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交差する、二つの旅/『スローシャッター』雑感

「余儀ない旅」=「仕事」?

 読み始める直前、『スローシャッター』の出版関係者から「この本は “仕事” の本」という言葉が投げかけられた。と、 そこで不意に、 ふたつのフレーズを思い出した。 それは、 「夢見た旅」と「余儀ない旅」だ。

 このふたつのフレーズは、沢木耕太郎さんの長篇エッセイ『旅する力・深夜特急ノート』の序章「旅を作る」の中で、アメリカの女性作家/アン・タイラーの小説『夢見た旅』『アクシデンタル・ツーリスト』の2作品に言及するくだりで登場する言葉だ。

 「夢見た旅」については、作品タイトルがそのまま対応するのでひとまずよしとして、「余儀ない旅」にという言葉については、実はこれが連想の起点でもあるので、説明にかえて沢木さんの文を少し引くことにする。

 この『アクシデンタル・ツーリスト』は、ウイリアム・ハートの主演で映画化され、日本では『偶然の旅行者』という邦題で公開された。確かに、アクシデンタルには「偶然の」という意味がないことはないが、ここではどちらかと言えば「たまたま」というニュアンスのほうが近いように思われる。アクシデンタル・ツーリストとは、偶然の旅行者ではなくて、たまたま旅をする人ということになる。つまり、旅そのものが目的の人ではなく、旅が付属物でしかない人、たとえば、商用での出張や義務的な訪問のために余儀なく旅をする人のことを意味するのだ。

『旅する力・深夜特急ノート』序章「旅を作る」より

 そして沢木さんは、『夢見た旅』と『アクシデンタル・ツーリスト』が、内容の面白さ以上にそのタイトルが “「旅」 について考える契機を与えてくれた” とし、次のように続ける。

 まず、夢見た旅、である。原題は違うのだが、そして内容とも微妙に違うのだが、夢見た旅、という言葉にはさまざまなものを喚起する力がある。
 次に、アクシデンタル・ツーリスト、である。そこから、余儀ない旅人、あるいは、余儀ない旅、という言葉が導き出されてくる。
 夢見た旅と余儀ない旅。
 これは旅の持っている二つの性格を鮮やかに表象する言葉のように思われるのだ。

『旅する力・深夜特急ノート』序章「旅を作る」より

 と、まあ、こんな具合に、『スローシャッター』が(「旅すること自体は目的ではなかった “旅” の本」という趣旨の補足もありつつ)「 “仕事” の本」であるーーという視点の提示がきっかけで、「余儀ない旅」という言葉の記憶が浮かび上がってきた、と。

 「 “旅” じゃないよ、“仕事” だよ」という言葉とは真逆?の存在、 「旅」の大家である沢木さんの言葉に行き着く、というのが、なんとも。

ジャストミート?

 もっともこの連想、“とってつけた思い付き・こじつけ”ぐらいにしか考えておらず、すぐに忘れてページを繰り始めた・・・・・・つもりが、しかしさっそく一篇目の「アプーは小屋から世界へ旅をする」を読み進めるうち、意外に的外れでもないような気がしてくる。

 とりわけ、世界地図を通じて、作者の田所敦嗣さんの「余儀ない旅」と、彼が出会ったアプーの「夢見た旅」とが見事に交差し、現在(※その時点での)と未来の「旅」とをそれぞれ形作っていくさまに至っては、まさしく「旅の持っている二つの性格」が「鮮やかに表象」されたのだとしか思えなかった。
  まして、 それが本書の冒頭に置かれているワケで、 あまりにも象徴的ーーとさえ思える。

 とはいえ、本作で描かれる旅は基本的に出張なわけで、ゆえに、全てのエピソードで、これほど「鮮やかに」二つの旅が交差しはしない。けれど、田所さんの旅からは、どこか常に、「夢見た旅」が地下水脈のように流れている気配を感じる。だからこそ、彼は、「余儀ない旅」で本来想定されるだろう合理的な(、そのぶん、ある種無機質なのかもしれない)ルートに収まることなく、他者とのコミュニケーションを媒介にして「旅」をいとも容易く化学変化させ、有機的に変容させることができる。

 で、なければ、誰かに旅への夢を与えたり、また、彼自身がいつかの再訪や再会を夢見る、そんなエピソードが、幾遍も織り交ざりはしないだろう。
(おそらく、変容の度合いが大きかったからこそ、それらエピソードは特にシンボリックなのだ)

 「余儀ない旅」を繰り返す、その途上にあっても、田所さんの中で、二つの「旅」は常に交差し続けている。きっと。


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