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キャリアチェンジして1年目に想う事

ホンダからTISに移って早いもので2020年10月で1年になります。
これから年末にかけて、かなり忙しくなりそうな状況でして、余裕のある今のうちにnoteに書き残しておこうと思い立ち、キーボードを叩いております。

まずはじめに申し上げておきたい事は、TISは良い会社、ホンダはダメという極端な会社の良し悪しを、ここで言いたいのではありません。

数万人の社員を抱え、数えきれない組織がある大企業にあって、個人個人の経験をもとに会社全体の良し悪しを極論づける行為には、あまり意味がないのです。

という事で本題に移ります。

ちょうど1年前にTISへキャリアチェンジしたタイミングで、自分の実現したい事をやるために会社を変えた、という理由を投稿しました。今回は、もう少し根本的な動機の話をしたいと思います。

僕が前いたホンダに入社した主な理由は、当時乗っていたNSR250Rというバイクが楽しくて、こんなバイクを作りたいという想いと、本田宗一郎のように世の中の人を喜ばせられる存在になりたいという想いからでした。

高校3年の時にオートバイを買って以来、根っからのオートバイ好きになったわけですが、念願叶ってホンダ入社後すぐに2輪研究所のエンジンの吸排気系システム研究開発部門へと配属させて頂きました。
そこでは、乗ってワクワクするようなエンジンをコントロールする制御や、地球環境を悪化させない為に排気ガスをより綺麗にするシステム、裕福では無い人でも負担にならないように燃費を良くしたり、部品の耐久性を上げコストを下げる研究など、意味のある仕事をたくさんやらせて頂きました。

ターニングポイントとなったのは、2011年の東日本大震でした。

あの震災直後に僕は、何か自分にできる事をしたいという思いで、福島県の南相馬や、宮城県の東松島など、東北の被災地へ幾度となく災害復興ボランティアに参加してきました。
そこで目の当たりにした光景は、津波に呑まれ動かなくなった自動車だったり、ガソリンや電気のインフラが寸断して、ただの鉄の塊になった数々の工業製品でした。

僕達が人々の役に立つと思い、開発して世に送り出した製品達は、こんなにも脆い物だったんだと落胆したと同時に、日本中から駆けつけたボランティア達の希望を失っていない目を見て、話を聞いて、一緒に作業を進めながら、人を支える本質は人なんだと薄らと悟ることができました。

その後、2014年ごろから、エンジン部品の将来技術研究に関わりながら、未来の世界はどうあるべきか?そこに必要な価値とは何か?を考える活動を続けてきました。
その活動を通して気づいたのが、今ここにホンダ創業当時の本田宗一郎がいたら、何をしていたのか?でした。
戦後のホンダ創業時と言えば、まだまだ裕福な時代ではなく、物も充分にあった時代ではありません。そんな中で本田宗一郎は、妻の買い物の足に便利だからと思い立ち、自転車と発電機を組み合わせたバタバタと呼ばれるオートバイを創ったのがホンダの始まりだと言われています。

では今この時代に、創業当時の本田宗一郎が存在したとしたら、果たしてオートバイを創っていたのでしょうか?

ホンダ創業当時は第二次産業革命が勢いづいた時代にあり、アダムスミスが国富論で「資本とは、自らの総収入を産出したいと望んでいる人間のストックの一部である。」と唱えたように、人々の欲望を工業製品の大量生産によって満たす事によって富の増幅を続けてきました。その時代の最も象徴的な存在が石油であり、その石油から生み出された燃料を使った内燃機関というモノは、この時代における花形のテクノロジーだったのは間違いありません。

その経済資本主義も限界に近づきつつあると様々な人が気づきはじめている昨今、さらなる衝撃を受けたのが、ジェレミー・リフキンの著書『限界費用ゼロ社会』でした。そこには、「利潤動機による「私的資本」より、相互信頼に基づく「社会関係資本」の価値が高まる。富の象徴は国民の労働で生産される消費財から社会関係資本に移り変わる。」と書いてあったのです。

経済資本で十分満たされた社会で、
より価値が高まるモノは、社会関係資本である。
これは、僕が数々の災害ボランティア活動で見てきた、人が人を支え合うという動機の根源となるモノなのではなかろうか?と考え始めました。

話を戻して、今ここに本田宗一郎がいたら何を創るか?という問いかけの自分なりの答えは、"21世紀の石油と言われる情報を使い、人のために役に立つ何かを創っている"だったのです。それは”原動機”ではなく人の気持ちを動かす”源動機”である、というコンセプトを思いつきました。

そこで僕は、経済資本主義の権化とも言える自動車メーカーで、新しい価値を生み出し事業化する部署に希望を出して異動し、相反する社会関係資本の研究と、新事業企画にチャレンジさせて頂きました。
当時の執行役員はドイツ人で、ドイツといえばメルケル首相ですが、その政策顧問に名を連ねていたのが他でもないジェレミー・リフキン氏でした。当時のドイツ人執行役員も社会関係資本への理解は深く、苦手な英語を頑張りながら半年もの議論を重ねた結果、優先度の高い社内プロジェクトとしてピックアップさせて頂いた事はとても光栄に思います。

ただ、経済資本主義の恩恵を受けてきた大企業から、社会関係資本の世界感を創るのはもちろん、新事業を生み出す試みはとても難しいチャレンジであり、そこで躓いていた僕を拾って頂くれたのが、ITシステム開発会社のTISでした。
今の時代に本田宗一郎が生まれていたら、きっとホンダにはいない。こう考えた時すでにホンダを離れる覚悟はできていたのかもしれません。

これまでとは全く違う業種のTISに移る時に、どんなキャリアとして歩むべきか?を考えた結果、ゼロベースのアイデアやコンセプトを考え、実現のための課題抽出や、それをやる意義、社会的な価値、会社でやるべき理由などなど、散々サンドバック状態になりながら鍛えられた経験を活かし、プロジェクトデザイナーとしてのキャリアチェンジを希望しました。

TISに入社して、この1年はクライアント受託型のSIerという業態を基本としながらも、自らサービス事業展開を試みる人たちに向けてデザインの必要性や、デザインのあるべき姿、実践しながらの現状把握や課題抽出などをまとめ、今年の4月くらいにデザイン組織の戦略としてTIS内の役割、ミッション、課題、ありたき姿を経営層に提案し、ありがたい事に理解を示して頂けるところまで持っていく事ができました。おかげ様で、これから年末にかけて血反吐が出ないか心配になるくらいのお仕事を頂いております(笑)

TISにおける今の僕の役割は、コンセプトデザインを主とするデザインマネージメントを実施する事で、提案型のプロジェクトがどこに向かうべきか?や、やる意味は何か?、課題は何か?をデザインし、ベクトルを合わせて進める道標を創るような事をやりつつ、自分の実現したい世界観を小出しにしながら、プロジェクトオーナーの様な役割で提案もさせて貰い、少しだけ試せる予算も頂きながらちょっとずつ前進させております。

入社当時は自分がどのようにTISの一員として関わっていけるかとても不安な部分も多かったですが、この1年間の働きかけで、僕がリーダーを務めさせて頂いてるデザインチームへの信頼は厚く、仕事依頼も多くなり、組織の若者がこちらに異動したいと言って他部門が困ってる状態(笑)になるまで、存在価値を高める事ができました。

その背景には、僕の半年前に同じく大企業から転職してきた加藤さんが、コツコツと実績を出しながらデザインを浸透させてくれていたり、所属組織の同僚や先輩、上司の方々が、しっかり耳を傾けて僕の話を聞いて理解してくれた事がとても大きいアシストになっており、とても感謝しています。

IT業界に1年身を置いて思う事は、今まで自分の思い描いてきた世界観の方向性は間違っていないという確信と、それを実現できそうなコンテンツが案外手元あるという実感です。

そこでこの先の抱負を、少々おこがましいかとは思いますが、次のように決めましたので共有して締めくくらせて頂きます。

『IT業界の本田宗一郎を目指して、情報(データ)を燃料とする源動機を創り社会関係資本によって人々がより楽しく暮らせる未来を実現する。』

こちら長文乱筆のポエムに最後まで目を通して下さったみなさま。ありがとうございました。

引き続き、宜しくお願いいたします。

TIS株式会社 デジタルトランスフォーメーションR&D部
伊藤 淳

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