私は今回の判決が全くもって気に食わない。なぜ「医師法20条違反」という文言と「政策目的」を外したのか。なぜ一審のように大枠のところでしっかりと作田や禁煙学会を裁かなかったのか。

 報告事件の様に、作田に司法がおもねる程の価値があったかどうかは別として、少なくとも「面倒なリスクのある事は書かない」という判断はあったのではないか。一審のような思い切った判決というのは、裁判官自身が相当な読み込みを行い、確信的な判断がないと書けない。確かに今回の判決文は「原審に相当する」と一審を支持、追認した形にはなっているが後退感は否めない。逆に言うとそれだけ一審の判決が英断であったということだ。

 実は一審の判決を下した新谷晋司裁判官は、過去にも診断書にまつわる素晴らしい判決を書いている。前回が個人に対する医師に、今回が作田と組織に対してである。このことは、私が先日、国立図書館に「虚偽診断書作成罪」について調べに行った時に発見した。

 それは、ある医師が夫婦に離婚問題があると知らず、母親に告げられるまま「娘が父親に虐待を受けている」というのを信じ娘の診断書を書いてしまったことに対するものだ。実は虐待など存在せず、それに異を唱えた父親が医師を虚偽診断書作成罪で訴えることとなった。が、新谷裁判官は、「(概要)医師は自宅まで見に行くわけにもいかない。確かに誤りはあったものの、診断書の内容は医師として最善の誠意を尽くし判断した結果で虚偽を書こうとしたわけではない。よって虚偽診断書作成罪にはあたらない。」との判決を下したのだ。

 しかし、その同じ裁判官が、横浜副流煙裁判では医師の立場を慮るような姿勢は微塵も見せず、それよりも、「医師がこのような事を行うとは」と怒りをもったかのごとく「医師法20条違反」と「政策目的」と厳しく断罪したのだ。

 それに比べると今回の「(自己申告に依拠した診断法について)しかし、この点については、患者を治療するという医師の立場での診断方法としては理解しうるところではあるが」という記載は完全に余計だ。私達を逆なでする。理解を示す場所が間違っている。

 こうして新谷裁判官の英断はかすんでしまうこととなってしまった。が、私達はさらに俄然、やる気になっている。弁護士も言う。「(判決文に書かれなくても)それでも、作田医師が問診しないで診断書を書いた事実は変わらないですよね」と。

 また、「政策目的」という文言がなくなっても、それを示す証拠は十分にある。一通相場20~30万円かかる意見書が10通以上も出ているのだ。弁護士も「異常だ」と目を丸くしている。

 さらに、二審判決では「松崎道幸氏の自己申告論」や「受動喫煙症基準の客観的根拠のなさ」も丁寧に否定している。これら2つが無くなれば、受動喫煙症の診断は、実質屋台骨を失ったも同然だ。

 最後にもう一点、大きく落胆したことがある。それは、高裁が作田氏の診断書を「参考意見として見るにとどめるべき」と書いたこと。後に続く文として、たとえば「にもかかわらず、参考意見程度のものを一貫して診断書と言い続けたのは何故か。」などが無ければ、作田にすれば意見書だと認めてもらったと逃げ道に使うのではないか。私ならそうする。

 このように、今回の判決は要所要所、都合よく読めてしまうところがある。私の周辺でも人により読み方が異なっている。何が主語で何を指しているのかが不明確なところもある。そのように言外に意味を含ませたような物の言い方は判決文にはそぐわない。一審の判決のように、誰が読んでも「そうとしか読めない」ように明確に書くべきである。

このような冤罪は誰に身にも起こります。信頼すべき医師が診断書を悪用し捏造を生み出し、弁護士が提訴する。今後この様な事の起こさぬよう私達は闘います。本人訴訟ではなく弁護士と共に闘っていくため、カンパをお願いします(note経由で専用口座に振込み)。ご理解の程よろしくお願い致します。