第5回難聴児の早期発見・早期療育推進のための基本方針作成に関する検討会(2022年1月28日)を傍聴して(雑感)

表題の検討会(今回で最終回)を傍聴した(Youtube: https://www.youtube.com/watch?v=NBbRgvK1fVw 、議事資料等はこちら https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_23625.html )。省庁サイドからは厚労省だけでなく文科省からも参加があり、パブコメで寄せられていた「公平な情報提供」「手話の習得支援制度の確立」について、どのような議論がなされるのか注目していたが、なんというか…ほぼ「ゼロ回答」だったという感が否めない。
ただ、検討会の半ばで中川座長や酒井構成委員から障害者権利条約への言及があったことは注目したい。特に酒井構成委員からは同条約の具体的な条項に照らした制度構築の必要が明確に述べられていた。同氏からは、検討会の議論が、難聴児の音声日本語の習得のための制度構築にばかり重点が置かれていて、音声日本語の習得が困難な子の言語習得として、手話の習得のための制度設計の問題が黙殺されているとまでの指摘があった。
この発言を受けて、中川座長も障害者権利条約に基づく制度構築の必要性を指摘したわけだが、他方で、静岡県から出席した河本構成委員からは、静岡県での難聴児療育支援をけん引してきた静岡県立総合病院・高木医師から提出されたパブコメの扱いについて確認があった。そこで紹介された同医師のパブコメの趣旨は「音声言語獲得のためには早期の療育支援体制の確立が必要であること」と、「障害者基本法の趣旨にのっとり、障害を治癒することをまず考えるべきであり、基本方針においてもそのことを明確に記してほしいこと」であった。聴覚障害を治癒すべきものと考える「障害の医療モデル」に立脚した高木医師の主張がハッキリと示されていた。
さて、これまで何度か検討会を傍聴してきて、今回も含めていつも思うのが、構成委員間で「言語の習得(獲得)」の意味が異なっていて議論がかみ合わない事である。以下はあくまで僕の印象なのだが、言語とは音声日本語だけを指すのではなく、手話という音声日本語とは別の視覚言語もあり、両者はそれぞれに尊重されるべきである。そして、子どもの言語習得(獲得)支援とは、その聴覚の状況に応じて、いずれかの言語を習得(獲得)できる体制を構築することである、という前提で「言語」という用語を明確に使用しているのは、おそらく酒井構成委員や武居構成委員だと思う。これに対して、言語≒音声日本語という前提で「言語の習得(獲得)」を論じている構成委員が大半を占めていて、彼・彼女らは、おそらく手話を音声日本語の習得手段として構想しているが、各委員間で、手話の手段としての有効性について考え方が異なっている。そこには例えば英語を第1言語と習得し、その上で第2言語として日本語を習得するという場合の英語と、手話が同等であるという発想はなく、手話はあくまで音声日本語の習得(獲得)のための補助手段であり(学習指導要領における手話の位置づけもこれであろう)、手話が子の第1言語となる、という発想はない。上述の高木医師の立場は、これをさらに突き詰めていて、音声言語の習得(獲得)に手話は不要、もしくは邪魔にならない範囲でのみ認める、という発想なのだろう。
以上はあくまで僕の受けた印象だが、この検討会で「言語の習得(獲得)とはどのような状況を指すか」、逆に言えば「どのような状況が子の言語の習得(獲得)を妨げているか」についての共通認識が構築されていない、あるいはそのための議論が尽くされていないように思われる。ただ、これはとても不思議な話で、酒井構成委員が言及したように、障害者権利条約では子の言語習得(獲得)について国家が責任を負うべき事項がかなり明確に規定されているのであり、そこで想定されている療育・言語習得支援環境と日本の現状の差を検討することから始めてもよかったのではないだろうか。なお、障害者権利条約は「障害の社会モデル」に立脚しており、それを批准するために障害者基本法は改正されたはずである。それを否定する立場からの発言が政府の検討会議において公然と行われていることに慄然とする。
そして、このような発言が子のために良かれと思って行われていることの意味をも考えなければならないだろう。ただ批判するだけではダメなのだ。なぜなら、この日本社会では、手話を第1言語とすることの意味がまず十分共有されていないし、ろう者が置かれている社会的境遇についての理解も浸透していない。手話を第1言語として習得して、その上で音声日本語の書記体を学ぶことが、どこに住んでいてもできる体制、子に重度の聴覚障害があることがわかったときに、保護者をはじめとした家族も手話を学ぶことができ、ろう成人の支援を得ることがどこに住んでいても可能な体制、このような社会的な仕組みをどうやって作ればいいのか、実現に向けて動いていく必要がある。そんな予算は到底望めないから、音声日本語の習得に注力し、たとえ音声日本語が支配的なこの社会で周縁化され差別されても、その方がましだ、という言説に立ち向かう具体的な政策の選択肢を構想していかなればならない。
そのための方法の1つが、あるいは「手話言語法」の制定なのかもしれないが、それはそれでチョッとモヤることが僕としてはある。これについてはまた別の機会に。

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