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「スカイウォーカー」オリジナルアニメ企画提案〜抜粋〜


2022年2月8日 18:44

本企画は、別稿「初期企画案」を、「自社企画を立ち上げたい」とする某社のオーダーにより、女の子を主人公にした学園物に仕立て直したものです。

2014年から2年余り企画開発を進めていたものの、2016年秋に凍結。現在、権利関係は完全にクリアーになっております。

メディアミックス展開を目指した名残りとして、「小説家になろう」で、かすがまる氏(【書籍化作品】火刑戦旗を掲げよ! 1~3/KADOKAWA・MFブックス ゲーム実況による攻略と逆襲の異世界神戦 記 1,2~ /講談社・レジェンドノベルス)執筆によるノベライズ「SKYWALKER」連載中。

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n8616ev/


【タイトル】

スカイウォーカー

【内容】

空に棲むゾンビ、スカイウォーカーと渾名される不死者たちは、100年の沈黙を 破り、再び地に降り立とうとしていた。

不死の血液感染によって、地上に住むすべての人々を死する運命から救うという、人類総不老不死化を標榜して。

それは吸血行為によって為されるのではなく、不死者たち自らの不死の血を分け与える「聖体拝領」によって為されるのだと彼らは言う。すべての者に永遠を与えるために我らは来たのだと。
かつてのゾンビ禍、世界を混乱と恐怖の渦に落とし込んだ「不死に至る病」の感染爆発が再び行われようとしていた。

全人類ゾンビ化というべき、ゾンビの同化政策に対抗する新十字軍の少女騎士エティエンヌと、処女懐胎によってゾンビ(不死者)の救世主を孕まされた少女マリア。

人類の不死化の是非を巡る動乱に巻き込まれた、二人の少女の運命を描く。

【ストーリー概略】

兄の仇であるゾンビを討つべく、「新十字軍」に身を投じた少女、エティエンヌ。

彼女の初任務は、ミッション系の女子学園に教育実習生として潜入し、生徒マリアを看視、護衛せよというものであった。

マリアは妊娠していた。身重のマリアを巡って下世話な噂が駆け巡る学園内。

想像妊娠であるとか、他校の不良にレイプされたとか、あらぬ噂が飛び交うなか、真相を知るのは「受胎告知」を目撃したエティエンヌのみ。

翼の生えたスカイウォーカーが降り立ち、さながら受胎告知を告げる天使のようにマリアに処女懐胎を告げたのだ。聖杯を産む聖母として選ばれたのだと。
胎内に息づくその子こそ、我らが不死の命の糧であると。

マリアのお腹の子の正体はゾンビの主であった。処女懐胎という驚天動地の事実に困惑するマリアの苦悩を、エティエンヌのみが知る。

やがて、マリアをめぐる謀略の存在に気づいていくエティエンヌ。新十字軍への忠誠とマリアへの同情の間で揺れ動く過程を描く。

マリアの血を狙うマフィアや、人道的見地からマリアを救おうとする老刑事、学園に潜むスカイウォーカーとランドウォーカーの暗闘、さらに同級生たちの平穏な日常との軋轢がこれに絡む。

やがて、マリアの選択が彼女を火刑台へと誘うとき、エティエンヌは決断する。


【主な登場人物】


・マリア

ミッション系女子学園の一生徒。
空の不死者による、突然の受胎告知に困惑する。

彼女はまさに聖母マリアのごとく、不死者の主「生ける聖杯」を処女懐胎させられていた。さらに、母子感染によって彼女自身も不死化してしまう。

身辺保護と称して、彼女を半ば幽閉状態にしてしまう新十字軍騎士たち。
その裏には「聖母協定」なる密約があった。

自暴自棄な振舞いは、実の母に売られた悲しみから。一方、母の想いは正真正銘、娘マリアのため。死によって損なわれない、娘の永遠の幸福を願う親心から。
世界を二分する対立の構図が、亀裂となって母と娘を引き裂いていた。

・エティエンヌ

マリアの護衛と監視の任を受けた新十字軍の女騎士。

兄の仇であるゾンビ(不死者)を狩るために新十字軍入りしたはずが、妊婦(マリア)のお守りを任されて鬱屈している。

マリアに宿された「生ける聖杯」を巡っての暗闘に巻き込まれ殉死するが、マリア自身の聖体拝領によって死の淵から生還する。憎むべきゾンビ(不死者)の体となって。
これは果たして、死からの救済か、不死の呪いか?

エティエンヌの葛藤はやがて、不死者と化した兄との再会によってクライマックスを迎える。

【テーマ】


人間の不老不死化の是非を問う。

【ジャンル】


ゾンビが一体も出てこないゾンビ物、かつ超人ヒーロー物。

本編におけるゾンビとは蔑称であり、「老化しない人間」を指す。それゆえ嫉妬と羨望、 差別、そして迫害の対象となる。
そんな彼らの、不死の優位性と超人性をもっての反抗を描く。

ゾンビや吸血鬼が、次世代の新人類であったという結末、死を克服した人類であっ たとする、どんでん返しで終わる物語は、藤子不二雄Fの短編「流血鬼」や平井和正の「デスハンター」、「地球最後の男」(チャールトン・ヘストンのオメガマンやウィル・スミスのアイアムレジェンドの原作)などがあるが、本編はこのどんでん返しの結末からスタートする。

【コンセプト】


コンセプトは至ってシンプル。

1 ~ゾンビ物に聖体拝領を絡める~

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」

ゾンビ物は数あれど、血と肉の摂取による不死感染にこの言葉を結びつけた前例はない。本企画の核にして最大の挑戦である。

聖体の肉を食べ、血を飲むことによる、不老不死の感染、これを真の聖体拝領と称し、これこそが死からの救いであるとして、すべての人々に分け与えようというのが今回の敵役である。

ワインとパンを口にする聖体拝領を、無意味なままごとであると断じたとき、世界の半分を怒らせることになる。

命こそ最も価値あるものであり、これを永遠に守り抜くと主張する敵役の大義名分に、如何にして抗えるのか。

このゾンビの大義名分によって、はじめてゾンビ側を否定しきれない二項対立が生まれ、観客を葛藤のなかに迷わせ、先の読めない物語の渦中に放り込むことが出来る。

2 ~奇跡を演出する敵~

肉体的不死という物質的な救いをもたらす聖体拝領。
この「聖体拝領の即物化」、ひいては「奇跡の即物化、陳腐化」をコンセプトとしたとき、必然的に、「陳腐化した奇跡」を派手に演出する敵、を本作は演出することになる。

彼ら不死者たちは超人としての示威活動、大掛かりな奇跡を好んで演出する。

血と肉による即物的な聖体拝領を、これぞ「不死の奇跡」として演出する不死者たち。
代理母を動員して繰り返される処女降誕、受胎告知をこれ見よがしに行う。

再現性ある奇跡はすでに奇跡ではない。そのため、これを聖なるもののように権威づけ、目にモノ見せる必要がある。

古今東西のエンタテインメントは皆、奇跡を演出して来たと言っていい。大掛かりな手品やサーカスによって驚かせ、観客を喜ばせることがエンタテインメントの本道。本作はその「極め付け」をやる。

不死の民が扮するフェイクとして。

すべてはフェイクであり、コスプレであるという開き直りのもと、超人集団や半神半獣など異形のキャラが群れなして登場する、こうしたジャンルの総決算、集大成を目指したい。

天使や悪魔などに扮し、奇跡や神話を演出する不死者たちによって、映像はスペクタクルの連続となる。雲が逆巻き、雷光が走り、地が裂け、海が割れる、アニメでもよく見かける派手な画面に、本作独自の理由づけを与える。

キリスト教的な天使や悪魔などはアニメでは見慣れたもので、私も何度描いたかわからないが、本作では皮相な借り物ではない、コンセプトが要求するものとして、これを描く。

しかしそれらの実体は、本来は目には見えない超自然的存在の模倣であり、魂を失っているがゆえにフェイクである、という逆説。
それらは、実体として実在するがゆえにフェイクである。
それは、血と肉を食らって不死を得る聖体拝領が、模倣でありフェイクであるのと同義である。

すべては「聖体拝領の物質化」ひいては「奇跡の物質化、陳腐化」というコンセプトに収斂する。

こうして、ミメーシス(模倣)こそ創作芸術の本質であるという言葉を確かめるかのように、古今東西のあらゆる神話や伝説、SF小説や映画、映像エンタテインメントなど、フィクションの中でしか存在しなかったものが、パンドラの箱を開けたように実体となって現れる世界を描く。

このように、魔女、天使、悪魔、ゾンビ、ドラゴンやモンスターなど、アニメやハリウッド映画では見慣れた存在の登場に、本作独自の必然性を与える。

こうしたキワモノがゾロゾロ出てくるお話は、総じて陳腐になりがちなのだが、明確な演出意図として本作はそれをやる。 陳腐であるほど、本作のコンセプトは補強される。

【スカイウォーカー】


文字通り、空に棲むゾンビ(不死者)。本編の主な敵役。

人間との軋轢を避け、天空を巡るリングワールド状の生活空間に隠遁していたが、百年の時を経て今、地上に降りて来ようとしていた。

敵味方問わず全ての人間を「死」から救う、と標榜する究極の人道主義、ヒューマニズムの権化。 死と、死に至る病の根治、根絶を目指す。人の世から絶望を無くすために。

四苦(生老病死の苦しみ)から全人類を解き放ち、老いと死のプロセスを止めるべし。人が生まれてくるのも止めるべきという、反出生主義の権化。

全人類総不老不死化を大義とする不死の超人たちを敵役として、これに抗(あらが)う主人公たちとの葛藤を、物語の主軸とする。

(こうした敵役の正当性を担保するため、本編に心霊的存在は登場しない。さっき死んだ人が霊となってダブラシ(半露出)で現れたりしてはいけない。なぜならそうした存在が顕れた瞬間、不死者たちの論拠は崩れ去るからである。)

【聖母協定について】


不死性とのトレードオフとして、不死者には生殖能力がない。 女が子を産めない石女(うまずめ)になってしまう。
(人口爆発を懸念した百年前の不死ウイルス設計者がそのようにセッティングした)

不死者の存続には聖体拝領が必要であり、聖体を産み落とすには母胎が要る。
そこで、地上の女が必要となる。聖体を産む代理母として使用するために。

聖母協定——それは、地上の人々が代理母を提供する見返りとして、不死者は地上には降りてこない、不死の侵略を行わないとする密約であった。

代々、選ばれた代理母は、まさしく処女懐胎によって不死者の救世主を受胎し、不死者たちの聖母と呼ばれることになる。

ひとりの無垢の少女のもとに、翼持つ者が降りて祝福を告げる様は、受胎告知のパロディの如く。

【主人公について(シリーズ通しての中心的主人公を指す)】


聖体拝領における血と肉の提供者、つまり不死者たちにとっての救世主のひとりを主人公とする。

「私の血を飲み、私の肉を食べなければあなた方の内に命はない」

「私はいのちのパンである。このパンを食べる人はだれでも永遠に生きる。このパンは人類の救いのために捧げる私の体である」

二千年前の、この謎めいた言葉は、彼ら不死者にとっては象徴ではなく字義通りの現実そのものであった。

不死者たちは「聖体」を摂取することによって命を得て、生き長らえる。
「聖体」の血と肉を口にしなければ、不死の命はない、それ故に「聖体」は我々の命を救う「救い主」であるのだと、不死者たちは言う。

ワインとパンではなく、血と肉そのものを口にすることによる 「不死ウイルスの経口感染」、これを儀式化したものが、彼らの聖餐式であった。 最後の晩餐を由来とする聖体拝領の儀式が、彼らにあっては「血の晩餐」と化していた。 吸血鬼のように。

「聖体」は、意思持たぬ植物人間として産み落とされる。
ゾンビの救世主に”魂は不要”だからである。必要なのは聖体とされる血と肉のみ。アンパンマンのように肉体の一部を提供するのみ。

ここに「魂を失った者=ゾンビ」という図式が明確となる。初期ゾンビ映画にあった物質文明批判が、本作において鮮明に姿を現す 。

自我に目覚め、己が魂を取り戻そうとする「不死身の主人公」の試練の行末をカメラは追う。

「生ける聖杯」と呼ばれる、不死ウイルスの発生源たる主人公は、全人類を死する 運命から救うヒーローか?あるいは全人類をゾンビ化する悪魔の子か?

【ランドウォーカー】


地上に潜む不死者。
スカイウォーカーのピューリタン的な道徳規範を厭い、または 追放されて、地上に降りてきた者たち。

その正体を隠し、地上の世俗に紛れて生活 している、隠れゾンビ。ときに密告によって狩り立てられる、新十字軍のゾンビ狩りの主な対象。

【新十字軍】


不死感染者の保護と隔離を目的として国連のWHOが創設した防疫部隊を母体とす る対不死人組織。

【地の塩】


ランドウォーカーをひとつにまとめあげようとする地下組織。

聖書中の「地の塩」、つまり、地にあって腐敗しない存在は、我々、地上の不死者を指すのだ、と彼らは言う。

腐敗を防ぐ塩のように、地にあって朽ちない者たちとは、我々ランドウォーカーを指すのだと。

ゾンビというが、腐敗とは無縁の我々ほどゾンビから遠い存在はない。

近い将来、墓の下で腐り果てていく運命から逃れられない人間の最後の姿こそゾンビそのものではないか。
お前達が敵として思い描いているゾンビは、お前達自身の自画像に過ぎない。
お前達が恐れ、憎んでいるのは、逃れられない自身の「死」に過ぎないのだ、と、すべ ての「死に至る者たち」を挑発する。

【聖杯とは?】


余談ですが、前述の某社によれば企画売り込みの際、「聖杯」というワードに 「Fate(フェイト)?」という反応が返ってきて、二番煎じのイメージを払拭でき なかったようです。それが敗因のひとつだったと。

「Fate」は未見なのですが、Wikiなどをのぞくと「Fate」における聖杯は「江戸時 代の魔術師が作った願望機」とのことで、つまり、二千年前の聖遺物である聖杯とはあまり関係ないもののようです。

普通に考えても、一般教養から言っても「聖杯」と聞けば、最後の晩餐やワーグナー あるいはアーサー王伝説を思い浮かべるのが妥当でしょう。
最近ではダヴィンチ・ コードもしくはインディジョーンズの三作目に出てきたアレかぐらいが、聖杯のごく一般的な見方、解釈であり、世界標準と言えるでしょう。

要するに「人間に永遠の生命を与えるもの」というのが聖杯の一般的な認識であり、本企画もそれを採用するものです。

若い頃のスカーレット・ヨハンソン主演の映画「アイランド」でも、臓器提供用の クローンに「お前たちは聖杯なのだ」というセリフがありましたが、向こうではそ れで通じるのです。

本作の聖杯もニセモノでありますが、ニセモノである所以は、不老不死という現世 御利益のみををもたらす、人の肉と血を湛えた、いわば「聖ならざる聖杯」、聖杯の影のごとき「地上の聖杯」であるからです。

影であるならば、実体を正確に投影しなくてはなりません。本物に似せてさえない ものはニセモノとすら言えないでしょう。

血の聖杯、つまり、影を描写することによって、目には見えない「本物」の輪郭 を垣間見せる。これが本作の狙いであり、映像演出のテクニックでもあります。

形而下(形あるもの)の事象を駆使して形而上(形なきもの)の存在を垣間見せる、これは映画のみならず、あらゆる文化芸術の目的であります。形なきものを見せるには象徴を駆使しなくてはならない、ということです。

「聖杯」、この二千年ものあいだ忘れられることなく語り継がれた存在の背後には、何らかの「確かなもの」があると考えるべきであり、こうした「目に見えないもの」を語ることこそ、映画やあらゆる文化芸術、そして本企画の本意です。

【本企画のPRとして】


「単発で終わらないものを」というオーダーにお応えできる、長大な戦記物やサーガの展開が可能な「永続する対立構造」を、いかに作り上げるか?
コンテンツビジネスを永続的に展開していくにあたって、何度倒されても物語が終了しない「普遍的な敵」を、どう設定するか?
「普遍的な敵」との、「終わらない葛藤」を、いかに作り出すか?あるいは発見するか?

かつて現代の神話とも謳われたスターウォーズの新作群が無惨な駄作となって潰えた今、時代に即応した新たな「英雄神話」「光と闇の戦い」「世界を二分する対立構造」を語り得るフォーマットが求められています。

その新たなフォーマット、新たな「ダークサイドとの葛藤」、新たな「二項対立」を語り得る世界観、その有力な候補を本企画は提示します。

本編の敵役である不死者たちは、死は「闇」であり、死なない生こそ「光」であるとして、不老不死を正当化する、かつてない大義名分を掲げます。
「死ぬのをやめて何が悪い?」と。

この「人命こそ至上」とする敵役を相手にして、主人公たちは如何に戦うのか。

現代人の大勢を占める価値観と如何に戦うか?

これが、今描くべき「ゾンビ(魂を失った者)との戦い」であります。

ジョージ・ロメロのゾンビがショッピングモールに集まるのは、欲望のままに動く肉体の奴隷である人間存在への暗喩であり、現代人および物質文明への警鐘ということですが、その意味で本企画はゾンビジャンルの原点回帰、そのメッセージ性をより鮮明にする試みです。

人皆ひとしく死ぬ、この開闢以来のことわりが覆されるとき、人が死ぬ者と死なない者とに分かたれ、人類史最大の分断が行われるとき、この最も激しい「世界を二分する対立構造」を警鐘として描くとき、本作ははじめて「現代の神話」と言える スケールを得るでしょう。
(かなり盛ってますが、プレゼンですのでご容赦下さい)

~追記(蛇足ながら)~

ゾンビと聖杯、西欧圏では馴染みの二者の異種結合。
これによって世界配信に耐える普遍性を担保しよう、と目論むのが本企画です。

同時代性と普遍性の両立こそ、時代を超えるヒット作の条件と聞きますが、本企画はその可能性を大いに秘めていると言えるでしょう。

ゾンビと聖杯、この同時代性と普遍性、聖と俗の異種結合によって、改めて浮かび上がるのは「聖体拝領による復活」の解釈論争です。

それは果たして、霊的復活か?肉体の復活なのか? 古くから議論はなされてきまし た。

キリスト教圏で土葬が多かったのは、終末後の肉体の復活を信じてのことで、西欧圏でゾンビ映画が廃れない理由もそんな土葬文化にあるということです。

「ラッパが鳴り、死者が己が墓から出てくる」というわけで、火葬してしまうと復活できなくなってしまう、と信じられてきたわけです。

こうした文化的背景は大いに利用すべき、と提案するのが本企画です。

たとえば携挙をテーマとした、人類の半数が突然消失する映画やシリーズは、我々日本人にはピンとこないが、キリスト教圏では結構リアリティのある話らしく、近年とみに多く作られております。
(レフトオーバーズやレフトビハインド、リメイニング、近くはアベンジャーズなど)

そうした文化的土壌、その広大な土地に合った種子を蒔き、大きな収穫 を、という提案が、本企画です。
世界配信が当たり前になった今だからこそ、そうしたことが短期間で可能であります。

時節到来の感ありです。

今こそ、世界配信に耐えうる、いわゆるグローバルなニーズに応え得る普遍性を具えた「大きな物語」で、勝負をかける時です。


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