見出し画像

ワシの変遷②

高校生

中の上〜上の下くらいの高校に進学。元々男子校だったこともあってなんだかさっぱりとした校風が気に入っていた。通った高校を選んだ1番の理由は吹奏楽部が1番イケてたから。自分の学力からそう遠くない高校の定期演奏会全てに足を運んだ結果、この高校しかないと思った。

お勉強

学力に関しては片田舎の小さな学校ということもあって上位10%を維持することができた。体育と家庭科以外、評定実は5だったし(みんなにびっくりされる)、卒業時には成績優秀者?みたいなヤツでちゃんと表彰もされてる。外的要因ではしっかりと「勉強はできる側」だった(学校の中では)。けれど、上位をキープできてもナンバーワンになれない自分がどこか悔しかった。何をやってもそこそこにできても、トップにはなれない悔しさが己の渇きを作っていた。

でも、学校で勉強することを異様に嫌った。今思えば怖かったんだと思う。みんなからは、あいつは地頭がいいからみたいなニュアンスに写ってたんだろうけど、私は残念ながら地頭の良さで成績が良かったわけではない。執念に近いパワープレイで毎回努力していたからだと思う。要領よく勉強したわけでも、ポイントを絞って勉強していたわけでもない。とにかく量で押し切るタイプだった。学校ではテキトーに勉強して、平日の塾ではヨダレを垂らしてプリントをビチャビチャにしながらも机に齧り付き、家に帰れば毎日チャートを開いて机で寝落ちては、朝6:00に起きて解き直しをしていた。土日は部活終わりはほぼ毎回塾の自習室に行っていたし、塾の授業前後には必ず自習してた。
やはりここも、勝手に貼られたレッテルが剥がれないように、レッテル通りの自分が実現できるように努力を重ねていた。本当にレッテルが貼られていたかどうかは怪しい。レッテルが貼られていると感じて、自分でもう一度貼り直していたのかもしれない。勉強ができれば発言権もあるとどこか感じていた。努力の量が非常に見えやすく、番数が上がれば学校生活を円滑になっていくことにどこか快感を覚えていたのも事実。勉強ができれば、すなわち義務を果たしていることであり、権利を声高に主張する資格があるとどこかで思っていた。

部活

部活に関しては、順風満帆だったのは束の間、失敗やコンプレックスと戦っていた時間の方が圧倒的に多かった。中学の時の噂や演奏会での失敗で己に貼られたレッテルが自分を苦しめた。いや、そのレッテルも実は己で作り上げた幻影がほとんどだったのかもしれない。どこか完璧主義の入った自分にとって、元々そこそこに築き上げていた他者からの評価が下がっていくあの空気が地獄だった。けど、あの地獄の空気から這い上がっていく自分は好きだった。あの時必死で足掻いたから今の自分がいる。人生を振り返った時の成功体験はほとんど高校の時の自分。この時の絶望と成功体験が私の土台になっている。

合唱が吐くほど嫌いだったから、歌から逃れるために、ブラスト気取りの企画を叩き上げた。後輩も半ば強引に付き合わせたものの、アンケートでは大好評をもらえた。自分で言い出して、自分でやり上げて、他者の評価をもらえたことが死ぬほど嬉しかった。多分、部内では色々言われていたと思うが、評価がひっくり返る瞬間をこの目で見届けた。自分のことを悪く言っていた人が、ぐうの音も出なくなっているのが最高に気持ちよかった。やはり結果が全てだった。

後輩は好きだった。たまにぶつかることもあったけど、私のことをよく慕ってくれて、なんなら友達みたいな感じだったけど、よい距離を保ってくれた。人との距離のバランスの土台を作ってくれたのは彼女たちだろう。近すぎず、遠すぎないようで、やっぱり近くにいてくれた。真面目すぎる私の力を抜いてくれて、周りとのバランスを調整してくれたのは彼女たちだった。いろんな噂はあったと思うが、過去を流して、今の自分をきちんと見てくれていると思えた。

楽器は別にそこまでうまくなかったが、この達者すぎる口を生かして司会を買ってでた。おかげで他校生徒や保護者からも評価は上々だった。劣勢だった私の評価を自分自身で塗り替えた。少しずつ、結果も自信も持てた。この結果は、絶望や憤りが生み出したものだ。汚い感情をうまく昇華できたのはおおよそ奇跡だ。コンクールなどの賞や順位を争わなくとも、勝てる方法があることを私はここで知る。

他のがっこーせいかつ

なお、ここで私はサードプレイス「保健室」を失っている。

高校生の私は、苦しかった。クラスでも人気者気取りで多分どこか浮いてたし、孤独だった。気を許して全てを話せる友達はあまりいなかった。あるがままに振る舞っているようで、求められる自分を振る舞えるようになったのもこの頃だろう。他者の評価と引き換えに、弱い自分を見せる勇気や、ダメな自分を受け入れる寛容さを失った。いつも理想の何かを追いかけて、自分が何を感じてどう在りたいのかは、いつも後回しだった。だから盲目なまでにここまで走って来れたのだけれど。今思えばバランスはおおよそ失っていた。少し突かれると瓦解するような脆さがあった。やじろべえみたいな。

何度か授業中に手足が冷たくなって、吐きそうになってもう死んでしまうんじゃないかと思ったことが何度もあった。みんなが静かに座って授業を受けてる、教材が目の前に座っている、逃げ場がないように感じた。私は今でも物理的に逃げられない場所が苦手だ。腹というより内臓が捩れるくらい痛い時があった。「便秘です。保健室に行きます」でひと笑いとりつつ、教室を去る時間が増えた時がある。

中学の時のように、当時悩んでいたことを保健室の先生に話していた。聞いてもらうだけでよかった。逃げ場があると思えるだけでよかった。「保健室にこうやってきていることを、あまり言わないでほしい。特に部活の顧問には」たったそれだけでよかった。

当時、部活の顧問とはぶつかることも多く、割と下手すりゃ不登校になるくらいには嫌になることがあった。練習も真面目に取り組んで、勉強もそれなりにできて、生徒会にも立候補して、一体顧問は私の何が気に入らなかったのだろうか。多分、そういうところが気に入らなかったのだろう。「お前は器が小さい」とかなんとか罵詈雑言を浴びせられたが、おかげでその怒りは原動力となった。

保健室は束の間の逃げ場にしかならなかった。生徒会長に立候補する時、保健室に通っていることを顧問に揶揄された。

「お前、保健室にだいぶいっとるみたいやな、授業中。そんなので生徒会長なんかになれるんか」

頭に血が登ったのは一瞬、感情の波が自分でも驚く速さで去った。

「生理痛です」

頓知をきかせて(というか何回かは本当に生理痛で保健室に行ってた。)誤魔化したけれど、この日から保健室に行くことはなくなった。憤りが抑えられなかった。何がいけないというのだ、成績が下がっているわけでもないのに。秘密を守ってくれない保健室の先生が信じられなくなって、かといって悩みを聞いてくれるような大人は誰もいなかった。

「君はそのまま頑張ればいいんだよ」

周りの大人は口を揃えてそう言った。それでも、納得できなかった。私は私の地獄で生きている。私の周りにいた彼も彼女もきっとそれぞれの地獄で生きていたのに、なぜ私だけが自分の地獄を我慢しなければいけないのか理解できなかった。相対的に見れば、周りは地獄をきちんと理解できていた、もしくは、地獄を理解した姿勢で生きていくことが上手かった。対して私は、己の地獄がわからなかった。私は何を地獄と感じているかを理解したかった。けれど、表向きはうまくいっているように見える私の苦しさを理解してくれようとする大人は本当に少なかった。いや、あの頃はいなかった。

総括

高校の私は、なんだかキラキラしているようだったけど、結構暗くて怒りや絶望、やるせなさの中を生きてた。最近気づいた、てかこれ書いて気づいた。「なんかつまんなかったな〜」と思ってたけど、そりゃそうだ。暗すぎる。

私の中の多重人格ピエロや承認欲求モンスターを生み出したのは紛れもなくこの時代の私だ。ありがとうなのか、この野郎なのか、勘弁してくれよなのかよくわからない。


コジキなので恵んでください。