思い出カフェ 春

 桜が少しづつ散り始めた4月。木漏れ日が頬をなでる電車の中に俺はいた。
 なんだかいてもたってもいられなくて。
 一人きりでいるのが耐えられなくて、電車に乗って、見知らぬ町に向かっていた。


 失恋したての心は、ほんの小さな振動で大きく揺れ動いて、自分でも持て余す心に困っていた。
 恵美との一番多い思い出は、自分の部屋だったから。自分の部屋なのに、自分の部屋にいると、思い出につぶされそうで、あまり部屋にいないようにしていた。
 過ごした時間が長いだけ。恵美を大切に想っただけ。いっぱい愛しただけ。
 恵美の思い出が残り。
 心を許していた分。自分の好きなものを教えていた分。笑い合った分。
 恵美の面影を日々感じた。


 俺は恵美に別れてから、自分の心との戦いで疲れてしまっていたのです。
 なんで?
 そんな問いは、答えにはならないのに。
 そんな問いは、決まってるのに。
 ただ、別れた
 それ以外の意味を探した。
 自分の今までの意味を
 ただ「馬鹿な男。」
 それにはしたくなかったから。
 男は弱くて、男は強くなりたくて。男は面子を守りたくて。男は、自分の存在を守りたくて。
 いつまでも、調子いい言葉で自分を正当化していた。


 それでも分からない涙が多すぎて
 あなたを愛した代償が
 こんな寂しい涙なら
 なんで恋なんかしたんだろうって
 そう思ったのに
 苦しいけれど
 やっぱり、やっぱり
 好きになんかならなきゃよかった
 そんな風には思えなかった

 
 恵美の最後の言葉は
「また逢えたらいいね。」
 だった。また逢えたらいいね。だった。
 また逢える事があるのかないのか、どうなのか。


 哀しい夢を見た朝は、本当に涙がでた
 どれだけ苦しめば、俺は許されるのだろう
 どれだけ、悔しい思いをすれば
 本当の朝が来るのだろう
 もう神サマ、許してと
 俺は朝日に向かって
「ごめんなさい」と何回も謝った。
 哀しい日々の連続だった。


 噂は昔から聞いていたのだけれど、本当なのかよと疑っていた。
 どうもあの町に、思い出に還れるコーヒー屋があるらしいよと。
 本当に?そんな馬鹿な。そんな事があるはずがないよ。と思っていた。なんでも思い出の写真を持っていくと、その瞬間に戻れるらしい。
 そんな話を疑って聞いてはいたけれど、こんなに心が傷ついてしまった俺は、気付けば電車に揺られて、その町に向かっていた。


 小さな駅の改札を抜けて、春の木漏れ日を浴びた。
 桜が駅前に数本たっていて、がらんと人も少ないような駅だった。
 春の青い空と、あたたかい風だけが、俺の冷えた心を慰めてくれている。
 人通りも少ない路地をゆっくりと歩いた。本当は、そのお店に行きたいのか、辿り着けるのか、それも分からなかった。でも、別にそれはどうでもよくて、なんだか部屋から出て行く、その口実が欲しいだけだったから。


 そんな事を想っていたら、そのお店は、本当に簡単に目の前に立っていた。もう、このお店への道を知っていたかのように、導かれるように辿り着いてしまった。
 そのお店は、なんだか例えるなら、昔よく行っていた、おばあちゃんの家みたいな…なんだか、不思議な懐かしさを醸し出していた。

 カランカラン

 ドアのベルに導かれるように、店内に足を踏み込んだ。
 なんだか、初めて来たはずなのに、そこには、もう「いつもの席」が用意されているかのような感覚がする。
「いらっしゃいませー。」
 そう言って、店の奥から従業員らしき人があらわれた。
 優しそうな顔をこちらに向けて。いきなり
「思い出のコーヒーですか?」
 そう優しく笑いかけた。


「なんで、思い出のコーヒーだって思ったんですか?」
 俺はお店の片隅にある、小さく仕切られた椅子に通されていた。小さなテーブルに、コーヒー店では珍しいリクライニングの椅子。
「だって、お客様は、とっても辛そうな顔をしてらっしゃいましたよ?」
 そう俺の顔を見ずに、マスターはコーヒーを入れながら、俺に語り掛ける。
「長いことこんな商売をしてると、すぐに分かるものなんですね。なんだか、苦しいというより、哀しそうな顔をされてました。なんだか、今を生きていないみたいな。」
「今を生きていない?」
 俺はマスターの言う言葉に反応してしまっていた。
「いや、今を生きていないって言うのは失礼でしたね。ごめんなさい。
 そうですね…今を見ていない
 ですかね。まだ、懐かしい何かに心を囚われている。そんな感じでした。」
 そう俺に振り返りながら、マスターは語
り掛けた。
 そしてもう一度、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「いやいや!そんな、謝られることじゃないですよ!」
 俺は恐縮してしまって、思わず手のひらをヒラヒラと横に振る。
「それで、本当に思い出に還れるんですか?」
「そうなんですよー。」
 マスターはなんだか可笑しそうに笑いながら答えた。
「どんな風に?」
 そう聞いた俺にマスターは
「写真を見ながら、コーヒーを飲むだけです。」
 そういって、ひとつのホットコーヒーをだしてくれた。
「写真を持ってきていますよね?」
 マスターは優しい笑顔で、俺に尋ねてくれる。

 そう、俺はこのお店にもし辿り着けた時のために、一枚だけ写真を持ってきていた。
 なんだか願掛けみたいに、片付けた写真の束から、適当に一枚抜き出して。
 その写真は、恵美と一緒に過ごした大晦日の日の写真だった。
 二人で手を繋いで、引っ付いて笑い合う二人。
 思わず抜き出して、その写真を見た瞬間に、胸が凄く痛くなったけれど。
 それでも、その写真の束から、還りたい瞬間を探し求めるのも、違う気がしたし、そんな力も残っていなかった。
 だから、この写真だけ鞄にそっとしまって、部屋から逃げ出してきたのだった。

「彼女さんですか?」
 マスターは俺の写真を見て、優しく尋ねてきた。
「いいえ。もう別れてしまいました。いろいろとすれ違ってしまって。
 俺が弱かったからいけなかったんでしょうね。」
 なんで俺はこんな初対面の人に、こんな素直な気持ちを言っているんだろう?そんな気持ちになった。
 でも、キットこうやって素直になれるのは、マスターの深い優しさに満ちた、雰囲気がそうさせているんだと思った。
 なんだか、どんな気持ちを言っても、優しく受け止めてもらえそうで。
 そう俺はもう、このマスターの事をすっごく気に入って、好きになっているのに気付いた。
「すっごく大切にしていたんですけど、ダメでした。上手にできなかったんです。」
 となんだか、可笑しく笑いながらいってしまっていた。
「上手な恋なんてないですよ。上手に恋するより、一生懸命恋するほうが、大切なんじゃないですか?」
 マスターは優しく言ってくれたけれど
「一生懸命だけじゃダメなことも多いんですよ。」
 そう俺は苦笑いしてしまった。なんだか、俺はもう自信を無くしてしまっていたから。
 あんなに頑張ったって、理不尽なことは訪れる。いやいや、頑張って恋愛するって、そもそもなんだろう?
 惚れた女を幸せにしたい。それ以上もそれ以下もないはずだったのに。
 苦笑いをしている俺を見てマスターは
「じゃあ、これから思い出に戻って、もう一度だけ一生懸命恋をして、また少し恋愛の仕方を、学ぶんですね。」
 なんて優しく言った。
「でも、恋愛の仕方なんて、人の数だけあるから、しょうがないですけどね。」
 なんてマスターは恥ずかしそうに、鼻の頭をかいた。


 俺はコーヒーを飲みながら写真を眺めた。
 仲良さそうに、手を繋ぎながら
 笑い合う二人
 これからの哀しさも苦しさも
 全部知らない二人
 

 俺は、思い出の瞬間に還って
 何を想って
 何を手に入れるのだろう

 でも、心の奥でドキドキ鳴っていた
 欠けたピースを探すような
 もう一度、出逢いたいって
 そんな気持ちでいた



「いえーい。」

  急に耳元で声がした。片手をぎゅっと繋がれて、もう片手で、俺はカメラを伸ばして写真を撮っている瞬間だった。
 そう、この日はあの大晦日。二人で過ごした最後の大晦日だった。
 いつも散らかっている、俺の部屋で過ごした大晦日。狭い部屋に布団を二つ敷いて、お酒を飲みながら、ごろごろして、新年を迎えた、あの日だった。
 二人に今年最後だからって、二人で安い指輪を買ったんだ。その指輪を買った記念だからって、一緒に写真を撮った、あの瞬間だった。


 本当に俺は思い出の瞬間に、還ってきていた。
 思い出の瞬間に還ってきていた。


「しょうちゃん、ちゃんと撮れた?」
 恵美は笑顔で、デジタルカメラの画面を覗き込んでいる。


 なんて幸せなんだろうと想った。

 手を伸ばせば、触れ合える距離

 笑いかければ、笑い返してくれる時間

 ずっとこんな時間が続くと

 信じていた優しい気持ち


 そんな手からこぼれてしまった、もう戻れもしない、純粋な気持ちでいれた
 もう叶わない苦しいほどの、幸せの時間がそこにあった。


 恵美は写真を嬉しそうに確認してから、嬉しそうに指輪を眺めている。
 もうそこに何かの約束をみているような。そんな幼い顔。キット、これからを夢見るお姫様の目。
 俺は反射的に、恵美の頭を撫でていた。優しく精一杯の気持ちで。恵美の笑顔を壊したくなかった。それだけだった。
 いつだって、キットそれだけだった。
 俺はキット、いつだってそれだけだった。
 それが、ダメだった?
 


「しょうちゃん、こっち。」
 俺は手招きされるままに、ベッドに横になった。いつも恵美と昼寝をした、俺のベッド。
 恵美は、いつものように、横になった俺にギュッ抱きついてきた。
 横になって後ろから、抱き着いてくる恵美は俺に
「大好き。」
 とつぶやいた。
 俺はもう振りかえれなかった。もうそれは、あまりに幸せな瞬間すぎて。少しでも動いてしまったら、それはすぐにでも音を立てて崩れてしまいそうだったから。
 なんで、幸せな瞬間は
 ずっと続かないのだろう?
 なんで、大切な瞬間は
 その時に気付けないのだろう?
 「今」をいつだって掴み切れない俺は
 どれだけ君を傷つけたのだろう?

 君はいつ傷ついていた?
 あの時君は泣いた?
 どんな気持ちで傍にいたの?

 分からないことばかりだった。でも今傍に恵美がいるのに、俺は動き出せないでいた。
 恵美は俺に抱き着きながら、紅白を見ている。
 「演歌になっちゃったー。しょうちゃん変えていい?」
「んーいいよー。恵美は何が見たいん?」
「特にないけどねー。どうせしょうちゃんテレビ興味ないでしょ。」
「うん。できれば別に消しといてくれてもいいよ。」
「それは恵美が嫌だからー。」
 他愛のない話。
 そんな瞬間が嬉しかった。とっても嬉しかった。
 恋する瞬間は、どんな時?それはキット、色んな瞬間があるんだと思う。でも
 心に残っている瞬間は何?って聞かれたら
 誰にも通じない。二人だけの、二人だけで笑い合った瞬間なんだ。

「今年も、大好きっていっぱい言ってくれてありがとう。」

「だって、大好きなんだもん。」

 恵美はそう微笑む。君の笑顔は、あと半年も無いのに。
「ねぇ。いつも思ってたんやけど、なんで恵美はいつもいっぱい大好きっていってくれるん?」
 俺はずっと気になっていたことを聞いた。恵美はいつだって俺に大好きと伝えてくれた。それがなんだか普通になってしまっていたし、なんだか当たり前みたいな気さえした時もあった。
「なんでって…大好きだからだよ?」
 知ってる。俺は知っていた。いつだって恵美が好きでいてくれることを、それをなんだか当たり前みたいに思っていた。
「だって、気持ちはいつだって伝わらないじゃん!」
 恵美はちょっと力強く俺をみて
「いつか急にサヨナラになったら…そんなの考えたくないけど。その時、もっと好きって伝えればよかった。って後悔したくないから。」


 ねぇ

 ひみつだよ?

 私ね

 好きな言葉があるんだ

 言葉はね

「積み上げる弱い魔法」

 なんだって
 
 言葉はいつだって弱いから

 キット気持ちの

 十分の一も伝わらないから

 だから、少しづつ伝えるの


「大切なんだよ」って


 俺はもう、その時泣き出していた。恵美が一緒にいる時、一度も見せたことの無かった涙。意地を張って、苦しくてもそんな素振りをみせなかった。
 なんだか自分の中の理想の男を装って。恵美の彼氏を演じていた。
 相手を想っている振りをして、そんな気持ちに振り回されているのは、紛れも無い自分だった。
 
 恵美は俺を覗きこむ
「しょうちゃん泣いてるの?」
 俺をそっと抱きしめて
「ごめんね、ごめんね、何か傷つくこと言っちゃったかな?」
 俺は顔を横に振る。もうそれはただの子どものように。
 
 神サマ
 弱くてごめんなさい
 甘えててごめんなさい
 恵美の優しさに
 いつだって甘えていました
 居心地が良くて
 なんだか、何も言わなくたって
 通じ合えるような気がしていたのです

 でも、キット
 恵美も考えていた
 苦しいことだとか
 嬉しいことだとか

 恵美との人生を夢みていた
 それをうまく伝えられずに
 口をつむんでいた

「ごめんね。」
 ふいに言葉になった気持ちは、ごめんねって言葉だった。いつだって、なかなか伝えれないでいた、正直な気持ち。
「恵美を幸せにしてあげたかった。」

「ごめんなさい。」

 もっと、男らしく恵美を幸せにしてあげたかった
 もっと、沢山の幸せをあげたかった
 もっと、沢山おいしいものとか、一緒に食べたかったよ

 ごめんね

 そう俺が言い終わると、恵美は背中で首を振った


「いいの。」
 なにがさ?
「ちがうの。」
 なにが?
「幸せってね?」
 うん
「そういうことじゃないの。」
 


 しょうちゃんが
 運転する横顔とか
 しょうちゃんが
 うとうとする姿だとか
 あなたと
 食べたランチとか
 夜の約束とか
 あなたの部屋の合鍵とか
 大丈夫って言葉とか

  
 幸せってね
 何かしてくれたとか
 何かしてあげたとかじゃ
 ない気がするんだぁ


 今ね
 今本当に幸せだって思えるのは
 今幸せだなぁって思えるのは

 私が


 あなたと


 一緒にいれたこと


 それだけだよ

 ありがとう

 恵美の言う通りだった。恵美を失って思い出すことは、いつだって特別なことじゃなかった。
 一緒に食べたランチ。一緒に寝た昼寝。手を繋ぐ瞬間。笑顔。一緒にみたテレビ。
 車でのドライブ。いつもの買い物。
 

 なんで
 なんでそれを失ってしまったのだろう
 あなたの
 温もりが
 恋しいよ


 ごめんなさい
 ごめんなさい
 もっと俺は強くならなきゃいけなかったね

 
 そう想っていると、急に眠気が俺を襲った。そうだった、去年もここで居眠りしてしまったんだ。恵美に「一緒に紅白見ようよー!」って怒られながら。それでも、恵美に守られているのが、本当に安心で、眠ってしまったんだ。ただ、子どものように守られながら、眠っていた。
 そう、それは特別だなんて、思いもしない、なくして気づく、本当の安心感。それを知らないでいた。


 その時、俺は一生懸命目を覚まそうとした。このまま眠ってしまいたくない!
 眠りたくない。寝てしまったら、もう恵美に会えなくなってしまうかもしれない。なんの為に、この日まで還ってきたのだ。
 なんの為に、恵美と恋愛したのか。
 その答えが欲しかった。その答えになるように、俺は必死に恵美に言葉を紡ぐ。


「恵美。ありがとう。ありがとうね。傍にいてくれてありがとうね。」
 俺は精一杯伝えたいのに。
なんで言葉はこんなに、気持ちに追いつかないのだろう。
「大好きだったよ。ずっとずっと俺が守りたいって想ってたよ。俺が恵美を助けていくんだって。でも、俺…弱くて甘えてて…。」
 恵美は俺の後ろから引っ付きながら聞いてくれている。


「恵美をもっとずっと、笑顔にしたかった。」


 俺は最後にハッキリ伝えた。
 それは嘘偽りのない。本当の言葉だった。あなたを想い過ぎて、笑いすぎた日々。
 幸せ過ぎて、伝え過ぎた「大好き。」
 あふれるほどの気持ちを
 信じていればよかった
 優しい日々


 キットこれからも、毎日の日々が
 キットこれからも、たくさんの人が
 この恋は違ったんだって、俺に言うだろう
 でも、でも
 違うことなんてなかった
 いっぱい笑顔にしてもらった
 いっぱい大好きだった

 キットこれからの日々が
 色んな気持ちをぼやけさせてしまうだろう
 でも、でも
 これだけは覚えておこう


 恵美の笑顔で救われた日々が
 確かにあったんだ
 恵美に教えてもらったことが
 いっぱいあったんだ
 どんな未来だろうと 
 これだけは覚えておこう

「ありがとう」の気持ちだけは

 あなたの笑顔を願う気持ちだけは

 覚えておこう


 俺の背中に引っ付いている恵美が
 ううん。
 首を振るのが分かった。

 恵美はキット笑っている

 恵美は耳元でささやいた

 いっぱい笑顔にしてもらったよ。
 ありがとう。

 そう言ってギュッと俺を抱きしめる力を強くした。
 あぁなんて幸せなんだろう…そう思ううちにどんどん、意識がかき消されていく。
 俺は最後に願っていた。失ってしまうことを分かっているというのは、なんでこんなにも哀しいのだろう。必ず全てのものは失われてしまうのに…
 最後を分からずにいた…

 神様!お願いします!
 これだけ伝えて!お願いします!


 
 俺の言葉だけが
 宙に浮かんで消えた
 これが、最後なんだ


「笑いあってくれて
 ありがとう。
 とっても幸せでした。」


 恵美がいっぱい
 笑顔でありますように



「おかえりなさい。」


 俺はカフェに戻ってきていた。木漏れ日が俺のほほを暖めている。

 あぁ、もう戻ってきてしまったんだ。もう戻れないのか。そんなことばかり頭を巡った。

 あんなに幸せだった瞬間はそう。こんな風に、キットいきなり終わってしまうもの。
 なぜだろう。春の木漏れ日はこんなにも暖かいのに、心の寒さはなかなか過ぎ去らずに、俺の傍に居続ける。
「ありがとうございました。」
 俺はマスターに頭を下げた。何が変わったのか分からない。何を整理できたのか分からない。
 もしかして、俺は弱くなっただけかもしれない。でも、でも、あの瞬間に戻らなければよかったとは、俺は全然思っていなかった。

「とんでもないです。何か少しでもお力になれましたか?」
「はい。」
「本当ですか?」
「本当ですよ。」
「まだ哀しそうな顔をしてる。」
 マスターは俺の顔を覗きこんで、哀しそうに笑った。

 男ってなんでこんなに弱いのだろう。
 背伸びをいっぱいして、いつだって苦笑い。
 男は強くなければ生きていけない。
 でも、それができないでいる

「失恋って苦しいですよね。」
 マスターが急に話そんな話をし始めた。
「なんで失恋ってこんなに
自分ひとりだけのものなんですかね。」
 マスターは、木漏れ日を見上げながらつぶやく。電車が過ぎ行く音だけが遠くに聞こえていた。
「どういう意味です?」
 そう聞く僕にマスターは答えた。

「だって、誰も本当の意味でその痛みは分からないですものね。恋愛はワーワーと皆でするものなのに、終わってしまえば。二人の関係。二人の思い出、二人の約束…全部全部、ひとつしかない…だからみんな寂しいんですよね。誰も本当の意味では、分かり合えないから。」

 そう、その通りだった。どんなにどんなに、自分が何回恋愛したって。どんなにどんなに皆に「分かるよ。」って言われたって、やっぱり恋愛は毎回、それ自体、奇跡だ。

 二度とない、キラキラした、奇跡だった。

 だから皆、笑ったり泣いたり忙しい。
 誰にも分からない傷を背負って生きていく。
 自分ひとりだけの、奇跡みたいな恋愛を胸にしまって、生きていく。

「失恋した時って、自分が本当に弱い人間だと想いませんか?」
 マスターが笑ってたずねてくる。その顔は本当に優しい笑顔だった。
「そうですね。本当に、自分の弱さと、惨めさと、悔しさがつのりますよね…。」
「分かります。失恋してかっこいい男なんていませんからね。」
 そう言って、マスターは頭をかいてもう一度
「なんでこんなに失恋って、ひとりぼっちなんですかね…。」
 そうマスターは窓の外を見ながらつぶやいた。
「まえ、ずっとまえに僕が失恋した時に、おばあちゃんが言ってくれた言葉があるんです。それがずっと僕の中にあるんですよ。」
 マスターはそう言って
 優しくひとりごちた


 大丈夫だよ
 苦しさは


 いつかの
 優しさに
 かわるから


 大丈夫だよ
 弱さは


 いつか
 強さに
 かわるから


 大丈夫だよ
 ひとりじゃないよ
 大丈夫だよ
 辛かったね
 苦しかったね
 良く頑張ったね
 大丈夫だよ
 傍にいるよって


 そう言ってマスターは笑った


 そうだった。そうなんだ。そうだ。恋愛は本当、みんな戦いなんだ。自分と相手の弱さと強さと、ドキドキとワクワクの。それをずっと誠実に伝えるための、奇跡みたいな瞬間なんだ。
 それが終わってしまった瞬間に、どれだけ喪失感を覚えようと…みんなそうして生きているんだ。


 マスターはぼーとしている俺をみながら


 精一杯恋したんだもんね

 良く頑張ったね
 
 素敵な恋だったんだもんね

 って抱きしめてくれたんです

 そう言った。

 
人間の精一杯は何で、こんなにちっぽけなんだろう。それでもみんな、精一杯背伸びして恋をする。精一杯背伸びして生きていく。


 失恋した時って
 本当に惨めで
 誰にもわかってもらえない傷を
 みんな抱えて泣いている
 みんな
 バカだバカだって
 自分を叩いてる
 だからその手を止めて
 誰かこの手を止めてって
 叫んでる


「本当に、男って不器用ですけど。」
 とマスターは言ってから、俺にコーヒーを出してくれた。さっきとは違い氷が入ったアイスコーヒー。
「本当に不器用ですけど、僕たちは男の子だから、転んだだけ起き上がっただけ、誰かを守れるようになってもいいんですよね。」
 そう言ってマスターは、優しい笑顔で俺を真っ直ぐ見つめた。
「いっぱい傷ついたってことは、それだけ真剣に全力で走ったってことですもんね。
 だから転んでしまったら、いっぱい傷つくんですから。」
「そうですね。」
 俺はマスターにお礼をいいコーヒーを飲む。冷えたコーヒーが、現実に引き戻すように、喉を通りすぎて行った。
あぁこのコーヒーがまた思い出に連れてってくれないか。そんな弱さがジワリと胸をみたす。
 そんな心を見透かしてかどうなのか、マスターが少し力強い声で言った。
「転んだら、いっぱい泣いて苦しんで、わがままいって、また誰かを傷つけて…
 でも、キット立ち上がりますよ。
 そうしたらキット強くなれるんです。
 傷だらけでも両手広げて、ほら!俺はこんなに頑張った!って笑えますよ。
 そうして、人を守れる力がつけれるんです。
だって転んだ人の痛みが分かるんですから。俺は立ち上がれるんだって、もう知ってるんですから。」
 そう言ってもう一度、俺を真っ直ぐ見て、もう一度力強く言った。

 だって僕たちは
 男の子ですから

 そう言ってまた、優しい笑顔に戻って
「少し話しすぎちゃいましたかね。恥ずかしい。」
 と本当の少年のような笑顔で笑った。


 桜並木を見ながら、ぼーっと駅まで歩いていた。だんだん暖かくなったこの時間に、俺だけ置いてけぼりみたいに…心だけ、季節に追いついていなかった。


 俺は。どうしたいのだろう。俺はどうやって強くなろう。


 ふとそんな事を想っていると、そうさっきまでいた思い出の世界の、恵美の笑顔がふっと思い浮かんだ。

「いっぱい笑顔にしてもらったよ。
 ありがとう。」


 そう言って笑う、笑顔が思い浮かんだ。
 その笑顔を思い出して、胸がキュッと音を出した。


 あぁそうだ。そうなんだ
 俺は恵美の笑顔が、大好きだったんだ。
 キット、それだけでよかったんだ。


 ふと横に目をやると、小さな川が流れている。小さな川が、桜の花びらでピンク色に染まっていた。
 春の明るい光の中で、ピンク色の川が眩しかった。
 あんな小さな花びらだって、少しづつ少しづつ、川の色を変えられる。
 ふと、恵美の教えてくれた言葉を思い出した。

 言葉はね
 積み上げる弱い魔法なんだって

 ピンク色の川は本当に綺麗だった。


 本当に少しづつ、少しづつしか、未来は動かないけれど、大切なものを積み上げていけばいいよね。それしかないんだ。


 小さな花を咲かせよう
 たくさん咲いたら春になるから
 小さな花を集めよう
 小さな花だって集めれば
 花束になるから


 俺は男の子だから
 もらえなかった分、誰かに与えなきゃいけない
 辛い時に、掛けて欲しかった言葉を
 辛い人に掛けてあげられる人になろう
 傷ついた分、誰かを守ってあげれるようになろう


 不安定な足元を踏みしめた。春の陽気が俺を包んでくれる。
 そうこれから始まるよ。
 春が俺に告げていた。


 あぁ不器用だなぁー
 そう春の空に背を伸ばす。
 本当は本当は、いっぱいの弱音と
 悔しさをまだ隠し持っている

 
 苦しい期待と、哀しい傷を
 どうしようもできず抱えてる
 でも

 でも

 俺はやっぱり男の子だから
 進んでいこう
 どんな道だって
 進めばどこかに続くはず


 あれはあれで

 必要な過去

 これはこれで

 必要な現実
 


 そして一番大切なのは
 今を進む心

 俺は俺は、胸を張るよ
「ありがとう」って


 桜の花びらが俺の体を包むように、舞い上がった。


 散ってしまうことは
 悪いことじゃない
 また、花は春になれば
 芽吹くのだから


 心よ
 いつでも春であれ
 そう想うけれど
 キット
 夏も秋も冬だってやってくる

 でも
 夏も秋も冬もくるように


 春は必ずまた訪れる

 
 その時沢山の花を咲かせるように
 今は今は
 深く深く根を伸ばす


「さって、行こうかな。」
 俺は心で恵美に笑いかけた
「また逢えたら…なんてね」
 散る桜の木に微笑んで
 ひとつ大きく背伸びをした


 これが新しい季節の始まり


 俺は駅に向かって歩き出した。


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