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スラタニの料亭

今週は何年かぶりに風邪をひいた。

とはいえ症状は軽く、熱も無いのだけど、あまりスッキリとはしないまま、流行りのワクチンを接種した。

多少の副反応により微熱が続いたが、旅の再開に向けて前進したのだと思えば、気持ちは明るい。

こんな厄介な日々を振り返り、ツラかったねと話題に出来る時が早く訪れる事を。

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スラートターニー県は、タイ南部の東に位置する行政区(県)の1つである。
半島からすぐ沖合には観光地で人気のサムイ島やパンガン島があり、南西にある半島の対岸にはクラビやプーケットもある、どこを向いても美しいエリアだ。
*スラートターニーってすごくタイプしづらいので、以降は音声言語に近いスラタニと呼ぶ

相変わらず向かう先はそれらのパラダイスエリアとは無縁の内陸になるのだけど、それでもスラタニ国際空港に着く度、陽気な欧米の観光客に混じっているだけで、いつも気分は明るくなった。

空港はとても小さいが、国際空港と名付けられている。
アラスカにあったチグニック国際空港は殆ど冗談みたいな空港(小屋)だったけど、スラタニはハイシーズンになると北欧から直行便がどんどん降りてくる。

機内の窓からは、必要以上に煌びやかなバンコクの灯りから、最低限必要だからとでも言いたげな電灯のみが光る小さな空港に着陸する。

タイ訛りの英語のアナウンスが終わり飛行機のドアが開いた瞬間、機内のエアコンが一気に結露して霧状になる瞬間が到着の合図だった。

降りた途端に漂う空気の香りは、その中にいつも埃っぽさがあった。
ガタガタと軋む1レーンしかないバゲッジクレームでは、すぐに荷物が出てきた。

初めてスラタニを訪れた時、空港には事前に打ち合わせた通り背の低いおじさんが立っていて、僕を見るなり、遠くから軽く手を挙げてほほ笑んだ。

「おお、ようこんなとこまできたね……なんやキミ、えらい大きいな。」

イワカミさんは、このスラタニで長年工場を経営する御年70手前の日本人だ。
想像していたよりもずっと小柄だが、浅黒く日焼けした肌と、その目に宿る鋭い眼光は、明らかな職人のそれを思わせた。

業界に長く勤めていると、方々から彼の色んな噂を聞いたが、どれも共通していたのは仕事に厳しく、時に怖いという印象だったのに、いざ会ってみるとその印象は数分で崩れた。

和歌山でも田舎の出身で、長い間海に携わる仕事をしていた事もあって、スラタニまで来て訛りの強い方言を聞いていると、それだけで何だかとても不思議な気分になった。

仕事柄、海外では比較的珍しいと思うのだけど、空港からは彼自身が小型の日産マーチを運転をした。

「わざわざ運転手を雇うのも、モッタイのうての。ハハハ。」

車内に乗るなり、イワカミさんはマシンガンの様に会話をした。
簡単にスラタニの案内をし、仕事の話から、今熱心に見ているというNHKの大河ドラマの話までしてくれ、人懐っこい話しぶりに、当初身構えていた僕は拍子抜けをした。

小さく見える街の一番大きいホテルに着き、チェックインを済ませると、

「ほな、翌朝また7時に迎えにきます。今夜はよう休んで。」

そう手を振り、自宅へと帰っていった。

なんだ…思っていたよりもずっと優しそうな人じゃないか。
僕はちょっと、安心した。

翌朝。
工場へ着くと、ヘッドオフィスにいるスタッフが起立をして、日本語で挨拶をしてくれた。
すごいですねと言うと、イワカミさんはなんのなんのと笑いながら応接室へ案内してくれた。

それから毎日工場では、驚きの連続だった。

凡そどの国でも出来る事は設備の関係や風土的な理由によって決まっていて、ワーカーさん達の雰囲気も似ているのだけど、どうしたらこんなに細かい配慮が出来るのかと思うほど、全てのワーカーが熟練していた。

「わしも、えらいここで教えてもらったんや」

そう言って、苦笑いをしながら話してくれた。

「ここでは、怒られることに耐性がない。そもそも怒られるという経験が極めて少ないんや。だから最初タイに来た頃はよー怒っとった。ほいたら、ここを辞めるいう子が続出してな。えろう焦ったわ。わしは怒って教える事しか知らんかった。そこから何日もかけて奴らと話し合って、やっとコツを覚えたんや。怒らんでも皆、理解するちゅうことを。」

それから彼は、この地で生涯彼らと生きていくことを決めた。
収入の殆どをワーカーと設備に費やし、自身は愛犬1匹と極めて質素な生活をした。
そして、どの国の工場にも負けない技術を研鑽していった。

長い一日が終わると、応接室のホワイトボードにはギッシリと、彼の技術が惜しみなく書かれていた。

「飯、なんにする?」

決まってこう尋ねるイワカミさんが、少し可笑しかった。

なぜなら、スラタニは景色も綺麗だし内陸もヤシに覆われた素敵なエリアだが、店はいつも決まった2件のタイ料理店だけだったからだ。

僕は、ちょっとだけタイ料理が苦手だった。
どうも味が”ちゃんぽん”されてしまう料理を全般的に敬遠してしまう傾向にある。
スパイシーなのに甘くてしょっぱいとか、強い味覚同士が混じってしまうと、何を食べても同じ料理に感じてしまう。

なので暫くは色んな場所を探しに行くんだけど、田舎故、なかなか見つからない。
一度、全く読めないタイ語のネットを検索してようやく見つけた、街外れにあるイタリアンレストランを見つけた時はかなり興奮した。
レストランは海岸沿いにあって、雰囲気は抜群なのだけど、観光地では無い随分とローカルなエリアにあったのだけが気がかりだった。

イワカミさんもそこへは行った事が無いという事だったので、工場のマネージャーも誘い、店で色んな料理を頼んだ。
次々に運ばれてくる料理はまさに誰が見てもパスタでありピザだったのだけど、1つだけ問題があった。

トマトベースとクリームベースは材料も見た目も全く違うはずなんだけど、口に運んだ瞬間、同じ味になる。

次々に来る料理があまりにも同じ味なので、3~4品目辺りから僕達はもう笑いが止まらなくなっていたが、それが店主にわかると悪いので、グッと堪えた。

それでもイワカミさんは僕がタイ料理がニガテなのを知っていたので、田舎はロクなモノが無くて申し訳無い……が口癖になってしまっていた事を、申し訳なく感じていた。
決して料理が不味いのではない。僕が勝手なわがままを言っているだけなのだ。

そんな関係の仕事が続いたある年、スラタニの市内にちょっとだけ大きなショッピングモールが出来た。

来訪時、イワカミさんはとても嬉しそうに僕に言った。

「ウソみたいな話やけどな、こんな街に日本の料亭が出来たんや。タドコロクンはここの料理がダメやろうから、これはモッてこい思うて、今夜予約しといたわ」

その日の夕方、楽しみにショッピングモールヘ行くと、そこにあったのは日本でもよく見る、”やよい軒”だった。

「天ぷらにとんかつに麺類にと、どこをどう見ても料亭やろ?」

そう言ってゲラゲラ笑い合って食べるスラタニの夕方が、とても楽しかった。

彼の工場から産み出される製品は日本でも評価され、着々とお客が増えていった。
僕もイワカミさんの製品を売っている事が、とても誇らしかった。

数年後、彼の工場はスポンサーとのいざこざに巻き込まれるような形で、閉める事を余儀なくされた。
イワカミさんの手で丁寧に鍛え上げられた多くのワーカーは、最終日に泣きながら彼と別れたそうだ。

当時、僕はなんと声を掛けたらいいのかわからないまま、イワカミさんへ電話をした。

彼は想像以上に元気で、めげる様子も無く言った。

「また1から始めるだけや。歳も歳だから、いつ死ぬかもわからんけどな。こんな俺についてきてくれるというワーカーも、ようけおったわ。」

彼は今、タイ国内でも最大手の企業で、技術者兼若手の指導員として活躍している。

送られてきた写真は、多くの若いワーカーに囲まれて幸せそうだった。

あの工場はもう無くなってしまったが、いつか必ず、彼とスラタニの高級料亭で再会する事を夢見ている。

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