思い出カフェ

 手元にあるのは、アルバムだった。
 輝く二人の笑顔。そんな写真達だった。
 そんな写真一葉一葉に、なにかしらのコメントが書き添えてあったりする。
 二人の笑顔がまぶしい。はにかんだ二人の笑顔の写真には
「7月8日 トシユキとキキ。」
 と書かれていた。
 そんな写真をボーっと眺めながら、少しづつ夕日に傾こうとする太陽と一緒に、私は電車に揺られていた。

 急行じゃなきゃ止まらない、小さな駅を降りて、小さな商店街を抜けたとこ。
 夕日のよく似合う路地を、2、3回曲がって、駅から十分ちょっと歩いたところに、小さな喫茶店がある。
 民家と民家に挟まれた、小さなカフェ。もしかして、みんな知っているかな?そのカフェの名前は
 「思い出」
 そういう名前だった。

 私とトシユキが別れたのは、三ヶ月前。突然。私にとってその言葉が一番似合う別れだった。
 トシユキは、青木貴美子という私を「キキ」と、誰も呼ばない言い方で呼んでいた。
 そんな些細な事でも繋がっていた私たちだったけれど…それがずっと続いていくと思ってのだけど…
 トシユキには好きな人がいるようだった。小さく可愛らしい子だった。二人はいつの間にか出会い。私とトシユキの関係を、トランプをひっくり返す様に変えていった。
 昔からある場所も、気持ちも、しぐさも、止まっていた時間が動き出すように変わった。暑い夏が、急に秋風に乗って、寒さを増して秋になるように、当たり前が、当たり前じゃなくなった。嬉しいと思っていたことも、キット、トシユキには重荷になった。
 好き。そんな感情すら。動き出してしまった心には、ただの別れる原因のひとつになり、トシユキは離れていった。
 三ヶ月前。トシユキは言った。
「ごめん。」
 そればかり。謝ることは。悲しいほど。悲しいほど。私を壊していった。
 恋の終わりは
 私を壊していった
 恋の終わりのあなたは
 苦しいほど、悔しいほど
 私の何かを
 壊していった

 ごはんも食べれなくなり、好きなテレビも頭に入らなかった。全ての些細な事が、トシユキの面影になった。
 私は、生きることを忘れ。トシユキの影を追うことを覚え。それしかできなかった。
 ボロボロなのは、私なのに。頭に浮かぶのは
 ちゃんとご飯食べたかな?
 ちゃんとテレビ録画できたかな?
 そんなことばかり。

 そんな時に知ったのが、思い出カフェのことだった。アルバムを持っていくと、一番還りたいと思っている頃に、連れて行ってくれると。その写真の瞬間に連れて行ってくれると。
 一葉の写真の、一葉の想いを、もう一度だけ、味あわせてくれると。そんなことを知った。
 私は、その思い出カフェに行って、この気持ちをどうにか整理したかった。急いで、何故か急いで、この気持ちをどうにかしたかった。
 
 カランカラン
 カフェのドアに付いた鈴が、優しく響き私は店内に踏み込んだ。
 広くはない店内だが、木目のある暖かみのある壁。コーヒーの匂いが漂う空気。静かなBGM。それは普通のカフェのようだったけれど、ひとつだけ違うのは、椅子がリクライニングのいい椅子なのと、少しづつ椅子が隔てられ、個室の様になっていることだった。
 
「いらっしゃいませ~。」
 そう言って顔を出したのは、すっとしたハーフの顔をした男だった。
 三十歳から少し年をとっているのかな?いや、ハーフの顔立ちか、それともその人の人柄のせいなのか、とっても幼く見えた。
「いらっしゃいませ。初めて…ですよね?」
 その男はこの店のマスターのようだった。
「こちらにどうぞ。」
 マスターは、笑顔で席に案内してくれる。
「ご来店ありがとうございます。アルバム。持ってますね。…戻りたい時があるのですか?」
 何故か私は、マスターの言葉にすでに泣きそうになっていた。凄く優しく心の奥底を、失礼ではなくゆっくり包むような話し方に。
「はい。元彼のことが忘れられなくて…。その時、ここの話を耳にして…。思い出に連れてってくれるんですか?」
 私はおずおずと尋ねた。
「私が、連れていく訳ではないのですが…。」
 そう恥ずかしそうにマスターは言ってから
「それでも、あなたは思い出の世界には行けると思いますよ。だってこの店にたどりついたんですから。」
 そうはっきり言った。
「どういう意味です?」
 そう私が聞くと
「そう簡単には、この店にはこれないみたいなんです。思い出の世界に戻れる!って聞いたら、沢山の人がくると思いません?それでも、ほとんど人が来ない。何でですかねぇ?」
 そう言った。
「そもそも…なんで思い出の世界に戻れるんですか?」
「うぅん…それは私も分からないんです。私の淹れるコーヒー。まぁ秘密ですけど特別なコーヒーがあるんです。それを飲んだお客さんは、何故か思い出の写真の瞬間に還っていくんです。それが、自然と来るお客さんじゃないとダメなんです。私が連れてきた方じゃ、普通のコーヒーね。って言うだけなんです。」
 そこまで一気に言ってから、マスターはフッとため息をついて
「神様でもいるんですかねぇ?」
 そうおかしそうに笑った。
「だけど儲からないけど、ずっとこうやってやってるんですよ。おばあちゃんの頃からやってますし。誰かの…思い出の整理に役立つのなら、とっても素敵なことですし。」
「おばあさんも、思い出に還れるコーヒーを淹れてらしたんですか?」
 そう聞くとマスターは子どもみたいな顔をして
「いえいえ。そうではなかったですけど。とっても人気者でした。色んな方がおばあちゃんに相談に来て、泣いてかれる方もいっぱいいました。それはそれで、思い出を癒してたのかもしれないですね…。」
 そう言って遠い顔をした。
「僕も、少しでもそんな人になりたいな。」
 そう言ってまた子どものように笑った。

 私が席に案内されて、マスターと雑談を交わしているうちにも、時は少しづつ動き何かを流しさっていく。でもこの店内だけは、何もかも止まっているようだった。
「お待たせしました。思い出のコーヒーです。」
 そう言ってだしてくれたコーヒーはマスターが言ったとおり、普通のコーヒーみたいだった。
「このコーヒーを飲みながら、アルバムをめくってください。キット思い出の時に還れます。」
 そう微笑んでからマスターは少し寂しそうな顔をして
「でも、思い出の世界でどんな振る舞いをしても、現実の世界の、事実が何も変わることはないようです。残念ながら。」
 そう言った。
「あと、還っている時間も、人によって違うみたいですよ。2週間還っていたって人もいれば、数十分間だけ還っていたって人も多いですから。まぁこちらの時間にしたら、長くて1時間くらいの話ですが。」
 そう説明してくれた。
「ねぇマスター。私…大丈夫かな?」
 何故か不安になり、そうマスターに聞いてみた。
「キット大丈夫ですよ。キット、還りたい瞬間にいって、気持ちの何かを変えられますよ。」
 そう言って微笑んだ。

 私はコーヒーを飲みながら、アルバムをめくった。
 どの瞬間も還りたい瞬間だった。
 どの瞬間も今も恋しい時間だった。
 アルバムの中の二人は、意地悪だ。
 アルバムは今は重く。想いの分だけ重く。
 一葉一葉が
 はがれ落ちるようにめくられていった。
 このままでは私は
 枯れ木になってしまうんじゃないか
 そう思うほど
 めくればめくるほど
 秋が冬になるように
 私は凍えた

 ぎこちない距離の二人
 初めてのデート
 思い出の海
 遠出の旅行
 みんなとの写真
 二人きりの秘密の場所
 
 一葉一葉が
 私を思い出の世界に連れていった気がした。でもそれはいつもの空想のようで、でも、何か違って。トシユキの笑顔。声。暖かさ。そんなものにあふれるようで。でもぎりぎりのところで、現実に留まっていた。

「7月8日 トシユキとキキ。」
 私は、その写真をやっと手に取った。
 別れてしまった、トシユキとの最後の写真。
 まだ、その先の悲しい事実なんて思いもしない、二人の写真。
 旅行にいって、最後に一枚残ったインスタントカメラを、二人がいつも別れる駅の前で撮った、馬鹿みたいな写真。
 その瞬間。私は強烈に眠くなり。椅子にもたれ。何かに転がり落ちるように、意識を消されていった。




「これでオッケイじゃない?」
 そう耳もとで声がして、私はびっくりして顔を上げた。
 そこにトシユキがいた。
 あのトシユキだった。
「これ、こんなとこで撮って。いつもの駅なのに!とかキキ言いそうだなぁ。冷静にみたら馬鹿みたいだって言いそう。」
 そう言ってトシユキは笑って。
「キキさん?こういう馬鹿な写真は、あと見る時は興奮してみてね。」
 そうおかしそうに笑った。
 そう、あの写真の瞬間だった。
 もう、おやすみ。バイバイ。そう言うほんの数分前の写真の瞬間だった。
 でも、それは当たり前のようで当たり前じゃない。私たちが写した、全ての写真の終着駅だった。

「ん?どうした?キキ?」
 そう言ってトシユキは私を覗き込む。
 駅はもう真っ暗で人影もない。
 ただ、いつも「夕日みたいな色だね。」そう言っていた、オレンジ色の街灯だけが、私たちを照らしていた。

「ん?どうしたの?キキ?大丈夫か?」
 そうトシユキがまた聞いてくる。
 トシユキは私をしっかり見ている。隣にいる。トシユキは「今」私に恋している。
 その感覚。その感覚が、私の心を強烈に揺り動かした。
 忘れかけていた、そんなちっぽけで、でも当たり前に私を暖めていた、その感覚が。私の心の防波堤に、一気に押し寄せた。
「もしかして、今日昼飯食いすぎた?やめとけって言ったのに。」
 おかしそうに笑うトシユキ。こんな瞬間すら心に響く。

「じゃ!」
 そう手を振りそうになったトシユキに、私は抱きつく。
「おぉい。キキ?どうした?」
 トシユキは恥ずかしそうに私に尋ねる。
「キキ?泣いてるの?」
 私は、トシユキの胸に顔をうずめて、泣いた。
 トシユキの匂い。暖かな胸。トシユキの鼓動。あのはにかんだ笑顔。恥ずかしそうな声。なんで?なんで?
「キキ?泣いてちゃ分からないだろう?」
 トシユキが困惑したように、尋ねる。でも、きつく私を抱きしめてくれている。
 そう、私はこの中にずっといたかった。なんで、それは終わってしまったのだろう。消えてしまうのだろう。私には、何にも変えがたく、本当に必要なものだったのに。
「私のこと好き?」
 私は言った。
「ねぇ?トシユキ。私のこと好き?」
 これは夢の世界。こんな言葉が、何も変えない事を知っている。でも防波堤を超えてしまった想いは、もう溢れ出し濁流となって言葉を押し流していた。
「ねぇ私、トシユキが大好きなんだよ?大好きなんだよ?」
 暖かな腕の中。私を大事そうに包む、腕。私はその時、やっと気付くことができた。私は、ずっと守られていたんだってことに。
 二人で喧嘩したり、笑い合ったり。何か料理を作ったり、デートしたり。そうやって支えあっての私達だと思っていた。もちろんそれは間違いではないのだけれど。でもキット、私はずっとトシユキの
「キキが好き。」
 その想いに守られてきたことを。社会の辛いこと。自分に自信が持てなくなりそうな時。どんな時も、それだけがアイデンティティのように、私を支えたこと。それにやっと気付かされた。
 トシユキの「好き。」という感情の中を、羊水に漂う赤ちゃんみたいに、守られていた。
 そしてそれは形を変えて、今でも続き。私は今「トシユキは他の誰かが好き。」その感情の中を漂う魚のようだった。そう、まだ私の心は、トシユキの心から離れられていない…
「大好きだったの、ずっとずっと大好きだったんだよぉ。」
 私はもう、本格的に泣き出していた。もう、語る言葉も無くして。あなたの心も無くし。自分の心すら、無くした気がして。
「知ってるよ。キキ。俺も大好きだから。そんなに泣かないで。ずっと俺が守るから、大丈夫だよ。」
 そう言って、トシユキは腕の力をこめる。
 トシユキは知らない。この2週間後に、トシユキは小さく可愛い子と出会い、悩み苦しみながら、しかし、はっきりと私から遠ざかっていくことを。
 トシユキの腕の中は、暖かい。この暖かさが、誰かのものになる。
 私は一人ぼっちになり、でも、あなたは一人ぼっちではなく。一緒に感じてきていた何もかも、分かり合えなくなり、私は何も分からなくなる。


 あなたは、可愛い彼女と飲むのだろうか?


 あなたが大好きなあの、ファミレスのオニオンスープを…

 あなたは、あの場所に行くのだろうか?

 ここはお気に入りの場所なんだよって。あの時私に言ったみたいに

 可愛い彼女と、あの場所に行くのだろうか?


「ねぇ?キキ?俺、ずっと今日言いたいことあったんだ。」
 駅の前は、いつもの静けさ。そう、あの日もこんな静かな夜だった。夕日色の街灯だけが、スッポットライトのように、私たちを照らしている。そこでやっぱりあなたは
「俺、ずっと今日言いたいことがあったんだ。」
 そう言った。
 あの日、私に言ったみたいに。
「この前さ、テレビで地球最後の日!見たいなのやってたんだ。それ見てて、ずっと俺……キキのこと考えてたんだ。」
 トシユキは微笑みながら言う。
「終わる。何かも終わる。そんな時、やっぱり俺はキキを思い出すと思うよ。」
 そう言って、あなたは私のおでこに、そっとキスをした。
 あぁ、思い出はなんて暖かく、そして残酷なんだろう。まるで遠くにある暖炉のように、暖かさを少し感じるのだけれど、感じれば感じるほど自分の寒さに気付く。
「本当?ずっとずっと、本当に好きでいてくれる?私を…ねぇ。好きでいてくれる?」
 この暖かさを、繋ぎ止めたい。どんなことがあっても。もう、あなたからのプレゼントなんていらない。誕生日も祝ってくれなくていい。あなたがお金持ちにならなくたっていい。貧乏でもいいから。
 あなたの「好き」が欲しい。

 私は、トシユキの口付けに必死に答えた
 キスをした
 沢山した
 激しく
 切なく
 空しく
 苦しく
 そして
 愛しくて
 悲しかった

 唇を離すまで
 私は必死で、恋をした

 じゃ!
 そういってトシユキは駆け出していく。
 改札を抜けてオレンジ色の光を背負い。また明日に駆け出していく。
 トシユキはしらない。知らない。何も知らない。私も知らなかった。知らなすぎた。
 じゃ!の意味も。バイバイの意味も。
 超えるべきだった壁も。あなたの弱さも。私の弱さも。知らず知らず、先送りしていた、小さなすれ違いも。伝えるべきの、ラブサインも。
 知らない。気付かない。それは幸せな無知だった。
 いつか。いつも。いつでも。
 そうやって
 二人はずっと。好きだったんでしょ?
 ねぇ神様
 私たちは、好き同士だったんでしょ?
 それが、こうやってすれ違って
 好きだから言えない事とかあって
 好きだから言ってしまう事があって
 好きだから考えて
 好きという感情が
 別れる原因になるのなら
 恋愛とはなんで
 こんなにむごくひどく
 矛盾だらけなの?

 トシユキは一度、見えなくなるところでこっちを振り返って、笑顔で手を振った。
 ドクン!
その瞬間、私の心臓が高鳴る。いつかみたいに、高鳴った。
 その笑顔……ずるい。
 あなたの、何気ない一瞬が、今さらながら、今さらだからか、胸を打つ。
「バイバイ!また!」
 そういうあなたに、夕日色の光がかかる。
 その心臓の鼓動と共に、私は感じたことも無いような衝動にかられた。


 もう私は、トシユキに会えない。

「ねぇトシユキ?」
 だとか。ふざけて
「トシユキさんはどう?」
 とか。そんなことも言えなくなる。


 最後だ。これが最後だ。もう最後だ
恋。夢。朝。指。デート。部屋。メール。キス。ご飯。嫉妬。写真。車。散歩。
音楽。夜。喧嘩。笑顔。お酒。駅。合鍵。料理。匂い。君。夕日。じゃ!

 全てが愛おしかった
 全てが終わるかわりに
 きらきら輝いていた

 トシユキは笑顔で手を振る。
 ヤダ。ヤダ。終わっちゃダメ。もうあなたとは会えない。そしてこのままなら、私は弱いまま。
 キットあなたの中では、ここで終わる。私との幸せの時間も。アルバムのページみたいに。キキと付き合っていた頃。そんな感じに、あなたの中で終わる。
 でも私はそうじゃない。そんな簡単じゃない。両想いだったのが、片想いになって、私は、恋した分だけ、弱くなる。

 私は何を最後に言おうか、尻込みする。いざ。そんな時私の心は渦巻いて、ひとつの言葉も無くしてしまう。
 言いたいことばかりで。言いたくないことばかりで。恋して。恋しくて。言葉よりも、暖めて。言葉よりも、優しく暖めて欲しくて。何も言葉にできない。
 トシユキはにっこり笑ってこっちを見て
「キキ!おやすみ!」
 そう言った。

 それは奇跡みたいな一瞬だった。トシユキがいなくなる瞬間。恋する私達の「サヨナラ」の瞬間。夕日が、山すそに隠れる時間。秋から冬になる一瞬。不器用に積み上げた、私達の恋のジェンガが、崩れる一瞬。
 そして私達が過ごした恋の、最後の一コマだった。
「トシユキ!おやすみ!」
 私は叫んでいた。おやすみ!ゆっくり寝るんだよ!また明日ね!
 私は、叫んでいた。おやすみ!
 こんな当たり前の言葉が、本当は一番優しいんだって、何で気付かなかったのだろう?
 トシユキは手を振って、背中を向けてホームに消えていく。
「バイバイおやすみ!ゆっくり寝るんだよ!また明日ね!……おやすみ。おやすみ。おやすみ……バイバイ。」
 私はずっとそう呟く。涙はとめどなかった。次から次へと。溢れては流れて、流れては溢れた。
 涙はまるで、私の恋のようで。取り留めもなく止めることもできず、溢れ漏れ流れ止まらなかった。
 トシユキの優しさは、ずっと傍にあったんだ。ずっとずっとあったんだ。それは、無くなってしまったけれど。あったんだ。これからも辛い夜は、沢山やってくるのだろう。でも、ずっとあったんだ。
 トシユキの全てが大好きだったよ
 ささいなこと全てが
 あなたの面影になった
 それくらいあなたが好きだったよ
 私は不思議とつぶやいていた……

 私は
 恋をしたんだ
 優しい優しい
 恋をした
 



「お戻りですか?」
 その声に誘われるように、私は目覚めた。
「悲しいことがあったみたいですね。」
 もう夕日も傾き、その光が店内に差し込んでいた。ゆっくり倒したリクライニングを起こして、マスターを見る。そう、もう思い出カフェに帰ってきていた。
 夕日がまぶしい。
「泣いて…いましたよ。」
 そう言うマスターの声に、自分の頬にある涙が分かった。
「本当だね。もう!マスターもずっと私を見てたの?趣味が悪いなぁ。」
 そう笑って言う私にマスターは
「ごめんなさい。その代わりにサービスしますよ。暖かい…コーヒーでいいですか?」
「うん…。」
 なぜだか、優しいマスターの声に、私のひょうきんな声もそがれてしまった。
「私のおばあちゃんが言ってました。悲しい時は、泣きなさいって。」
 そう言いながら、マスターがコーヒーを出してくれる。その一言が、もっと泣いたっていいのだよ?もっと泣いて、すっきりしたっていいのですよ。そう言っているのは、はっきり分かったけれど、私はギリギリのところで泣くことを拒んでいた。
 今は、どんな優しさだって、崩れてしまえば、とめどなくどこまでだって崩れることができる。
 もしかして、それを望んでいるのは私なのかしれないけれど。でも私はこの悲しさを独り占めしたかった。この痛みが、私の恋の、最後感触だと分かっていたから。
 黙ってコーヒーをすすっている私に、マスターは唐突に不思議な質問をした。
「思い出は…何色でしたか?」
 マスターはハーフの端整な顔立ちを、私から少し逸らしながら聞いてきた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
 ふいの質問にそう聞き返した私に
「あっ気に障ったなら、ごめんなさい。ただ…昔、目覚めてすぐに、綺麗な水色だった。って言ったお客さんがいて。それ以来、どんな色でしたか?とかどんな匂いでしたか?とか聴いてしますんです。なんだか、あなたみたいな方には…」
 あなたみたいって?そう聴こうとしたけれど、それよりも自分の思い出が何色なのか、それを考え始めていた。
「うぅん…そうだなぁ?…オレンジ色?かな?そう、この夕日の色。こんな色だったな。」
 思い出の色なんか考えたことなかったな。でも考えてみればずっと、トシユキの思い出は、うん夕日の色だった気がする。
「夕日の色。ですか…初めて聴きました。夕日…今日の夕日は、綺麗ですね。」
 マスターは夕日に顔を向け、少し眩しい顔をしてから、こう言った。
「昔おばあちゃんが…おばあちゃんってずっと言ってますが。」
 そう言ってマスターは恥ずかしそうな顔をした。
「夕日は希望だよって言ってました。」
 夕日はね
 希望だよ
 秋だって
 希望だよ
 夕日に照らされて
 落ち葉は
 希望の色に染まるのだよ
 そう懐かしそうにつぶやいて、マスターは恥ずかしそうに私を見て
「なんで希望か、聞きそびれちゃいましたけど。」
 そう言った。
 でも私はなんだか癒されていた。動けないでいた。希望かぁ。そう思うばかりで。


 カフェを出ると、見上げる空は夕日色に輝いていた。そう、トシユキといつも帰ったあの駅の、街灯の色。夕日の色。
 秋の匂いが、優しく鼻をくすぐる。トシユキの傍でしか幸せはない。そう思って見上げた夕日は、今日も同じように輝いている。でも、同じようで違う気もする。
 紅葉した街路樹を眺めながら歩く。
 まるで私みたいだな。そう思った。
 写真みたいに、一葉一葉少しづつ思い出を実らせてきたのに。葉をつけてきたのに今やその思い出も、写真が色あせるように 紅葉していく。
 君を想い泣き、何かに流され
 キットこんな思い出も
 少しづつ落ちていくのかな?
 
 駅までの帰り道。子どもを連れて歩く、お母さん。遊ぶ悪がき。仕事帰りのお父さん。
 そんな風景を見ながら、ふとマスターの言葉を思い出していた。

 夕日はね希望だよ
 秋だって希望だよ
 そう言ってました。

 子どもが駆けていく
「また明日ねーー!」
 また明日ねって笑顔で駆け出していた。

 それをみて、あぁそうかなんて思った。

 あぁそうか
 私の見る夕日が
 どこかの国の
 朝日になるみたいに
 何かに光は差しているはず

 秋に落とした種が
 春に芽吹くみたいに
 何かがまた
 新しい何かが、始まっているはず

 もう、終わり
 今日も終わり
 あの夏も終わり
 この恋も、終わり

 でも、明日は来る
 春もまた来る
 新しい恋も、また、来る

 ねぇ?うまく忘れられていますか?
 うまく恋ができない私は
 やっぱりうまく
 失恋もできないのかもしれないけど
 それでも
 歩いていくから
 それでも
 歩いていくからね

 私
 歩いていくからね

 私はまた最後につぶやいていた
「トシユキ、おやすみ。ゆっくり寝るんだよ?」

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