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同窓会

大学(学部)の同窓会があった。
2020年に卒業してから4年ぶりで、定期的に会っている友達も、卒業以来会っていない友達も含めてたくさんの同級生と会って話すことができた。

今の会社には新卒で入ったものの、自分は大学院を挟んでいて年齢が少し上なこともあり、純粋に「同級生」と呼べる関係の人々は学部の人たちな気がしている。コロナで卒業式が無くなったこともあり、意外と皆それぞれの関係を大学時代から地続きなものとして捉えているような感覚はあるようだ。

改めて、自分は人との会話や関係を築くことに飢えているんだなと思った。同時に、そういった自分の性質を自覚しながらも、大学時代は過剰に人との関係(グループ関係や力関係)、あるいは嫌われたくないという自意識に神経質になり、純粋に話したい、接したいという気持ちと行動にブレーキをかけていたんだなということを再確認した。今日はあまり気にせずガンガンコミュニケーションできた、と思っている(今になって嫌われてないか不安になってきたが)。

そう変化したのはいくつか要因があると思っていて、

  • 社会人になって嫌でも人と会話しなければならない場面が増え、人間関係そのものに無頓着になった

  • お互いに別々の現実を生きているため、同級生というつながりに安心感を感じている

大きくはこの2つだろう。それぞれの近況や考えを聞く中で、皆がそれぞれの人生を生きてるんだな、と感慨深く感じる一方で、何故学部時代にもっと話せなかったのだろう、斜に構えてしまったな、と後悔する気持ちも少し芽生えた。

他者との関係と距離感というものについてはずっと考えているが、たとえば友人関係であれ、恋人関係であれ、夫婦関係であれ、適切な距離感というものは大切だと感じる。もっと深く関係したい、相手を知りたいと思うことは自然だが、距離が近すぎて失ってしまうことや逆に気を遣いすぎてしまったりすることもある。皆が20代後半に入って、適度な距離の取り方を身につけたからこそ心地よいコミュニケーションが生まれるのかもしれないと思う。

しかし学生時代は、距離感をわきまえたりせずに、相手に踏み込んで、時には傷つけたり、傷つけられたりする、ある意味そういった経験ができるチャンスだったのかもしれない。自分は嫌われるのも怖かったし相手を傷つけたり傷つけられるのも怖かったから、うまく自分を出せずあまり人間関係で人と衝突したり、内面的に成長するような経験が乏しかった。今思うと色々な偏見で自分を守っていたような気がする。

26歳になってようやく自分の中で主体性のようなものが芽生えつつあり、その上でなんとなく幼い頃からの経験を振り返ってみた時、自分はずっと「普通になりたい」と思いながら、同時に「普通じゃない自分」にアイデンティティを見出していたんだと自覚した。
今となっては普通?なにそれ?状態ではあるのだが、限られた情報や人間関係、環境の中にいると自然とそういったことに敏感になってしまうものだと思う。
なぜそんなことを考えたかというと、仕事だとか結婚だとか、少し未来の話とか、学生時代の思い出話とか、年齢相応の話をしながら、「普通できてる!」と実感し、それに少し満足感を覚えている自分に気づいたからだ。

そんな考えが頭をよぎりつつ、今改めて色々な人の話を聞けるのが嬉しく、純粋に楽しい時間を過ごせる関係が貴重だと思う。他の人はどうかわからないが、自分の人生にとっては学部での4年間はもっとも影響が大きかったと感じている。これからもそれぞれの人生で色んなことがあるのだろうと思うが、なんだかんだ皆生きていて会えたらそれでいいな、と勝手に思っている。


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