『月給日』は既報筋書の如くであるが嘗て伏見宮邸にて演じ各宮殿下の台覧を仰いだ由緒ある喜劇で配役は左の如くであり五時弐拾分二万余の観衆を笑殺し拍手喝采裡に大成功にて演了した。此の催しのため師団道路筋は時ならぬ雑踏を呈した。」(旭川新聞・大正13年7月26日)

翌27日には、公演の模様を写した写真(しかも3枚!)が掲載されています。
新聞の保存状態が悪く、不鮮明ですが、大勢の市民が詰めかけている様子が分かります。

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画像07 新聞に掲載された野外劇の写真(旭川新聞・大正13年7月24日)

この野外劇、当時市内にあった劇場「錦座」で行われた舞台(こちらは木戸銭を取っての公演)のPR的な意味合いが強かったようです。

舞台初日となる26日付の旭川新聞には、演目や料金を記した広告が載っています。

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画像08 錦座公演の広告(旭川新聞・大正13年7月26日)

野外劇に続き、この錦座での公演も大人りだったようです。
26日から最終日の30日まで、途中演目を一部変えながら熱演が続きました。

なお29日の旭川新聞の記事では、五九郎一座が、地元のチームと野球の試合をしたことを伝えています。
場所は同じく常磐公園。
巡業で長旅の続く座員の気分転換を兼ねたPR策だったのかもしれません。

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画像09 大正時代の常磐公園(絵葉書)

◆ 大物演劇人が続々

ところで、あまり知られてはいませんが、大正時代の旭川には、五九郎だけではなく、数々の大物演劇人がやってきて舞台を披露しています。
その顔ぶれは、歌舞伎から新劇まで多彩です。
ざっとあげますと・・・。

大正2年9月 6代目尾上菊五郎一座 佐々木座
大正3年9月 芸術座(松井須磨子・島村抱月) 佐々木座
大正4年3月 川上貞奴一座 佐々木座
大正9年9月 2代目市川左団次、7代目松本幸四郎一座 錦座こけら落とし

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画像10 旭川の佐々木座(上川便覧)

◆ 須磨子と貞奴

面白いのは、須磨子と貞奴という創成期の高名な2人の女優が相次いで旭川を訪れている点です。

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画像11 松井須磨子(1886-1919・日本肖像大事典)

このうち松井須磨子は、演出家の島村抱月とのコンビで知られていますよね。
抱月は坪内逍遥とともに設立した文芸協会で新しい演劇の創造に尽くしますが、須磨子との不倫が問題視されて協会を脱退。
その須磨子と芸術座を旗揚げします。
その芸術座が一躍名を高めたのがトルストイの小説をもとにした舞台「復活」です。
須磨子演じるヒロインが歌う「カチューシャの歌」がレコード化されると大ヒットしました。

2人が旭川に来たのは、この絶頂期に当たります。

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画像12 川上貞奴(1871-1946・近代日本人の肖像)

一方、貞奴は五九郎のところで触れた川上一座の座長、川上音二郎のパートナーです。
一座は明治32年から貞奴を女優に立てて海外巡業を行い、フランスなどで人気を集めます。
音二郎は、明治44年に病死しますが、貞奴は新たな一座を結成、各地を巡業しました。
旭川に来たのはこの一座の全国巡業の一環です。

地域の演劇史に詳しい北けんじさんは、当時の新聞を紹介したうえで、このように評しています。

「嘗て新しいと云ふ寝耳に水の様な声に驚かされて芸術座のカチューシャを観た時は多くの顔が失望の色を浮かべてゐた。正月の芝居が沈み勝に過ぎた今日、早くも雪解けの長閑さを味わふかの様に待ちわびてゐた貞奴一座が佐々木座に来ての初日は素晴らしい人気であった。マダムの指は未だ痺れるには間がある。夫れに時代劇の八犬伝黒田高楼は旭川唯一の観劇趣味に投ずるに足るもので女装の犬坂が凛として決心を見せる処は拍手喝采。無論対牛楼の大立回りは涙を流して喜ぶ者もあった。(後略)(『北海タイムス』大4・2・3付)
とある。つまり、松井須磨子の芸術座は旭川の観客には高尚に過ぎて退屈してしまったようだが、マダム貞奴一座の『八犬伝』の大立回りは旭川の観客には理屈抜きで面白い芝居に映ったということのようである。新劇のもってまわったような科白にはついていけない、正直な観客層だったともいえる。しかし、こんな演劇もあるのだという認識は植え付けられたという意味で画期的な公演だった。」(北けんじ「旭川演劇百年史」=「旭川市民文芸 旭川文芸百年史」内掲載より)

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画像13 芸術座による「復活」の舞台(絵葉書)

ちなみに島村抱月ですが、旭川公演の4年後の大正7年、当時スペインかぜと呼ばれた感染症で亡くなっています。
この時は最初に須磨子が感染し、看病した抱月にうつってしまったのだそうです。
このことを苦にし、抱月の死から2か月後、須磨子が後追い自殺をしたのはよく知られている話です。

◆ 大物競演

一方、大正9年の左団次、幸四郎の一座の旭川公演ですが、東京でもなかなか見られない競演でした。

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画像14 2代目市川左団次(1880−1940・絵葉書)

2代目左団次は歌舞伎で活躍しただけでなく、新劇にも進出した異色の俳優です。
小山内薫と自由劇場を創設したことで知られています。

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画像15 7代目松本幸四郎(1870−1949・歌舞伎俳優名鑑)

7代目幸四郎もこの時期の看板役者です。
孫に今の2代目松本白鸚(ワタクシには6代目市川染五郎と言った方がしっくりきますが)や、その弟の2代目中村吉右衛門、ひ孫に11代目市川海老蔵らがいます。

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画像16 岩見永次郎(北海道映画史)

2人の招致には、当時北海道を代表する興行主だった岩見永次郎(いわみ・えいじろう)が当たりました。
公演は、岩見が新たに旭川に開業する劇場「錦座」のこけら落とし。
岩見は1か月近く東京の松竹本社に乗り込み、粘り強く交渉。
その結果、この舞台が実現したと伝えられています。

◆ まとめ

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画像17 旭川錦座(昭和4年・絵葉書)

喜劇王「ノントウ」こと五九郎が常磐公園に集った観客を沸かせ、須磨子・貞奴が演技を「競い」、名優、左団次、幸四郎らが珠玉の芸を披露した大正の旭川。
顔ぶれの豪華さという面では、現代より恵まれていたかもしれません。(2015年8月初出をアップデート)


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