見出し画像

コラム「朝の食卓」・2022年

はじめに


北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊には、長年愛されているコラム欄「朝の食卓」があります。
北海道各地で活躍するさまざまな立場の方々、約40名が執筆しています。
ワタクシもことし(2022年)から執筆陣の一人に加えていただきました。

このコラムでのワタクシの肩書は「旭川郷土史ライター&語り部」です。
その郷土史関連の話を中心に、ことしは10回書かせていただきました。

ただこのコラム、伝えるのは文章だけで、写真など画像はなしです。
初回のコラムにも書いていますが、ワタクシはもともとテレビ畑の出身。
何かを伝えるには、まず画像や動画でと考える癖がついています。
このためどうなるものかと考えていましたが、文章だけで表現するのは普段とは違った感じで新鮮でした。

また新聞のコラムということで、「掲載の時期」を意識して書くという楽しみもありました。
例えば、3回目は、その時期強いショックを受けていたウクライナ侵攻について、4回目はその月が没後20年だった歌人齋藤史さんについて、5回目はその月にオープン50周年だった旭川のメインストリート、買物公園について書きました。

ということで、今月は1年の区切り。
今回、noteにも10回分のコラムを掲載することにしました。

なおここでは、一部、関連画像を加えています。
合わせてお楽しみいただけると幸いです。


***********************************


その1 2022年1月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「文章だけで」


 すでにリタイアしていますが、長年、テレビの世界で過ごしてきた人間です。たたき込まれたのは、論より証拠。ひと目でわかる映像の重要性です。
 たとえば、何か社会的な問題があったとします。
 記者やディレクターは、こういう弊害がありますと、ただ説くことはしません。
 実際に問題が起きている現場にカメラを入れ、その生の実態を映像に記録します。そうしないと説得力がないからです。
 ただ映像には、わかりやすい反面、誤解を与えたり、ときには悪用されたりする欠点もあります。そうしたことを踏まえても、何かを伝えるにはやはり有効な手段です。
 私がふるさと旭川の歴史について、講座やブログ、著作等で情報発信を始めて、もう10年になります。
 この活動でも、できる限り映像=写真や動画をお見せしながら話を進めるようにしています。
 お伝えするのは、普段なじみのない昔の出来事や人々のこと。なおさら受講者や読者の皆さんとイメージを共有することが必要だからです。
 ただ実を申しますと、「お話」だけで理解してもらえるほど、自分の文章や語りに自信がないという事情もあるのです。
 ということで、書かせていただくことになりました「朝の食卓」。もちろん画像や動画は使えません。
 文章だけでどこまで思いを伝えることができるのか、チャレンジのつもりで取り組みたいと思っています。(旭川郷土史ライター&語り部)



***********************************


その2 2022年2月10日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「那須の村」


 数年前から祖先について調べています。まだ道半ばですが、いろいろなことが分かりました。中でも驚いたのが、私が生まれる少し前に亡くなった祖父、那須半蔵についてです。
 半蔵は、1873年(明治6年)、和歌山県西牟婁郡長野村(いまの田辺市長野)で生まれ、1904年(明治37年)に旭川に本籍を移しています。そのことが書かれた戸籍を見ていて、あることに気付きました。
 半蔵の2人の妹は同じ村内に嫁いでいますが、ともに嫁ぎ先の性は那須。母親も同村出身で、旧姓はやはり那須。さらに戸籍には、記載事項の末尾にその時点の首長の印が押されますが、それも多くが那須なのです。つまりは、那須だらけです。
 調べてみると、旧長野村には、弓の名手として知られる平安末の武将将、那須与一の伝説があることが分かりました。地区には与一の墓とされる石塔や、子孫が建てたという寺社があります。
 明治になって全国民が名字を持つことになった際、地元ゆかりの著名人の性を名乗った人は少なくありませんでした。この地区でも那須を名乗った人が多かったと思われます。
 実はわが家と同じ宗派である与一ゆかりの寺に問い合わせたところ、半蔵の父母(私の曽祖父母です)や兄の位牌が、永代供養のため寺に預けられていることが分かりました。
 この位牌に手を合わせるため、熊野古道のお膝元である同地を訪ねたいと思っています。その際には、いまも地区にいるたくさんの那須さんに会えるかもしれません。(旭川郷土史ライター&語り部)

画像01 那須与一(「源平合戦図屏風)より)


 ***********************************


その3 2022年3月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「ウクライナ侵攻に思う」


 旭川は、戦前、旧陸軍第七師団の本拠地でした。ですので、その歴史を振り返るとき、戦争との関わりを欠かすことはできません。
 その第七師団の将兵が、初めて実際の戦場に立ったのが日露戦争です。    
 1904(明治37)年2月に始まった戦争では、多くの死傷者を出しながらも日本軍が優勢を保ちます。
 ただ大国ロシアの皇帝ニコライ2世は、戦局の巻き返しに自信を見せ、シベリア鉄道で戦場である南満州(いまの中国東北地方)に大量の兵を送るとともに、自慢のバルチック艦隊を極東に派遣していました。
 そんな皇帝の態度を一変させたのが国内事情です。戦争の長期化に伴う物価の上昇や労働環境の悪化で、民衆の不満が高まったのです。
 開戦の翌年1月には、首都サンクトペテルブルグでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。一気に高まった革命の気運に押されるかのように、ニコライはルーズベルト米大統領の斡旋を受け入れ、日本との講和に同意します。
 先月、こうした日露戦争の推移を、旭川との関わりを中心にブログに掲載し始めた直後、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。主導したプーチン大統領の姿は、権力を一身に集めたかつての皇帝と重なって見えます。
 その蛮行を止めるには、日露戦争のときと同じく、ロシア国内での反戦の高まりが必要と多くの識者が指摘しています。求められているのは、ウクライナの人たちに加え、侵攻に抗議するロシアの人々との連帯です。(旭川郷土史ライター&語り部)

画像02 日露戦争に出征する第七師団の将兵(1904年・旭川市中央図書館蔵)
画像03 血の日曜日事件(1905・「図説 日露戦争」より)


***********************************


その4 2022年4月28日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「齋藤史と旭川」


 現代短歌を代表する歌人、齋藤史(ふみ)は、生前、2度旭川で暮らしました。 
 1度目は、1915年(大正4年)からの5年間。父、瀏(りゅう)が、当時旭川にあった陸軍第七師団に異動したのに伴い、小学生時代を過ごしました。瀏は、職業軍人であり、歌人でもありました。
 2度目は、やはり父の旭川勤務に伴う1925年(大正14年)からの2年間です。このとき、史は高等女学校を卒業して間もない多感な年頃でした。
 この2度目の旭川暮らしの際、史は瀏を訪ねてきた歌人、若山牧水と出会います。牧水は齋藤家に4泊し、感性の鋭さを見せる史に作歌を勧めます。のちに史は、それが本格的に短歌の道に進むきっかけになったと繰り返し述べています。
 一方、1度目の旭川滞在のとき、史の幼馴染に、のちの二・二六事件で決起し、処刑された栗原安秀、坂井直(なおし)の2人がいました。
 事件では、彼ら青年将校を支援したとして、瀏も禁固刑を受けます。
 きょうだいのように育った友人たちの刑死と父の収監。事件は、生涯に渡り、史の創作上の大きなテーマとなりました。
「物語を持った最後の歌人」。史はそう呼ばれています。二・二六との関わりと牧水との交流、そのどちらにも旭川という土地が絡んでいることに感慨を覚えます。 
 2002年に93歳で亡くなった史。4月26日は、それからちょうど20年の節目でした。(旭川郷土史ライター&語り部)


画像04 齋藤史(1909−2002
画像05 若山牧水(1885−1928)


***********************************


その5 2022年6月6日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「買物公園50年」


 旭川駅前から約1キロに渡って続く平和通買物公園。今月1日で誕生から50年の節目を迎えました。
 買物公園ができた時、私は中学2年生でした。地元にできた全国初の恒久歩行者天国。子供ながらも誇らしく思ったのを覚えています。
 その買物公園、実は完成の3年前、実際に通りから車を締め出す大規模な社会実験がありました。
 夏休みに合わせて行われた12日間の実験では、いつもは1日に1万5千台もの車が行き交う通りに、イスやテーブル、遊具や花壇などが並べられ、大勢の市民が繰り出しました。
 日本の歩行者天国は、1970年、東京の4か所の繁華街で始まったことで知られるようになります。
 この実験はその前の年の出来事。歩行者天国に関しては、まさに旭川がトップランナーだったわけです。
 ところで買物公園の誕生の背景には、事故の増加や排気ガスによる大気汚染の深刻化など、急速に進んでいたモータリゼーションへの深い懸念がありました。
 そこで打ち出されたテーマが「人間性の回復」。このためかつての買物公園では、愛らしい姿の原始人の家族がイメージキャラクターになっていました。(旭川郷土史語り部&ライター)


画像06 買物公園の実験(1969年8月・旭川市中央図書館蔵)
画像07 イメージキャラクターの原始人のイラスト


***********************************


その6 2022年7月16日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「市制100年」


 100年前にあたる1922(大正11)年8月1日、札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の道内6都市は市になりました。
 一斉に市になったのには訳があります。明治政府は、1888(明治21)年に市制を定めた一方、開拓が始まってまもない北海道や沖縄県には適用しませんでした。
 代わりに設けられたのが北海道区政です。この制度のもと、1899(明治32)年に札幌区、函館区、小樽区が誕生し、大正時代に入ると、旭川、室蘭、釧路も区となりました。その後の法律改正で、本州並みに市が誕生したのが1922年だったというわけです。
 各自治体では、祝賀会やちょうちん行列、花電車の運行など祝賀行事が催されました。区制時代は、区長が区議会議長も務めるなど、市に比べると自治権に制約があり、不満が溜まっていたことがうかがえます。
 ただ、私の地元、旭川を見ますと、市制施行の8年前にあった町から区への移行の際の記念行事の方が、盛大でした。
 不思議に思って調べますと、町時代の旭川は、先行して区となった札幌などに追いつきたいと、地域をあげて道や国に働きかけていたことが分かりました。
 新旭川市史によると、中島遊郭をめぐり、設置を推進した道長官と、反対した旭川町長が対立し、町長が「道庁の横暴」を政党や報道機関に訴えたことで、道との関係が険悪になり、区制施行の要望まで道に拒否された時期もありました。
 このような紆余曲折あって、努力が実ったのは、旭川で区制移行の運動を始めてから7年後。市よりも区の誕生の方の喜びが大きかったのは、そうした事情が影響したものと考えています。(旭川郷土史ライター&語り部)


画像08 区制実施祝賀会当日の旭川区役所(1914年・「旭川区世実施祝賀会記念写真帖)より)
画像09 市政移行を伝える新聞記事(1922年・函館毎日新聞)
画像10 看板をかけ替えた旭川市役所(1922年・北海タイムス)


***********************************


その7 2022年8月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「坂本直寛と旭川」


 坂本龍馬のおいの坂本直寛(なおひろ)は、移民団体「北光社(ほっこうしゃ)」を作った北見開拓の先駆者であり、旭川ともゆかりの深い人物です。
 直寛は故郷の高知でキリスト教の洗礼を受け、北海道移住後は布教活動に力を注ぎました。旭川には、1902年(明治35年)年に伝道師として赴任、6年余りを過ごしています。
 当時、旭川には、米国人宣教師、ピアソン夫妻がいました。直寛は2人が取り組んでいた遊郭の設置反対や、遊郭で働く女性を救う廃娼運動にも協力します。
 その直寛が、旭川の別の教会に通う2人の青年の訪問を受けたのは、赴任から3年余り後、すでに牧師となっていた頃のことです。2人の真剣なまなざしに胸を打たれた直寛は、教派を超えた特別な祈祷会を開くことを約束します。
 この時の青年の一人は、鉄道員で、名前を長野政雄と言いました。直寛との出会いから3年後、彼は和寒町の塩狩峠で、客車の暴走を身を賭して食い止めます。この殉職は三浦綾子の小説「塩狩峠」で描かれ、多くの人の知るところとなりました。
 直寛は坂本家の5代目の当主で、一家で北海道への移住を決断した人物です。このため蝦夷地の開拓に情熱を持っていた叔父、龍馬の夢を受け継いだと言われています。
 旭川では、来月、全国各地にある龍馬を慕う団体 「龍馬会」の会員が集う「龍馬 world in 旭川」が開かれます。これを機会に、龍馬の子孫が地域に残した確かな足跡についても知っていただきたいと思っています。(旭川郷土史語り部&ライター)


画像11 坂本直寛(1853−1911・「坂本直寛の生涯」より)
画像12 三浦綾子著「塩狩峠」
画像13 塩狩峠の殉職碑


***********************************


その8 2022年10月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「新旭川市史」 


 旭川の宝と言えば何を思い浮かべるでしょうか。実は私が密かに宝と思っているのが、郷土の歴史を綴った「新旭川市史」です。
「新旭川市史」は、開村100年の記念事業として1988年に編さんが始まりました。これまでに通史と史料など8巻が刊行されています。
 郷土史の情報発信をしている私は、道内各地の市町村史に当たることがよくあります。その経験から言いますと、質、量ともに横綱級なのは札幌、函館、旭川の各市史。なかでも「新旭川市史」は詳しいうえに一つ一つの史実の捉え方が深いといつも感心しています。
 その旭川の市史、残念なのは、財政悪化等の理由で、2012年度以降、編さんが休止したままになっていることです。このため道内の他の主要都市ではほぼ終えている戦後編の刊行の目処が立っていません。
 ところが先日、うれしいニュースが入ってきました。「戦後から平成の始まりまでは、残さなければならない責任が私たちの世代にはある」と、市長が編さんを再開する意向を明らかにしたのです。
 マチの歴史は、そこで生きた先人たちの活動の集積です。それを知ることは、地域の今を見つめ直し、将来を考えることにつながります。市町村史は、いわばまちづくりの礎石のようなものです。
 長いブランクによって編集担当者の高齢化が進むなど、再開には多くの課題があります。ですが、市には、これまでの取り組みをしっかりと受け継ぎ、ぜひ「宝」にふさわしい戦後編を作ってほしいと願っています。(旭川郷土史ライター&語り部)


画像14 新旭川市史


***********************************


その9 2022年11月11日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「命根性」 


 今年、生誕100年を迎えた三浦綾子さんの自伝小説を読んでいて、久々にある言葉に出会いました。
「命根性が汚い」。生への執着心が強いという意味ですね。子供の頃、大人たちがしばしば口にしていました。
「あいつは本当に命根性が汚い」と罵ったり、「私は命根性が汚いから」と卑下したり。
 ただ話をよく聞くと、その汚さは、健康のために人より少し多くお金や気を使うといった程度なのです。それなのに大人たちは、非常な罪であるように断ずるのです。
 綾子さんも、子供時代に死について深く考えたことだけを理由に、「自分は命根性の汚い人間だと思う」と書いています。
 では、なぜ生に執着することがそんなにも良しとされなかったのか。背景には「時代」があったのではないでしょうか。
 私の親世代が生まれ育ったのは、今よりも人の命が軽かった時代です。特に自然環境が厳しく、命を守る社会インフラも乏しかった北海道は、その傾向が顕著だったと思います。
「命根性が汚い」戒める言葉の底には、困難に立ち向かう、時には死をも恐れない気概、覚悟のようなものを持つべきだ、という考えがあるような気がします。 
 実は、大人たちの言葉で「命根性が汚いのは恥」と意識付けられた私は、命根性が人一倍汚いにもかかわらず若い頃から不摂生を続けました。その結果、いま多くの生活習慣病を抱えて病院通いをしています。
「口ではああ言ってるが、実はみんな命根性が汚いんだよ」。
 あの頃、誰かが耳打ちをしてくれていたら。そう思わずにいられません。(旭川郷土史ライター&語り部)


***********************************


その10 2022年12月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載


「老いと向き合う」


 かつて放送されたNHKのドキュメンタリーに、落語家の故立川談志師匠に密着した秀作があります。
 その中に、師匠が畳の上で胎児のように体を丸め、頭を抱え込んでいるシーンがあります。この時、師匠71歳。老いに伴う心身の衰えに、苦悩の余り悶絶しているのです。
 最初に番組を見た時、私は50歳でした。その時は、なぜそこまで師匠が苦しむのか理解できませんでした。でも15年経った今は違います。
 年をとりできない事が増えてくるのはつらいものです。それまでの人生が、できない事をできるようにする、何かを獲得する、それと同じ意味だったからです。それは師匠のような天才でなくとも同じです。
 このような人の衰えを、かつて「老人力」と言う言葉で救おうとしたのが、やはり故人である芸術家、作家の赤瀬川原平氏です。つまり、物忘れが増えるのも体力や判断力が弱まるのも、すべて「老人力が増したから」というわけです。
 私はまだ氏のように老いを笑い飛ばす境地にはなっていません。むしろ恐れがかなり勝っています。  
 実は先日、図書館に行く途中、返す本を忘れたのに気付き、「まあいいや借りるだけでも」とそのまま向かったら、熟知しているはずの休館日だったという出来事がありました。
 こうしたことはたまにあって、いつもなら半日は落ち込みます。ただこの日は「何やってんだオレ」と一瞬は癇癪を起こしましたが、じきに落ち着く事ができました。「まあこんなこともあるさ」というわけです。
 これは果たして良い傾向なのか、否なのか。考えましたが、結論は出ていません。(旭川郷土史ライター&語り部)


画像15 赤瀬川原平著「老人力」





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?