【スカイウォーカー初期企画案】


『ヒーロー物の企画についての提案』

2012/02

「スカッとするヒーローアクション物」というオーダーに答えながら、如何に内容のあるものを作り出すか? かつ子供たちに支持され、ヒットが見込めるものに仕上げるには?

少年少女を主人公とする「子供ヒーロー」が多数を占めるのが、日本のヒーロー物の特徴である。成熟した壮年のヒーローは少ない。
知性、腕力ともに大人たちを遥かに凌駕し、社会の中で大活躍する日本独特の子供ヒーロー像は、戦後の日本において大人が指導力を失ったことの表れである(←高畑勲氏の文章からそのまま引用)という。

「指導力を持った大人の不在」は「少年の漂流」を意味する。つまり「十五少年漂流記」のコンセプトが、日本のアニメの特徴として端的に表れているという。

たとえば、船に乗って逃げるパターンのロボットものなどの「大人がいなくなり子供たちだけで生き延びなくてはならないシチュエーション」、これが80年代の若い世代の共感を呼び、ブームを呼んだのだという。

では、今の日本において、若年層の共感と感情移入を得るには?
今の子供たちが興味と関心を持って振り向いてくれるものをつくるには?

「若肉老食」という、最近の造語がある。老人に食い物にされる若年層を意味する。団塊世代が下の世代を食いつぶしていくのだという。

若い世代や今の子供たちが立たされているこうした状況、今という時代の空気を、主人公を取り巻く状況に投影する必要がある。

主人公に迫る危機的状況は、観客にとって他人事ではない、切実なものでなくてはならない。

そこで、
生き延びるために子供の血肉を貪ろうと狂奔する老人たちの支配と、そこから脱出しようとする子供たちの物語を提案したい。

「搾取される若者たち」と呼ばれたロストジェネレーション世代、現代社会が遺した負債を一身に背負わなくてはならないこれからの子供たち、若い世代の代表として主人公を設定する。

物語は聖杯伝説の骨組みを借りて、
「衰弱した王=老人たち」が生き延びるための生贄として供される、聖杯と呼ばれる少年少女たちを描く。

聖杯とは、人間を不老不死化させるウイルスを体内で培養生成し、血清投与などによって人々に提供するドナーである、と設定する。

DNAに刻まれた老いと死の刻印(老化の原因であったテロメア短縮のプログラム)を、「聖杯」は原罪を洗い流すように消去する。不死ウイルス感染によるDNA改変によって、ヒト細胞が朽ちないものとなって甦る。

聖杯の血によって、すべての人間が不老不死の肉体へと生まれ変わることができるようになった時代。発達した遺伝子工学が不老不死を実現させた世界を描く。

この聖杯からの血と肉の摂取、いわば「不死の血分け」は、聖体拝領にたとえられ、儀式化されていく。

二千年の間、連綿と続けられて来た聖餐式が、事実上の不老不死をもたらす実効的な儀礼となる日が来た。生々しい血と肉による聖餐によって。そのとき、何が起こるか?を物語は問う。

これは宗教的な自己犠牲か、あるいはカニバリズム(食人)か。

そもそも聖体拝領とは「最後の晩餐」(パンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といってイエスが弟子たちに与えたという故事)に由来する、キリスト教会の儀式である。
(映画などでよく見かける、教会で丸いウエハース状のものを口にくわえさせるあれである)

口にしたワインとパンが体内においてイエスの血と肉に聖変化(コンセクレーション)するという信仰にもとづくものである。
「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」と、聖書中のイエスは語っている。

一方、今回の「聖体拝領」は、実際に血と肉を喰らって不死を得るという即物的なものであり、血によって不死の同族が増えていくそれは、吸血鬼やゾンビに重なる。

聖なる象徴であったワインとパンが、陰画(ネガ)のように現実の血と肉そのものに反転し、血を啜って生き永らえる吸血鬼のそれとなってしまう皮肉な構造を物語の「骨」とする。

文明社会において終始一貫してタブーであった人肉嗜食の儀式が、物質文明の頂点に現れたのは皮肉なことであった。

現実に血と肉を食する聖体拝領によって、現実となった不老不死。この現世利益をより多くの人々に提供するためには、今回の救い主は大量生産されなければならない。

イエスのように「一粒の麦もし死なずば」というわけにはいかない。今回は一粒の麦では足りない。

老人たちが生き永らえるための生贄として、より多く摂取され、吸血されるためには、今回の「聖体」はクローン生産されることが必要となる。

大量の代理母を動員し、ブロイラーのように計画的に産み出される「生ける聖杯」。

貴種流離譚をなぞって古典的に開幕させたい。
子供を略取されることを恐れた代理母が逃亡。地方の村落で産み落とされ、密かに育てられた聖杯のひとりを主人公とする。

異境に落ちのびた異邦人の憂愁が、母と子に影を落とす。
子は母に問う。自分は間違って生まれてきたのではないか?と。

人間に永遠を与える「生ける聖杯」、あるいは人間を堕落させる「悪魔の子」として追われる主人公の彷徨を描く。

人々を救う「糧」となれ、と迫られる主人公。その命はお前だけのものではない、人々を救うために使わなくてはならない、という道徳律の脅迫に背を向け、彼は逃亡する。

逃避行の先々で遭遇するさまざまな死と病が主人公を悩ませる。自らの血一滴で彼らを救えるのだが、果たして。

不死身の主人公のジレンマは、そのまま今後の人類社会が直面するジレンマとなる。自然に生きて死ぬべきか?自然に反して、生き永らえるべきか?

彼は世界を乾きから潤し、甦らせる聖杯か、あるいはいのちの流れを凍らせ、世界を腐臭で満たす毒杯か。

「自己抑制を文化として確立させておかないと、環境破壊は内なる環境にまで、つまり人間の生命体にまで及ぶことになる。人間の遺伝子を操作しようとする企てがそれである。
人間の生命体としての存在を改善すると称して、その種の科学・技術は、不老不死という恐るべき内部環境を創り出そうとしている。
その方向が押し進められると、死の意識との確執のなかで作られてきた文化の全体系が根元から掘り崩されるといっていささかも誇張ではない。」西部邁「国民の道徳」より引用。

この引用が常識的であり、今日の社会のコンセンサスであると言えるが、しかし、人為的な延命を頑迷に否定するならば、輸血さえ否定されなければならない。

この難題を、一方に偏ることなく、きちんと双方に視点を持った、観客がリアルに追体験できるドラマとして書き下ろしたい。

不老不死とはいわないまでも、人間の寿命を二百年くらいに伸ばすことは現在の技術でも可能という見解もある。あとは医療の現場に移すか否かの問題という。
平均寿命がさらに飛躍的に伸びる時代は、そこまで来ている。

発達した医療技術と、個々人の死生観が衝突し始めている現代、目の前に転がっているこの巨大な葛藤を生む素材を放っておく手はない。
この、将来待ち受けているであろう思想的衝突は、活劇を生み出す格好の素材である。

はたして、不老不死の肉体を得た人間は、四苦(生老病死の苦しみ)を克服したといえるのか。
こうした遺伝子工学、物質科学文明の到達点こそ、文明の終点であるのかもしれない。

我々は最後の一手を詰もうとしているのではないか。何の用意もないままに。
不老不死という、人類にとっての最大の福音こそ、最大の脅威となるのではないかという逆説。これを正面から問うドラマを作る。

同じ顔と体を持つ主人公たちの大量生産。

これは、代替可能な使い捨てされる若者たちの暗喩であると同時に、アニメの主人公が皆、没個性的な同じような顔でなくてはならない「暗黙の縛り」を逆手にとる。

季節が変わるごとに現れては消える、「似たような顔をした主人公たち」を今回は確信的に使用する。

大量生産された主人公という設定を使えば、ひとりの人間に毎週必ず劇的なドラマが起こるという、シリーズ物の構造的弱点を補うことができる。

たとえば、「逃亡者」という昔の海外ドラマシリーズがあったが、あれだけの事件に遭遇するには大人数のリチャード・キンブルが必要である。

今回は必然性を持って、百人の主人公の百の物語を作ることが可能。
当初は一人の主人公を追いかけているように見せながら、実はあれは他の聖杯であったとか、観客をミスリードする演出を入れていくなどの工夫をしたい。
こうしておけば、毎回を番外編とするシリーズ物らしい展開も自然に見せることができる。

観客の二次創作の場としても、無限のバリエーションを許容できる余裕が生まれる。
万人に開かれた世界観、フォーマットを提供したい。

聖体拝領を、吸血鬼の「不死の感染」になぞらえる試みは、スティーブンキングの「呪われた町」以外には寡聞にして知らない。
(吸血鬼が「わたしの聖体拝領を受けるのだ」と、神父に自らの血を飲ませて吸血鬼化させるシーン。神父は教会に戻れなくなる)

少なくともこれをコンセプトとして全面に押し出したストーリーは未だこの世にはあらわれていないと思われるので、誰かが思いつく前に、いち早く映像化したい。

*舞台設定

当初、「聖杯」の存在と情報は秘匿され、ジーンリッチというべき一部の富裕層、特権階級に独占された。

立花隆が予測した通り、遺伝子工学が作り出す巨大な格差はその極に達した。極少数(ジーンリッチ)とその他大多数(ジーンプア)との二極化は、生と死の此岸と彼岸にまで隔てられた。

もはや、死は平等ではない。「人みな等しく死ぬ」ということわりは覆された。

ひとたび「聖体拝領」を受ければ、死の床にあった老人がたちまち若返り、病むことなく、老いることのない若者となって生まれ変わる。
先天的な障害や遺伝病の一切が消え失せ、あるいは後天的な事故などによる身体の不具、欠損など、全てが元通りに再生、回復する。

その劇的といえる効果をいつまでも隠しておけるはずはなかった。
不老不死が現実となった事実はまず闇社会に知れ渡り、聖杯あるいは聖体拝領された者の血液や肉、臓器の闇取引、人身売買が横行する。

「死にたくない」という根源的なニーズの前には、いかなる法的規制、モラルやタブーも無力であった。生への願望を誰が押しとどめることができるだろうか。
エイズと同じ感染経路を辿って、不死ウイルスは瞬く間に地球全土に拡散する。

聖杯からの直接の聖体拝領より効果は薄れるものの、潜伏する伝染病のように自覚症状のないウイルスキャリア(潜在する不死者)を急速に増やしていく。
感染者に病と死をもたらすのではなく、若さと不死をもたらす、人々が自ら進んで罹患しようとするかつてない流行病(はやりやまい)、「不死に至る病」が爆発的なパンデミックを起こすのは必然であった。

一部特権階級による「不老不死」の独占がままならなくなったとき、「不死に至る病」のネガティブイメージが連呼され始める。

ときの教会は「聖杯」の製造こそ、人間をその根本から破壊する「悪魔の子」をつくる行為であると断罪する。
「聖杯」が、信仰を失った者たちの手によって偽造されたのだ。世の救いである「聖体拝領」が地に堕ち、かたちだけの不老不死に堕したのだ。

まさに影が光を模倣するように。これこそ反(アンチ)キリストのあり方である。
遺伝子工学という悪魔の技によって、黙示録の獣が今、このようなかたちで出現したのだ、と教会は警告する。
預言されていた「人類の敵」は現れた。
物質文明の極である遺伝子工学による「聖杯」の製造。これは背徳の極み、神をも恐れぬ冒涜の業である。この毒杯に盛られた獣の血に人類を汚染させてはならない、と。

悪魔の子が復活して世界を滅ぼすというモチーフは「オーメン」をはじめ数多い。今回は、より現実的なアプローチを試みたい。
主人公である「悪魔の子」を、不死性を追求する「近代科学」の申し子として設定。人類を誘惑する蛇が、バイオテクノロジーの鎧をまとって登場する。
彼は、より現代にマッチした果実を使って人類を堕落へと誘う。その禁断の果実の名は「不老不死」。
「死」を虚無のなかに見失った現代人にとって、不老不死の果実こそ逃れがたい誘惑である。

しかし、その対価は高くつくだろう。
ゲーテの「ファウスト」において、悪魔メフィストフェレスが「不死」の対価として求めたものは、何であったか?

悪魔が所望するものは常に「魂」である。不死の蔓延に危機感を抱く守旧派といえる勢力が、この語り口を使わない手はないだろう。
不老不死の誘惑こそ、魂を刈り取ろうとする悪魔の罠である、と声高な警告が叫ばれる。不死を得ることは不信心者のあかし、「魂の死」であると。

彼らは生ける屍であり、屍骸に宿る悪霊である。人肉を求めて夜な夜なさまようゾンビであり、各地で人々がゾンビに襲われている、といったデマゴーグが駆け巡る。

「不死に至る病」は、人間をゾンビに変える「死霊病」とも呼ばれ、ペストのように恐れられた。
(ゾンビが一体も登場しない「ゾンビもの」に挑戦する。ゾンビが人を襲う映像は、すべてメイクやCGによるねつ造である。)

「人間による自分たち自身の派生種の創造は、人類の進化における劇的な転換点になるだろう。こういった分断が、必然的に人類の終焉につながる危険性がある。」
「われわれが自分たちよりずっと賢い人間の集団を創造すれば、その集団はわれわれを殺したいと思うかもしれない。あるいは逆に、われわれがその集団を殺したくなる可能性もある。100年の間、大量虐殺を抑えることすらできない私たちに、種を改変する資格などない」(ネット上の記事「遺伝子工学が人類を滅ぼす?」から引用。)

ゾンビ狩りが始まる。狩りたてられる感染者たち。
だが、生きている人間と、ゾンビ(生きている振りをしている死人)を、一般人がどうやって見分けるのか?

ゲノムチェックを待っている余裕はない。ゾンビか否かは殺してみれば分かる。
川に投げ込んであっさり死ねば無罪といった中世の魔女狩りが再現され、異端審問が復活する。

ゾンビは死人である。死人を殺しても殺人には当たらない。
魂を持たないものは殺しても構わない。かつて異教徒や有色人種に向けられた言い回しが、再び繰り返される。

人類の純粋な血統を、ゾンビの汚れた血から守らなければならない。死霊病ウイルスを根絶せよ。
民族浄化のカテゴリーを越えた、人類浄化というべき粛正の嵐が各地で吹き荒れる。

不老不死化した人類は、まさに不死細胞であるガン細胞に等しい。
細胞のアポトドーシス(自殺)をやめて、死ななくなったガン細胞は際限なく増殖を続け、やがて宿主を殺す。
地球に巣食うガン細胞は早急に切除しなくてはならない。外科手術が必要であり、その際に血が流れるのはやむを得ない。

WHO(世界保健機関)が遅ればせながら介入、感染者の保護を名目とした隔離政策が各国で行われ、感染者たちは半島や孤島などに強制移住。防疫線が張られる。

感染者たちは逃げまどうばかりではなかった。
彼らは「不死の民」として連帯し、抵抗運動を始める。そこには感染者ではない人々の協力もあった。

不死ウイルスのバージョンアップ(人為的な突然変異)が積極的に行われ、その都度、新しい「生ける聖杯」を誕生させて拡散していく。
結果、不死ウイルスのヴァリエーションは、系統進化のように無数に増えていった。
身体能力の拡大、細胞復元能力などの強化が重ねられ、不死身の肉体的超人が数多く出現。

五感の増幅の結果、第六感の領域まで知覚が拡大した個体や、変身能力を持つ者も現れる。身体能力の拡張による全能感は、彼らのエリート意識を肥大させていく。
人体改造と超人願望の追求は、止められない自然な流れだろう。
(強大な力を得た者のスリルと全能感、このスーパーヒーロー物の醍醐味を逃さずに描く)

多数の超能力者たちの出現が、力のコントロールとそれに伴う精神修養の体系化を促していく。
奥義が生まれ、それを伝授する導師が現れ、「不死の民」は神秘的な側面を深めていった。

彼らはコミュニオン(聖餐による交感の意)と呼ばれる、不死ウイルス間の感応による情報ネットワークを構築、救いを求める声を、眷属の鳥や小動物たちが聞きつけ、瞬時に世界各地へと救援を送り込むことを可能にする。不死の民は、血によって意志と力を伝えあう。

こうした集団超能力の相互補完の威力はまさに魔法じみており、彼らによって各地での迫害と虐殺が「奇跡」のようにくい止められるさまは、人々を畏怖させた。

こうした「奇跡の遍在」を描くことによって、「奇跡」がそれこそ奇跡的にしか起こらなかった、これまでの現実と対比させる。
時代は変わったのだと。
祈りは必ず聞き届けられ、救いの手が即座に降りてくる。そんな時代がやってきた。

「沈黙する神」に代わって、彼ら不死の民は惜しみなく人を救う。
肉体的かつ物理的に人間を救済する。求める者には聖体拝領を分け隔てなく与えていく。

それは確実な「不死」の契約であり、契約は即日に履行される。
それは定かならぬ来世での「永遠の生命」の約束ではない。来世や天国などない以上、その約束は空手形なのだ。
神は沈黙しているのではない、もとより不在なのだ、と彼らは断言する。

彼ら不死の民は「沈黙」してはいなかった。「この世の悲惨」を放置することを許さず、人間の「死する運命」をそのままにすることを許さなかった。

「地上(ここ)より永遠に」が彼らの合言葉。「聖杯」を注がれたものは朽ちることがない。
「聖杯」は、生けとし全ての人々から死の苦痛を取り除き、命の渇きを癒すだろう。

彼らは語る。不死の肉体を得ることにいかなる罪があるだろうか?と。人間の健康で長生きする自由を侵す権利など誰にもないはず。
人間は一切の束縛から自由であるべきであり、理性によってあらゆる迷信、迷妄は打ち砕かれねばならない。
今、人は死なずに永遠に生き続けることができる。
生命の尊厳を永遠に守ることができる時代となったのだ。
人間が死してゴミのように焼かれ、埋められ、消え失せる残酷な結末はもうあってはならない。
かけがえのない生命を墓などに捨ててはならない、と。

死に往く宿命から解き放たれた不死の民は、重力からも解き放たれて、雲の上へとその住処を移し始める。文字通りの雲上人となって。
トランスレーション(生きたままの昇天)を現実のものとするかのように。彼らは「トランスレイス(昇天人種)」と自らを位置づける。

空中携挙(ラプチュアー)の預言が今、成就したのだと、不死の民は言う。
wikiより引用→(携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来のイエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

これは、痛烈な皮肉であった。二千年待ちわびても来なかった救済が、神を否定する背信の輩に訪れたのだ。
我々こそが「よみがえり」である、と「不死の民」は告げる。我ら以外は、ことごとく「死」という名の滅びの門をくだるだろう。

一部の「不死の民」は仮想空間に心を移し、グリム童話の眠り姫の城のように百年の眠りに就く。
彼らは夢見をする古い部族のように共同夢、共同幻想の中に生きる。
夢の中こそ終の住処。不慮の事故などで生命を損なうリスクのない安全地帯。

眠る肉体は衛星軌道を回るリングワールドの輪の一部となって地上を見降ろす。
眠りは死に似ている。
地上から見上げるそれは、空を横切る長い墓標の列を思わせた。

*序盤の展開

死霊病の感染爆発から百年目の冬。

聖杯を模した巨大な神像が、天使(ゾンビ)の軍勢を率い、雲を割って降りて来るプロローグ。
不死の亡者たちが天から大挙して降りてくる黙示録的光景。
この電撃的な急襲によって、全世界の主な大都市など中枢部が一夜のうちに掌握された。
侵略者が鳴り物入りで降りてくるお約束の光景を再現する。

彼ら「不死の民」は、全人類の段階的な不老不死化を宣言。
「不死か、しからずんば死か」、人々に究極の選択を迫るゾンビたち。

これは侵略ではない、我々は救済のために訪れたのだ、とゾンビは告げる。
すべての人間を死に逝く運命から救うため、「人」と戦うのではなく、「死」と戦うために我々は降りてきた。

全人類のゾンビ化という、かつてない、新たな「同化政策」が始まろうとしていた。

地上に降りてきた不死者たちの真の目的は聖杯の探索にあった。
不死ウイルスの度重なるバージョンアップ(人為的な突然変異)を繰り返したあげく、本来の不老不死効果が失われつつあったのだ。
初期のオリジナルに近い聖杯を探し出さなくてはならない。

聖杯の不在こそ、不死の民族の滅亡の危機、危急存亡の秋であった。
聖杯が失われれば、永遠の生命もまた、永遠に失われてしまう。
(不死ウイルスの効果は減衰していくので、定期的な聖体拝領が必要)
聖杯抹殺を狙う敵対勢力に先んじて、いち早く聖杯を探し出さねばならない。

主人公である彼=「聖杯」は、身を隠すために自らを封印し、全てを忘れ去っていた。
市井のハイスクールにも通う、変哲のない平凡な少年、と本人は思い込んでいる。

姉(実は彼を産んだ代理母)や父母、祖父母はそれぞれの役割を演じる疑似家族である。そこには組織的な隠蔽工作があった。
数年おきに居場所を変える理由は、一ヶ所に定住すると歳をとらないことがバレるため。
潮時が来たら生活圏を移動し、記憶を消して一から生活をやり直す。そんな繰り返しの百年間。
不死であるがゆえに根無し草であることを宿命づけられた主人公。(レイブラッドベリの短篇にそういうお話があった。)

姉の死を契機に、ゾンビに対抗するレジスタンスに身を投じる主人公だが、作戦行動のなかで負傷し、初めて自らがゾンビであることを知る。
(致命傷の急速な治癒、火事場の超人的な力、瀕死の民兵に輸血を行い、甦らせる)
しかも聖杯と呼ばれる、「最初のゾンビ」、ゾンビの始祖、元親であり元締め、命の源、エネルギー源が自分であることを知らされる。

聖杯の正体が割れた主人公は、旧人類(死を奉じる人々)にとって最大の標的となる。
聖杯こそ「ゾンビ禍」の元凶。
聖杯さえ亡きものにしてしまえば、不死の民の存続はなくなる。人が皆ひとしく生まれて死んでいく正常な世界が戻ってくる。

聖杯抹殺のためには手段を選ばぬとばかりに、人類数千年分の暴力装置が主人公の一身に降り注ぐ過激さを見せる。
殺戮の人類史をなぞるかのように象徴的に。

対する聖杯騎士団との攻防をメインに、アクションものとして盛り上げていく。


*聖杯騎士団

「生ける聖杯」は、人類の血の洗浄を行う使命があるのだと、聖杯騎士団は主人公に告げる。
血を洗い、肉体を新生させたとき、人間の動物的属性は消え、食物連鎖の頂点からも脱することができる。(命を殺生せずとも生きられるの意)

暴力と死の連鎖は、不死の民の出現によって断ち切られようとしている。死による決着のない我々は、「殺し合い」の業を克服したのだ、と。
弱肉強食、死と暴力の歴史に終止符が打たれる時が来た。死のない世界が今、到来する。

百年前にそうした新世界が訪れるはずだったのだが、知っての通り、失敗したのだ。無分別な者たちの抵抗によって。
永遠の生命を捨てて自死を選ぶ愚かさ、彼らの教義では自殺は最大の罪であるにもかかわらず。
まだ生きられるのにわざわざ死んでいくのは自殺以外のなにものでもなかろう、全く矛盾した奴らだと、聖杯騎士の一人は嘆いてみせる。

聖杯を護るためには、死も厭わない聖杯騎士団。そして何度もよみがえる。
彼らは、絵に描いたような天使や神々の姿をとって現れる。地上から解き放たれた存在として、自らを演出する。中世に描かれた天使などに似せて。

貴重な自らの不死の肉体は常に雲上に並ぶ柩の中。万が一にも肉体を失うリスクは取らない。
柩の中で目を閉じたまま、地上のアバターをリモートする様は、夢みる者のよう。柩に眠る彼らにとっては、すべて長い夢の一部に過ぎないのかもしれない。

軍事を行う際は、より戦闘的な肉体を選び、痛覚を切ることによって、死を恐れぬ勇猛果敢さを見せる。
死んでもスペアのアバターで時を待たずに降りてくる様は、いわば人工的な即時転生輪廻。

死んだキャラが生き返るのは、日本のアニメにおいては不思議ではない。
こうした、死人がよみがえる奇跡の遍在、奇跡のインフレを確信的に描く。

だが、不死の命を持続たらしめるには聖杯の血が不可欠。不死の民の生命の源である聖杯だけは、死んでも守り抜かねばならない。

つまり、彼らは決して死を賭してなにかを守ろうとしているわけではない。
守ろうとしているものは、自らの生命の存続であり、死なずに生きながらえることのみが、彼ら「不死の民」の本願である。

敵味方問わずあらゆるものの「死」を忌避するのが、彼ら不死の民の行動原理であった。
彼らは殺すことを恐れ、死を恐れ、それを「生命への畏敬」と呼ぶ。不死を得てもなお、死への恐怖が強迫観念のように、彼らに取り憑いていた。

「人ひとりの命は地球よりも重い」とするヒューマニズムの理想を「不死の民」は正しく体現していた。

彼らが持つ「生命への畏敬」すなわち「殺人への禁忌」は、派手な戦闘シーンでも人が死なないという、映像演出上の利点となる。

突風が吹いたり奇跡的な偶然が重なって人の命が救われていく。気象や念動をあやつる聖杯騎士団によって。
ときには鳥や小動物などが身を犠牲にして人の命の盾となる「おとぎ話」のような情景が再現される。彼らは敵の生命さえも守ろうとする。

人が死なないように戦う戦争。人が無惨に死んでいくことのない戦闘シーン、お茶の間に届けられても問題ないアクションシーンの、その理由を今回は明確に説明づける。

ダイハードのような絶体絶命の危機を間一髪でくぐり抜け、必ず生還する主人公たち。
あるいは死んだとしてもすぐに生き返る、作者の御都合主義に守られた主人公たち。
彼ら、主人公補正された主人公たちの「異常な運の良さ」の理由を、コンセプトが要求するものとして理由付けする。

昨今のハリウッド映画のCGのように、あまりに作為的な危機一髪をやりすぎると逆に笑いを生む。
そういう、ほとんどスラップスティック(ドタバタ)と化したアクションシーンに、本作では合理性を与えたい。

*戦うヒロイン像


東洋の魔女といった趣きの聖杯騎士が、逃亡する主人公を追う。
「誰も自分自身からは逃げられない」と。聖杯神像の瞑目を開眼させられるのは、主人公だけだと迫る。

よくある、戦うヒロイン像に説得力を持たせたい。
私自身の力は微々たるものだが、私の背後には、数十人からの聖杯騎士団のサポートがある、私の眼からは何人もの視線を感じるはず、と語る。

いくつもの顔を持つ阿修羅像のように。
「百億の昼と千億の夜」の萩尾望都のキャラ、忿怒する阿修羅王のイメージを借りる。東洋系の中性的魔女はアニメでは珍しいので異彩を放つはず。

厖大に送り込まれてくる力のミディアム(媒介)となって、念力を操り、鉄の軍隊を素手でなぎ倒す細腕の魔女。

虫の知らせのように耳もとにささやくテレパシスト集団の情報力を駆使し、鳥や動物の援護、自然現象すら彼女に味方する。

現代に復活した魔女が、はじめて本来の魔的な力を行使する。これで超能力アクション物としての体裁をとる。

中世以来の魔女への迷信的恐怖、超自然的な闇への畏れが、はじめて現実のものとなる日が来た。

かつて魔女として殺されて行った数多の無実の女たちが、復讐の魔女となってよみがえり、男たちの罪科を問う。

過去、異端として殺されていった者たちがよみがえり、キリスト教文明への逆襲が始まった。そんなモチーフ。
滅ぼされていったインディアンの精霊や魔女などが大挙して復活、その超自然的な力で西欧文明を脅かす。

ゴーストダンスが現代に再びよみがえる。不死身の魔力を今回は現実のものとして。
(ゴーストダンスとは開拓時代のネイティブ・アメリカンの儀式。白シャツを着て踊ると不死身となり、白人たちの弾丸を防ぐと信じられた。だがそれ故に全滅した)

やがて彼女が不死の民から転び、力の源泉を失ったとき、転じて童女のようになる。憑き物が落ちたように。

彼女は故郷を訪れ、幼くして夭折した自分自身の墓を見つける。
かつて、彼女の父親は娘の不治の病を治すために不死の民に預けたのだった。

思想上では「不老不死」を否定しながらも、幼い娘の死という運命を甘受することには我慢ならなかったのが彼女の父親であった。
何も知らない彼女は自分が親に捨てられたとしか思っていない。

双子のような年格好のひ孫の姿に血脈の確かさを見つけ、百有余年もの時の彼方に追いやられた真相を知ったとき、彼女は不死の民を離れ、父の墓に帰郷を告げる。

だが不死を捨てたため、彼女の先天性の業病が百年ぶりに再発してしまう。
彼女の選択は。


*敵役

敵役の代表として、老いた審問官が主人公を追う。
悪役や黒幕の典型のように、老いさらばえた老人である。

彼は、偽聖杯の生まれながらの罪、いわば原罪を追求する立場をとる。

死すべき人間の墓を暴き,世界に腐臭を撒きちらす悪魔の跳梁を許してはならない。罪の子は裁かれねばならない。

「現代の十字軍」を率いる、使徒を自認する老人の「悪魔の子」を追う旅。これは生涯最後の仕事となるだろう。

不死の民の騙る「不死」とは吸血鬼の在り方だと指摘する審問官。それは聖体への冒涜であり、宗教の悪魔化である。

「聖体拝領」において主イエスの体として口にするホスチア(パン)と葡萄酒、それがまさに血と肉そのものを喰らうという行為にすりかわっている。
お前達が「人喰い」と呼ばれる所以はそこにある。

お前達の騙る「不老不死」は聖なるものではない。血によって同族を増やすそれは、ゾンビに如かずと。

「不老不死」という、不浄の血の汚染から人々を護らねばならない、という使命感に燃える審問官だが、老いには勝てず、病に冒され、迫り来る死の影に追われていた。

ついに病膏肓に入り、死の床に伏したとき、彼の心は折れ、差し出された聖杯(主人公の血)を呑み干す。

病癒え、若さを取り戻した審問官は、クルリと"回心"してしまう。目を塞いでいたウロコは今、落ちた。
パンとワインのみの聖餐式こそ真似事に過ぎなかった。 人類は二千年来、ままごとを続けていたのだ、と、180度の転回を見せる。

真に聖体の血肉を領食するこの聖体拝領こそ、確かな不死の肉体を得る秘儀であり、「本物」である、と。

不死が現実となった今、これは空前絶後の革命のときなのだ。
「生ける聖杯」の出現こそ、人類が有史以来、待ち望んで来た福音である、と、審問官はかつての言を翻す。

これはアダムとイブ以来の原罪から人間を解放するものなのだ。人間の罪からの救いの成就なのだ。

禁断の智慧の実を食べた贖いとして神に奪われた「永遠の生命」を今、自らのその智慧によって再獲得したのだ。

アダムの犯した原罪は今、贖われた。アダムの罪によって人間に突き刺さった死のトゲは今、取り除かれた、と歓喜する。
楽園を追われたアダムとイブの末裔が、ついに自らの手で地上の楽園を造りあげるときが来た、と。

だが、聖杯出現以前の人間は残念ながら誰ひとり救われない(死んだので)、という聞き覚えのある理屈は、かつての言をそのまま踏襲していた。

節操のない悪役を演じてもらい、物語をよりわかりやすく、主題を鮮明にするねらい。

一方、老いに身をまかせる、元不死の民の部落がある。彼らは玉手箱を開けたのだという。

いつの時代も、竜宮城を離れる者には必ず玉手箱が手渡される。
「決して開けてはいけません」という乙姫様の念押しとともに。

フタを開けた人間には、老いと病そして死という最悪の災厄が確実に襲いかかる。要するに、真っ当な人間に戻るということであるが。
だが玉手箱を開ける年長組の永生者はあとを絶たない。さながら宴の終わりを告げるごとく。

「不老不死」の解禁によって混乱していく世界を、思いつくかぎりシュミレートしていく。

*主人公について

平凡な主人公に突然明かされた、ヒーローとしての超人性、人々を「死」から救う使命、それらは彼にとって厭うべき「呪い」でしかない。

この「呪い」から、ひたすら遁走する主人公を物語は追う。
彼にかけられた「呪い」とは、人を救うはずの巨大な使命が、巨大な破滅を招くというパラドックスである。

死ぬほど辛い目にあうのが、本来のヒーローの宿命である。ヒーローは何度も死んで生き返って来なくてはならない。

それは、英雄神話の騎士が、宿命的に背負わなくてはならない試練であり、この試練を描くことなくして「英雄神話」や「ヒーローもの」は本来成り立たないらしい。

神話の本質は「ヒーローの帰還」であるという。聖杯伝説の構造を借りることによって、これを描き出したい。

聖杯をめぐる伝承や物語には、アーサー王伝説やワーグナーのオペラなど様々あるが、「国王が病に倒れ、それがためその国土は荒廃している。」という共通のシチュエーションは、前述の、指導力不在の現代日本の状況にそのまま重なる。

「病める王を生かす唯一の手段は聖杯を手に入れることである。それは無数の危険が取りまく、さる聖堂に安置されているという。そこで騎士が、聖杯探求の旅に出る。その旅は冒険また冒険の連続で、騎士は肉体的試練にさらされるばかりでなく精神的試練にもさらされる。というのは、騎士がさまざまの人間的欠陥を持つかぎりは、決して聖堂に近づけないからである。騎士は試練を経て、新しい全き人間へと生まれ変わる必要があるのである。」
「騎士が聖杯を手に入れると、世界はいかにして救済されるのか。エリオットが「荒地」で利用した漁夫王伝説の場合には、王が病む故に、その国には雨が一滴も降らず、ためにそこは不毛のwaste landと化してしまっている。聖杯が手に入ると、この国に恵みの雨が降り注ぎ、万物が生命を取り戻すことができるのである。」「解読 地獄の黙示録」立花隆 より引用。

今回は、剣と魔法の世界をそのまま移植するのではなく、「テクノロジーによって翻訳された魔法世界」、つまり、
「発達した科学は魔法と見分けがつかない」という、例のクラークの第3法則を援用したい。

聖体拝領の物質化、及び、奇跡や神話の物質化コンセプトに従って。

魔法などの超自然的現象はテクノロジーによってのみ存在し得る。
霊的な奇跡や神の恩寵は存在しない(原則として)。すべて物質的現象に還元されるのが、今回の物語世界の約束事である。我々の住むこの現実世界と同じく。

神話世界の英雄(ヒーロー)がテクノロジーによって翻訳されたとき、何が起こるか?
古今東西のヒーローのなかで最大のものといえば「キリスト」であると、小池一夫も言っておりますが、「キリスト」がバイオテクノロジーによって復活したとしたら?

「私はいのちのパンである。このパンを食べる人はだれでも永遠に生きる。このパンは人類の救いのために捧げる私の体である」と、聖書中のイエスは語っているが、発達したバイオテクノロジーによって、その言葉どおりのことが実現したとき、何が起こるか?

イエスの肉体の象徴としてのパンと葡萄酒を口にする聖餐式のご利益、つまり「不死」、「永遠の命」が、目に見えない霊的秘蹟ではなく、誰の目にも見える物質的現象へと置き換えられたとき、実際に血と肉を食らって不死を得る「人身御供」となってしまう。

救世主が、吸血鬼の元祖と化す。全く真逆のものになってしまうこの逆説。ヒーローものの裏返し、即物化、陳腐化、これをコンセプトの核とする。

主人公はその設定に明らかなように、ヒーロー(英雄)の物質化といえる。
ヒーローの原点である「救世主」の物質化、悪魔化と言ってもいい。
彼らの役割であった「世の救い」が、「肉体の救い」(吸血鬼の永生)へと置換されている。

夢や理想が、理念を失い形骸化したとき、しばしば悪夢を生むように。
「目に見えない価値」が、手に入れられる物へと置き換えられた途端、「まがいもの」になってしまう構造を描く。

宝物を手にした途端、砂となって崩れさる神話のように。
そのとき、聖体拝領が天上の「永遠の生命」を約束するものではなく、地上の「不老不死」を得るための現世御利益へと墜落する。星が落ちて石となるように。

そこに、失楽園、堕天使の構図を見て取るのは容易だろう。
もちろん、我々のような無宗教の現代日本人にとっては、「不老不死」という現世御利益の方がありがたいのは確かである。
来世における「永遠の生命」の約束など何の意味もない。

肉体の末永き生存と健康こそ、守られるべき最大の価値であり、最大の願いである。死んでしまっては元も子もない、と我々はそう考える。

もし、その願いをかなえるヒーローが本当に現れたとしたら。

主人公であるヒーローが、その血によって人類に不老不死をもたらす存在であったとしたら。
彼は世界を救えるのか?
という、問いかけの物語が本作品である。

かくして、主人公の顔がレリーフされた巨大な彼の分身、空飛ぶ聖杯大神像が、彼を捕えてその血肉を喰らおうと追いすがってくる。

「聖杯」としての使命を果たせ。人々の生命を死に逝く運命から救えと。
だが彼は知っているらしい。
あの自分と同じ顔を持つ、地上に引きずり落とされた神の像は、巨大な「墓」であると。己が墓であるのみならず、全人類の墓標なのだと。

巨魁の如き大神像に追われる「小さな少年」のイメージをキービジュアルとして、物語は「小さな少年」=「搾取される若者の代表」の、ほんとうの聖杯を探す旅を描く。

*コンセプト

「物質化した聖体拝領」の描写を筆頭として、「目に見えないものの物質化」というコンセプトを明確にしていく。

したがって、神話伝説上の怪物や怪力乱神、魔女のたぐいが、ことごとく(バイオテクノロジーによって)物質化し、「不死の民」として作中に現れる。

神話や物語、空想の中だけにあった目に見えない世界、魔法や神仙の世界が、かたちあるものとなって地上に降りてくる。神様まで雲を割って降りてくる。巨大な偶像となって。
発達した遺伝子工学がパンドラの箱を開け、魑魅魍魎が実体となって跋扈する世界を呼び戻した、という世界観。

影が光を模倣するように、遺伝子工学技術が、神仙&魔法世界を模倣する。神話や昔話など古来からの共同幻想を模倣する。

「物質科学が呼び出した神話や魔法世界」という世界観、これを全面に押し出していく。いわゆる英雄神話の心象風景を作品コンセプトが要求する仕掛けを作る。

こうして、一見、西遊記のような子供向けアニメのにぎやかな映像に、確かなバックボーンとテーマと直結した説得力を持たせる。
半神半獣にデザインされた異形の肉体を持つキャラを数多く登場させ、画面に彩りを与えたい。

しかし、模倣は模倣でしかない。
血の聖体拝領がそうであるように、というおはなし。

*終盤の展開(試案)

大量生産された「聖杯」の一人が成長し、総本山である聖杯大神像の玉座におさまり、聖杯王を名乗る。

「からくり仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」が、舞台劇の幕引き役として突如クレーンで降りてきて、劇終を告げるように。

文明の末期を看取るべく、「機械仕掛けの神」が降りてくる。不老不死という名のまさに強引なハッピーエンドをもたらすべく。

この、地上に引きずりおろされ物神化した、文字通りの「墜ちた偶像」の描写によって、物語世界の構造をわかりやすく示す。

これは形而上にあった「永遠の生命」を形而下に引きずりおろし、人間をゾンビのごときものに変える構造そのものであった。
日没を背景に降りてくる姿などで、人類の黄昏、末世を絵にしたい。

その捏造された近代の神は、より賢く、より強く、死をも超克して永遠の栄華を手に入れたいと願う、進化する人間像の体現、超人願望の「かたち」であった。

本当の「聖杯」はいなかった。それは百人にもおよぶ幻影だった。
それは来たるべき科学万能の文明が幻影であったことに似ていた。

肉体を持った男神が現れたとき、神と結婚していた巫女が地に堕ちる、という神話的構造を描き、「物質化した神」「地上権力を持った神」という主題を輻輳する。

殺人への禁忌を捨てた聖杯騎士団は、かつてない暴虐をふるう。「主の名のもとに」という、最も物騒な大義名分を旗印にしたとき、狂える十字軍が再来する。

「永遠の生命」こそが価値あるものであり、旧人類の「死に逝く生命」に価値なし、というところまでいく。
早めに殺しても構わない、むしろ慈悲である。と、どこかで聞いたようなことを言う。

「人間にとって最大の敵が”死”」「死こそ人間にとって、滅ぼすべき最大にして最後の敵」というコリント書の一節、聖パウロの引用を彼らは繰り返す。

「死」こそ人を邪悪に誘う根源だと断定する。「死に至る病」を根絶せよ。人の世から絶望を無くすのだ。

百年生き通しの彼らには、百年前のジェノサイドの記憶もまだ生々しいものがある。
ここで会ったが百年目、親の因果が子に報いとばかりに、子や孫の代への復讐を始める。

同時に聖杯狩りが始まる。聖杯王のスペアは不要である。

いち早く生まれたある種の鳥のヒナが他の卵を巣から蹴落とすように、聖書中のカインとアベルの人類最初の殺人のように、兄弟殺しを行う。

聖杯は世代を越えてクローン生産されていた。まさに源頼朝何歳のしゃれこうべといった具合に赤ン坊から壮年までの自分の分身が死屍累々と横たわっているのだ。

彼らの骨を拾い、弔おうとでもしているかのように、自分自身を"回収"する。蒔かれた種を刈り取るかのように。

「聖杯喰い」となって、多くの聖杯の生き血を啜り、彼らの能力や知識、経験を自分のものとしていく聖杯王。

犠牲者の肉を喰らって力をつけて生きのびるのは、生命の基本的な在り方であり、正しき自然の法則である。

だが聖杯の食い合わせが悪かったらしく、最近調子がよくない。聖杯のオリジン(主人公)を探し求めている。

ドッペルゲンガー伝説を思わせる瓜二つの分身の出現に、さし迫った死を実感する主人公。自らの影と出会った者は、ほどなく死ぬ。

彼を生来悩ませてきた殺される悪夢が、現実そのものであったことを知る。分身である聖杯たちの断末魔に意識が同通していたのだ。

大量生産された聖杯の仮面でしかない己れの面皮を、できることなら引き剥がしたい主人公。
だが、この仮面の下に彼のほんとうの顔があるわけではない。何もないかもしれないのだ。

聖杯は、絶世の美少年とする。これは決して婦女子受けを狙うわけではなく(それもあるが)、「悪魔の子」あるいは「堕天使」は美形と昔から相場が決まっているのである。また遺伝子工学的にそのように設計し、造形したともいえる。

この聖杯王が、悪役の定石通りに破滅を迎えて、物語は終わるのだろう。

我が息吹きは必ずおまえの裡に甦る。忘れていた夢の記憶が甦るように、と、主人公に告げる彼。

おまえはわたしになるのだ。風に吹かれるように。
一卵生双生児などに現れる心身相関現象がすでに彼らの間に表れていた。

それは多重人格の症例に酷似していた。
記憶の底に封印し忘れ去った悲憤の記憶が別の人格を生むのが多重人格の原理だという。

主人公は、自らの裡に甦ろうとするハイドのごとき彼を鎮めなくてはならない。

それに失敗したとき主人公は敗北し、彼にとって変わられる。その内的格闘は、亡き代理母との対話となるだろう。

まぶたの母の「聖杯王となれ」との要請は、大いに主人公をぐらつかせるだろう。

それは「魂と交換に地上の王にしてやろう」という古典的な悪魔の誘惑、"荒野の試み"にも似ていた。

それは、主人公にかけられた人類の業とでもいうべき呪いであった。

自己内部に舞台を移した、彼との葛藤が熾烈を極めるのはこれからであると匂わせて、エンディングを迎える。

そして、それは他人事ではなく、人類総体の未来の問題でもあると感じさせることに成功したとき、物語は完結する。

我々はこの不老不死という「最後の誘惑」を振り切ることができるのか?あるいは、振り切らねばならない理由は何処にあるのか?

所詮、適者生存のラットレースならば、そのような理由は何処にもない。
他者を蹴落としてパイを独占したが勝ちである。人の歴史が今日までそうであったように。

だが、そのレースを俯瞰して見るならば、それは集団自殺すべく海へと暴走するレミングの群れかもしれない。

*タイトル案

「ゴーストダンス」(ネイティブ・アメリカンの儀式。白シャツを着て踊ると不死身となり、白人たちの弾丸を防ぐと信じられた。)

「センチュリー・オブ・ドーン」(ゾンビものっぽく)

「聖杯と剣」

「○○クルセイド」 (○○十字軍)

「リザレクト○○」 (復活 蘇生○○)

「コミュニオン~聖餐~」 (聖体拝領 = エウカリスト 聖体 = コムニオン)

「不死のアウトブレイク」

*主人公の名前案

シン(オリジナルシン(原罪)から)

クロウ(映画「クロウ飛翔伝説」から拝借。カラス(クロウ)の力で復活する不死身の主人公)

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