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今井雅子作『北浜東一丁目〜看板の読めないBAR〜』おもにゃん作『気がかりBAR』バージョン

はじめに
脚本家 今井雅子先生の『北浜東一丁目〜看板の読めないBAR〜』を初めて読んだ時、アレンジ作品を無性に書きたくなりました。まだまだ編集したいところは満載ですが、とりあえず【おもにゃんBAR】を、今井先生のご好意で、開店する運びとなりました!
今井先生の原作はコチラから




名前を呼ばれた気がして振り返ると、そこに人の姿はなかった。だが、道端に置かれた小さな看板が目に止まった。チョークで手書きされた頭の文字のいくつかが消えている。

残されているのは、ひらがなの「か」と「り」とアルファベットのB-A-R。消えた文字を想像してみる。何故か「気がかり」が思い浮かんだ。

「気がかりBAR」

口にしてみて、思わず苦笑してしまった。そんなBARがあったら、どんなお酒を飲ませるのだろう。誘われるように地下へ続く階段を降りていく。重みのあるドアを開けると、カウンターの向こうにマスターの顔が見えた。どこかで会ったことのあるような顔立ちに柔らかな表情を浮かべている。

「お待ちしていました」

鎧を脱がせる声だ。私はコートをマスターに預け、革張りのスツールに腰を降ろす。

「ようこそ気がかりBARへ」
「ここって気がかりBARなんですか?!」

ついさっき看板の消えた文字を補って、私が思いついた名前。それがこの店の名前だった。そんな偶然があるのだろうか。

「ご注文ありがとうございます。はじめてよろしいでしょうか」

おや、と思った。マスターはどうやら他の客と私を勘違いしているらしい。

人違いですよと正そうとして、思いとどまった。その客は、ある程度、私と属性が共通しているのではないだろうか。年齢、性別、醸し出す雰囲気……。だとしたら、注文の好みも似通っているかもしれない。

「はじめてください」
「かしこまりました」

マスターがシェイカーを振る音を確かに聞いた。だがカウンターに出されたグラスは空っぽだった。

「これは何ですか」
「ご注文の『気がかり』です」
「空っぽが気になって、『気がかり』というわけですか」
「どうぞ。味わってみてください」

自信作ですと言う表情浮かべ、マスターが告げた。

なるほどそういうわけか。

私はマスターの遊びに付き合うことにした。芝居の心得なら、ある。空白は想像を膨らませる余白だ。空っぽのグラスに目をこらし、そこにある「気がかり」を想像する。さもあるがごとく。さもあるがごとく。

グラスを手に取り、口に近づけたその時、「あ……」と声が漏れた。

鼻先を香りが通り抜けたのだ。

紺色のピース缶を開けたときの、芳醇な大人の匂い・・・。

「ね〜輪っか作って〜!」
「よ〜し、見ててごらん!」

父は、口の中いっぱいにタバコの煙を吸い込むと、口を上に向けて、水面から顔を出した金魚みたいになっている。それから、ゆっくり吐き出した煙が、ドーナッツのように輪っかになっている。

「わぁ〜!」

幼少の頃、私は目をキラキラさせて、その輪っかと父を眺めていた。そんな優しい父が大好きだった。そして、たばこの煙をくゆらしながら、コーヒーを美味しそうに飲むダンディな父は、私の憧れでもあった。

我が家には、私が物心ついた頃から、当たり前のように紺色のピース缶がダイニングテーブルに鎮座していた。今でこそ種類豊富になったが、私の中ではタバコ=ピース缶…これは絶対だった。

父が亡くなってからもう7年になる。晩年は病気がちで、1日に吸うタバコの本数もぐっと減り、そしてピース缶ではなく、もっと弱いタバコに変わってからも、

「タバコで死ぬなら本望だよ」

と豪語するほどの愛煙家だった。最近ではコロナもあって、昔ほどお墓参りに行けていない…。そのことが気になっていた。

「ちょっとは挨拶に来てくれよ!」

と父から言われている気がした。前々から心のどこかに引っかかっていた「気がかり」が、この匂いによって鮮明になった。

香りと記憶がよぎったのは、流れ星が通り過ぎるような一瞬のことだった。手にしたグラスからはもう、何の香りもしなかった。空っぽになったグラスを置くと、「いかがでしたか」とマスターが聞いた。

「『気がかり』でした。今の私に必要な。マスター、どういう魔法を使ったんですか」
「ここは『気がかりBAR』ですから。あなたが、この店の名前をつけたんですよ」

マスターがにこやかに告げた。私の「これまで」も「これから」もお見通しのような目をして。

頭の文字のいくつかが見えない看板を見たとき、思い浮かんだのは「気がかり」だった。あの日の「気がかり」があったから、今の私がある。そのことを思い出すきっかけを心のどこかで求めていたのかもしれない。

「気がかり」の日の私と今の私はつながっている。そう思えたら、風船の端っこを持ってもらっているような安心感がある。

階段を昇り、地上に出ると、文字が消えて読めなくなった看板は、看板ごと消えていた。歩き出した足取りが軽くなっている。鼻の奥に、タバコの芳醇な香りがかすかに残っている。

近いうちに実家に帰り、お墓参りに行こう!紺色のピース缶と花束を持って….。


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