吉開章氏からの返答にお答えする

先日公開した、吉開章(2021)『ろうと手話 やさしい日本語がひらく未来』筑摩書房(以下、本書)を読んで、というnote記事に対して、著者の吉開章氏からTwitterへの連続リプライという形で返答(以下、「返答」)をいただいた。
吉開氏に了承いただき、「返答」は本記事の最後に全文を転載している。かなりの分量ではあるが、もしよければ先にそちらから読んでほしい。
そのうえで、「返答」に記された吉開氏の主張ならびに僕に対する問いかけについて、この記事では応答したいと思う。

吉開氏は本書の目的を「生まれてくるろう児のために、当事者が団結して、公立ろう学校で日本手話による教育を選択できるように国と協議すべき」と主張することにあったとしている。僕も基本的には賛成だが、「当事者が団結して」と「日本手話による教育を選択できるよう」については、いま少し立ち止まって考える必要があると思う。

まず、「当事者が団結して」というのは、もちろんそうできたらどんなに良いだろう。しかしそれは、吉開氏のいうように日本手話と日本語対応手話の区別を「言語学的には正しいが、ろう運動的には認めづらい」とする立場を容認することでしか達成できないのであろうか。僕はそうは思わない。なぜ、全日本ろうあ連盟(以下、連盟)がこの立場に固執するのかを逆に問いたい。日本手話か日本語対応手話かの二者択一を恐れて言語的に異なる両者を無理に一つの存在とする(連盟のいう)「日本手話言語」で教育を提供することに、日本語教育に携わる人々は本当に賛成できるのだろうか(この問題は後でもう一度触れる)。僕としては、そうではなく、子ども一人一人の言語状況に即した言語習得支援が必要なのだと思う。聴覚口話法で育つ子や中途失聴者の日本語対応手話によるコミュニケーション・情報保障を求める権利と、日本手話を第一言語とするろう児・ろう者の言語権の双方を尊重できるような教育体制の構築や社会啓発活動を国に求める運動を、連盟はなぜ展開しないのか、吉開氏はどうしてそのことに疑問を抱かないのかが不思議でならない。吉開氏は「返答」の中で「聴覚口話法のろう者を無視することはできない」と書いているが、誰もそういった人々を無視しようなどという主張はしていないと思う。なぜ、日本語対応手話と日本手話にゼロサムゲームをさせようとするのだろうか。端的にいって問題設定自体が間違っていると僕は思う。

日本語教育に携わる資格を持つ吉開氏には釈迦に説法かもしれないが、日本語対応手話と日本手話の間には手指を使用する名詞や動詞などの単語表現に共通する語彙がある(ただし動詞においては、位置関係や動作方向などの日本手話独特の「活用形」が、日本語対応手話では欠落することがしばしばある)ことを除けば、相当な違いがあるように僕には思える。言語学的に正しい喩えではないかもしれないが、僕がいつも思い浮かべるのは、英語の名詞や動詞を日本語の語順で日本語の助詞や助動詞、接続表現などでつないだものを、日本語を知らない英語話者は理解できるか、というものである。例えば、

 AはBがCをhitをsaw。

と聞いて、英語話者は

 A saw B hit C.

と言いたいのだと理解できるだろうか、という問題である。

いやわかるだろう。という人は、英語と日本語の双方を知っているからである。さらにいえば多くの場合(もちろん、日本語も英語も第一言語ではないろう者もこの記事の読者にはいるだろうことは承知しているが)、英語か日本語のいずれかの第一言語話者であり、他方について少なくとも単語レベルの知識をもっているからこそ、上記のような「日本語対応英語」のようなものの文意がわかるのだといえる。

そして日本手話話者、特に日本手話を乳幼児期に第一言語として習得した人にとって、日本社会には「AはBがCをhitをsaw。」があふれている。そして、連盟(そしてそれを支持する吉開氏)の主張が、日本語対応手話と日本手話を区別しない「日本手話言語」を第一言語として教育しようとするものならば、それはつまりろう児の言語習得を最初から「AはBがCをhitをsaw。」で教えようというものではないだろうか。これが言語習得論としてもどれだけ問題のある主張か、言語教育に携わる人々なら理解していただけると思う。吉開氏は「バイリンガルろう教育という選択実現の可能性を拡げたい」と書いているが、その結末が「AはBがCをhitをsaw。」と「AはBがCを殴るのをみた。」のバイリンガル教育だとわかっても、それを実現することに意義があると思うのだろうか。それならば多くのろう学校の教員が、現在も日本語対応手話を授業で使用しているわけで、それと大差ないのではないだろうか。

少し話がそれるが、この記事を書いていて思い出したことがある。よく日本手話の特徴として、手指単語以外に、目・眉・頬・口の形状や動き、視線、あごの位置、頭部の動き、肩の動き等も文法表現として使用される(非手指標識 NMM:Non-Manual Marker)と説明される。この説明の仕方だとNMMは手指単語に対して補助的な役割しかないと思いこみがちだが、実際にはろう者は手指をまったく使わなくても視線・眉・目・口・顔の向きなどだけで発話が可能だという事例動画を見せてもらったことがある。僕はこの動画をみて、日本手話と日本語対応手話は、まったくことなる言語だということを思い知らされた。この違いを、吉開氏にもぜひ理解してほしい。そうでなければ、日本手話の消滅に、吉開氏は意図せずに手を貸すことになってしまう。知らなかった・わからなかったでは済まされない事態を引き起こしてしまう可能性があるのだ。

吉開氏は「実務家として、何年もの閉塞状況を打破したい」と書かれている。素晴らしいことだと思う。だが、ぜひご自身が善意で握手を求めながら相手の足を踏みつけていないか、よく考えてほしい。僕は立場上、日本国内の他の少数言語についても研究しているが、あるアイヌの人に言われたのが、「まず私たちの話を最後まで黙って聞いてほしい」だった。これが、歴史的反省に立って少数言語話者との和解と歴史的補償を始めようとする人々が踏み出すべき最初の一歩だと僕は思う。広告はとても影響力があり、吉開氏がその力(と危険性)を十分に理解し、社会をより良い方向に変えようと尽力されていることは、いままでの氏の実践からも承知しているつもりだが、今回は少し勇み足だったように僕にはみえる。ぜひ、一度立ち止まって、連盟以外の立場の人びとの声にも耳を傾けてほしい。長きに渡る閉塞状況を打破するためには、まず閉塞状況についての(吉開氏がまだ話を聞いていない)当事者の声(それには下記に紹介する書籍等も含まれる)を虚心坦懐に聞くことが、手続き的にも正しいと僕は考える。

なお、吉開氏からいただいたいくつかの問いかけにもお答えしておこう。

「本書の提言である1と2について、批判する方々の意見は明らかになっていません。」
これについては「長きに渡る閉塞状況」により、もはや連盟には何も期待していない、という諦念の声を、僕はよく目にする。実際、連盟への加入率の低下もそれを裏付けているだろう。いずれにしても上述のような理由で、連盟の側にこそ歩み寄り(というか、次のステージへのステップアップ)が必要だと僕は考える。そういった意味で、吉開氏にはぜひ連盟を支えていただけないだろうか。

「成果が出ていないこれまでに対しどのような新しい取り組みをされるつもりでしょうか」
僕としては、科学者の端くれとして倫理観に則って、学術的な発信を続けることしかできない。ぜひ吉開氏のような社会的影響力のある実務家の方がたに、科学者の生み出す知見を社会運動に応用していただきたいと思っている(そのためにもより一層精進します)。
ところで、これは前回の書評もどきで書くべきことだったが、本書146ページ以下で、「やさしい日本語」が明確な定義がなくても政令・省令等に言及されたとの記述がある。内容に異論がある訳ではないのだが、「やさしい日本語」は使いようによっては、日本語への同化促進と、その手段としての「周縁化の手段」としても利用可能である。だからこそ、その政策は慎重でなければならないのだが、いずれにせよ、日本政府が「豊かな多文化共生社会づくり」を目指して「やさしい日本語」を法令化しているとは僕には思えない。他の国内少数言語問題への対応との温度差からみても、政府による同化主義の道具としての「やさしい日本語」の利用は常に警戒すべきだろう。そのことに思いが至ったので、吉開氏のこの部分の記述には感謝している。

「長期戦もやむなし、ということであれば、その間にも生まれてくるろう児たちとその(聞こえる)親に対してはどのようにお考え[か]」
吉開氏もご指摘のとおり、すでに明晴学園札幌聾学校などの実践があるのだから、それらの活動をより広く周知して普及させていくのではだめだろうか。また、聴親への手話指導・ろう文化教育は明晴学園でも行われているし、このコロナ禍の中でもZoomを利用した聴者向けの日本手話の教室がある(個人的にはWP手話寺子屋が少人数制でお薦め)。長期戦と決めつけずに、まずはこれらの営為に触れてみてはいかがだろう。

最後に、これを機会に手話やろう者に関心を持ってくださった方々に、以下の書籍をお勧めする。

木村晴美(2007)『日本手話とろう文化―ろう者はストレンジャー』生活書院
木村晴美(2011)『日本手話と日本語対応手話(手指日本語)―間にある「深い谷」』生活書院
岡典栄・赤堀仁美・バイリンガル部カルチュラルろう教育センター(編)(2011)『文法が基礎からわかる 日本手話のしくみ』大修館書店
亀井伸孝(2009)『手話の世界を訪ねよう(岩波ジュニア新書)』岩波書店

ほかにもたくさんお勧めしたい書籍があるのだが、まずはこれだけ。

※追記
この応答を書いている最中に、庵功雄(2021)「日本語教育、日本語学の社会貢献―ろう児に対する日本語教育を例に―」『多元文化交流』(台湾東海大学)第13號,pp.9-20.に接することができた。「やさしい日本語」の先駆的研究者である庵氏の手話観やそれを前提としたろう児への日本語教育における「やさしい日本語」の応用可能性の検討内容は、吉開氏のそれとは方向性が異なるようである。なお、この論稿の参考文献に掲載されている、庵功雄編(2021近刊)『「やさしい日本語」の関連領域』ココ出版の発刊が待ち遠しい。特に同書所収予定の、岡典栄・皆川愛「日本語対応手話は「やさしい日本語」になり得るか」が早く読みたい(ココ出版さん頑張って!)。
そういえば「待ち遠しい」も日本語対応手話と日本手話では全く表現の仕方が異なる。というか、日本手話で表現するなら、このきわめて日本語的な表現の意味をとって別の表現をするしかない。日本語対応手話で「待つ」+「遠い」と表現しても、日本語の知識がなければ意味を理解できないろう者がいるのだ。

※※この「追記」に関して、吉開氏から自分は一度もろう教育への「やさしい日本語」の応用には触れていないので正確に論評してほしい旨の連絡があり、いま一度よく読み返したところ、たしかにそのような直接的な記述はなかったので、不正確と思われる記述部分に取り消し線をいれた。

-----以下は、Twitterでの吉開氏からのリプライ全文-----

評論ありがとうございます。私と杉本さんは言語文化教育研究学会でも旧知の仲ということを前提に、ご指摘について、公開ではありますが、杉本さんへのメッセージとして書きます。

本書がろう当事者に対して主張しているのは以下の1点だけです。
「生まれてくるろう児のために、当事者が団結して、公立ろう学校で日本手話による教育を選択できるように国と協議すべき」
これを言うためだけに書いた本です。これに反対する人には本書は問題作であることは認めます。

私はもともとバイリンガルろう教育に惚れ込んでろう者のことに関心を持ちました。そのことは杉本さんもご存知のはずです。日本手話を母語とする人たち(以下日本手話コミュニティ)の権利を守るための、杉本さんを含めた関係者の論説には100%賛同しています。嘘偽りなく、一点の曇りもなくです。

しかしその活動の成果は十分とはいえず、手話に関する諸議論はペンディング同然です。この状況について杉本さんはどのように考えているのか、いつか聞きたいです。

憲法学者であり言語権の専門家である杉本さんが参加していることで、日本手話コミュニティの理論武装は強固になりました。しかし誤解を恐れずに言えば、研究者という職業はタイムラインや妥協ということを考えません。

杉本さん他の主張は見事ですし真実ですが、成果が出ないのであれば、外交のように相手国のメンツを損なわない形での対話再開の方法も検討されるべきです。

杉本さんが日本手話を母語とする人の権利保護への取り組みは、憲法学者・言語権専門家として当然のことです。しかしやさしい日本語を通じて多様性を重んじる社会を作る活動をしている私は、隣接した方々(聴覚口話法のろう者など)を無視することはできません。

日本手話話者かどうかに限らず、ろう者には日本語を苦手とする人が多いという点で、やさしい日本語での情報提供やコミュニケーションは重要です。手話言語法ではなく、情報コミュニケーション法の成立で、ろうあ連盟との連携もできると思っています。

なお手話については、私がろうあ連盟と連携できるような知識も経験もありません。

杉本さんたちの指摘にろうあ連盟は「言語学的にはその通りだが、ろう運動的には認めづらい」と思っているはずです。運動団体としての立場もあります。会員には日本手話コミュニティの方々も多いでしょう。研究者もいるでしょうが、当事者としてろうコミュニティの発展の方を願う人が多数派でしょう。

人工内耳によりろう者のコミュニティの消滅は現実的なものです。今を生きるろう者の言語環境をどうするかについて譲れない議論は続くのは仕方がありませんが、とにかく公立ろう学校でも日本手話で学べる選択肢をつくるという1点だけでも協力しなければいけません。

私がこの点以外でろう当事者に主張することは何もありません。「おわりに」に書いたことは、ろうあ連盟からいただいた見解の紹介を含め「落とし所」の提案に過ぎません。

私は研究者ではなく、実務家です。物事を実現するのが仕事です。何年もの閉塞状況を、私なりのアプローチで打破し、まずはバイリンガルろう教育という選択実現の可能性を今よりも広げたいと思っています。以上です。

杉本さんがnoteで指摘された個別のことに、少し補足させてください。
まず障害児教育の仕組みの点ですが、制度としての施行された順番は書籍の通りです。しかしろう学校がない地域などで普通校が受け入れたことはあるそうです。

この指摘は情報の「粒度」の問題です。この書籍でははっきりした制度施行などをもって区切りとするレベルの粒度で記述しています。

他にも1880年ミラノ会議と2010年バンクーバー会議の声明をもとに「ろう教育で手話は130年間禁止された」とも書いていますが、実際には国にもよるでしょうし、2010年の声明前後でぴったり変わったわけでもありません。

本書は学術書として書いたものではなく、わかりやすさを優先した粒度で記述しています。「読者を馬鹿にした書き方」という指摘があったのは、捉え方の違いだと解釈しています。

またド=レペの双子の姉妹エピソードについては、もともと詳しい方のアドバイスを受けて挿入しました。監修者を含め複数の人に全原稿を見てもらいましたが、この部分にはどなたからも指摘はありませんでした。

森氏の訳著を私が読んでいなかったのは事実ですが、本著は日本国内のろう者・手話事情が中心となるため、訳著まで気が回らなかったというところです。森氏の特定の著書を読まなかったという勉強不足は認めます。

また森氏の「手話が言語だと認識されるようになったのは1960年ごろからであり、徐々にろう学校などでも手話を併用した教育が行われてきました。(48ページ)も怪しい記述。」と言う指摘も含めて、本書で使う「手話」という言葉について以下説明します。

この書籍の結論は「手話のことはろう者に任せるべき」ということです。そして中立の立場から手話を語るために、「日本手話」「日本語対応手話」「手話言語」のような表現は、それぞれの立場から書くときに記述するにとどめ、基本的にはすべて一律「手話」と書いています。

「言語としての日本手話の豊かさ、ろう文化への敬意が足りない」という指摘があるのは、この書籍の建て付け上、個人としての評価を盛り込むことができないという事情があります。日本手話をつかえないろう者の立場や気持ちも配慮する必要もありました。

したがって、私が手話をどうとらえているかについての質問や批判については、本書籍中の解釈としては回答を控えさせていただきます。

最後に、杉本さんのnoteは多くの方に読まれ、この本には問題があるという評価が広がっています。しかしこの本は学説を唱えているわけではなく、(日本語教育関係者に加え)ろう者に現状打破のための提案をする目的で書いたものです。

もちろんこの本の途中のさまざまな点に異論がある方は多いと思いますが、書籍を購入した上で批判記事を読んだ読者は「ろう当事者がこの本の結論に反発している」という理解になると思います。

本で示した3つの提言は以下のとおりです。
1議論は必要である。しかし分裂は避けるべきである
2唯一の当事者団体であるろうあ連盟の立場を尊重しよう
3「日本手語」と「手語」という言葉でまとまろう

3の意見は当然分かれるでしょうが、本書の提言である1と2について、批判する方々の意見は明らかになっていません。杉本さんは今後も分裂を肯定し、ろうあ連盟とは対立すべきとお考えなのでしょうか。その場合、成果が出ていないこれまでに対しどのような新しい取り組みをされるつもりでしょうか。

もし長期戦もやむなし、ということであれば、その間にも生まれてくるろう児たちとその(聞こえる)親に対してはどのようにお考えになるかも、あわせてご教示ください。

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