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今週のまとめ【2019.9.1〜2019.9.7】

今週、読んだ記事の中で特に良かったと感じたものをまとめたnoteです。

参院選での低投票率と「静かな全体主義」

政治学者の宇野重規さんの論考です。政治思想家トクヴィルの「民主的専制」論や、ルゴフの「新たな全体主義」論を引用しながら、参院選の低投票率について次のように述べています。

換言すれば、「静かな全体主義」が日本で進行している。そして、それこそが特定の個人や組織の思惑を超えた、日本社会の趨勢(すうせい)である。

とはいえ、そのような現状のただ追認するのであれば、それもまた「静かな全体主義」に対する従属に過ぎないだろう。諦観(ていかん)に身を委ねる余裕は、今の日本社会に残されていないように思われる。民主主義の立て直しのために、声を上げねばならない。「静か」になってはいけないのである。

7月に行われた参院選は、投票率が48.80%と、国民の2人に1人は投票に行っていないという残念な現状が突きつけられ、特に、若年層の低い投票率が目立った選挙となりました。記事中にもある通り、政治への不信感のあらわれ以上に、政治への「距離」を感じさせられます。この状況を乗り越えなければならないことを再認させられる記事でした。

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スピリチュアルにハマった友人との向き合い方

スピリチュアルにハマっていった友人とどうやって向き合ったか、赤裸々に語られる吉玉サキさんの記事です。とても読みやすく、色々と納得させられます。個人的に印象深かったのはこの言葉です。

自己啓発もスピリチュアルも、信者とアンチに二極化しがちだ。けれど、肯定か否定か、どちらかのスタンスを選ばなければいけないという決まりはない。人の思考は多くの場合、白か黒かの極端なものではなく、グレーゾーンで揺らぐものではないだろうか

自分が否定派か肯定派かを決める前に、まずは目の前の相手と対話をしたい。ハマっている人に対して、「目を覚ましなよ!」と注意喚起の否定をするのではなく、かと言って「あなたにそれが必要ならそれでいいんじゃない」と突き放した肯定をするのでもなく。

自己啓発やスピリチュアルにハマることにはリスクがあります。悪質なビジネスにも利用されています。いわゆる「カルト団体」もしばしば利用しています。

しかし、だからといってそうしたものを安易に否定することは、記事にあるように、相手の拠り所を奪ってしまう可能性がありますし、何より友人関係においての孤立を引き起こし、相手が自己啓発やスピリチュアルに対してより深くのめり込んでしまうことにもつながりかねません。

この記事を読みながら、知人をカルトから脱会させる時の注意点にも、すごく似ているなと思いました。吉玉さんが言うように「すべての人の声に耳を傾けることはできないけれど、少なくとも周りの大切な人の声は、遮さえぎらずに最後まで聞きたい。」という考え方こそが重要だと、改めて感じました。

なお、「カルト」についてはこんな記事も話題になったので合わせて。


「情」の時代とあいトリ

話題となった「あいちトリエンナーレ」における「表現の不自由展・その後」の展示中止問題について、政治学者の中島岳志さんの論考です。

芸術監督の津田大介さんは、今回のコンセプトである「情」を3つに分類しており、中島さんもそれを引用しながら、社会学者の宮台真司さんの論を重ね、今後の課題を読み解いています。

ここで参考になるのが、社会学者の宮台真司が近年主張している「感情の劣化」という問題である。「感情の劣化」とは「真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢」で、「最終的な目的」の達成ではなく、カタルシスを得ること自体が目的化してしまう

この「感情の劣化」を乗り越えるには「内から湧き上がる力」=「内発性」を呼び覚ますことが重要だと、宮台は言う。そして、内発性の喚起による「感染的模倣」(=ミメーシス)の輪を広げる必要性を説く。

津田が説く「情(3)」には、「内発性」が含まれるはずだ。そして、そこには宮台が「真理」を重視するように、宗教的な要素が含まれる。インドの独立運動の指導者ガンディーは、断食や無所有の姿を提示することで、人々の宗教的内発性を引き出し、暴力を超えようとした。

アートは、内発性を喚起することができるのか。敵対を超えた「情」を生み出すことができるのか。閉会までには、まだ時間がある。「情」の可能性を諦めてはならない。

なかなか漠然とした議論のようにも思われるため、やや分かりにくさもありますが、ここで引用される「感情の劣化」にまつわる宮台さんの論は、「表現の自由」とアートの問題を超え、幅広く現代社会に必要な観点であると思います。


「マニュアル化された民意」

「表現の不自由展・その後」についてもう一つ。電話で抗議を行った者へのNHKのインタビュー記事が非常に興味深いものでした。

記事の中では、16歳の少年と40代の男性が取材に答え、なぜ電話で抗議したかについて語ります。

16歳少年:
「ツイッターで、展示された写真などを見ました。天皇をコラージュした作品は、芸術と思えないし、少女像の展示は日本をおとしめるものだと思う。電凸は、相手も電話で受け取るので意見がすぐに伝わります。結構、影響力があるのではないかと思います
42歳男性:
展示内容に抗議しようと思い、連絡先を確認してから、1時間も迷っていました。それでも、電凸に踏み切ったきっかけは、県内に在住し、美容整形で有名な高須克弥院長のツイートだったといいます。「高須院長が結構、怒ってらっしゃったんです。税金使ってやるとは何事だと。僕は、あっそうか、こういう人が動いているし、自分も納得いかんから、初めて電話していいのかなと思いました

先の記事中では、16歳の少年に対して驚くような記述もありましたが、以前「ネトウヨ中学生」が少し話題になったこともあるように、むしろ若年層が情報を十分に精査できないままネトウヨになることは驚くことでもないと思います。

さて、今回もっとも注目したいのは社会学者の西田亮介さんが指摘した「マニュアル化された民意」という問題です。

「民意は、本来異なる意見と接触し、時には意見や立場を変えながら形成されるものです。しかし、マニュアル化された民意は、人々の自発的な創意工夫や思考を奪っていると考えることもできると思います。それに従い、あまり考えずに行動した帰結がこの抗議の数であり、ある種の意見表明だったことも忘れないほうがいいのではないでしょうか」

記事によれば、16歳少年は「民意だから(抗議は)問題ない」と主張しています。しかし、少年が見ていたネットの世界で見えるのは「民意」のたった一側面であることは間違いないと思います。そして、そこで形成されていたのは誰かの意見を盲信的に崇めただけの、空っぽの「民意」だったのではないかと思います。果たしてそれは、真の「民意」だったのでしょうか。

また、正義の行使だと信じていたとしても、そこで行われた攻撃的な言動、誹謗中傷、晒し上げのような行為は、許されるべきものではないと思います。ネットを使っていてマヒしがちな感覚ですが、その言葉の相手は生身の人間であるということを絶対に忘れてはならないと思います。

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お酒は善悪の判断基準を変えない

お酒を飲むとどういうことが起きるかという研究の記事です。

英ブラッドフォード大学の研究によれば、確かにアルコールは共感能力に影響し、他人の気持ちや反応に不適切な対応をさせてしまうかもしれないが、道徳観や善悪の判断まで変えてしまうとは限らないのだという。
飲む前も飲んだ後も、その人の道徳観は変わらない。酔っ払って他人の気持ちを理解しにくくなるかもしれないが、あなたはきちんとあなたなりの善悪を判断することができる

だから、酔っ払って大失敗をしてしまったときでも、お酒を言い訳にはできないということだ。

ある意味、普段は自制できているものが自制できなくなるのだという当たり前の研究結果のようにも思いますが、ポイントは道徳観や善悪の判断が変わらない、すなわちその行動は「本心」と言えてしまうところにあるのでしょう。


居場所の見つけ方

『居るのはつらいよ』という著作でも有名な、臨床心理士の東畑開人さんが「居場所」について論じた記事です。居場所とは何か、現代に生きる人びとが「居場所」に悩む背景にあるものは何か、そしてどうやって居場所を見つけるべきか。簡潔にまとまっている良記事です。

東畑さんは、居場所の見つけ方をこう述べています。

ポイントは、居場所を作ろうとしたのではなく、外からやってくるものを拒まずに受け入れたところです。結局、居場所を作るというのは、そういう感じなのかなと思うんです。それまで接点のなかった人や状況を、いかに受け入れるかという。

だから居場所がないと感じているのであれば、誘われたら「とりあえず行ってみる」ことではないでしょうか。人からの誘いや働きかけにホイホイ乗ってしまう受け身の力。多動力ならぬ「受動力」ですね(笑)

“傷つけない人間関係” が求められる現代社会において、「期待せず、頑張りもせず、とりあえず流されてみたほうが、かえって居場所にたどり着きやすい」というこの考え方は、たしかにリスクも感じられるし、難しさもあります。

ですが、逆にちょっと気楽になれるように感じる気もします。「居場所」探しに頑張る必要はなく、居場所になれそうなところに何となく参加してみる。案外、「居場所」づくりってそうしたことの繰り返しなのかもしれないなぁと思いました。


「エビデンス」の正しい使い方

臨床心理士の斎藤清二さんの記事です。「エビデンス」という言葉をめぐる斎藤先生のお話は、以前にもTwitterで読んだことがありましたが、今回のようにまとまった記事というのは非常にありがたいなと感じました。

エビデンスというのは、非常に扱いが難しいものです。EBP(Evidence Based Practice)という言葉ばかりが目立ってしまい、正しい意味が理解されていない現状があるような気もします。斎藤先生は医学における「エビデンス」を次のように述べています。

ここで重要なことは、医学におけるエビデンスは、EBMという方法論の中で利用される「確率論的な情報」だということである。どういうことだろうか。

EBMを学んでいる医師の多くが理解していることであるが、医療は不確実性と複雑性と個別性をその特徴としている。つまり、個々の患者さんに何が起こるかは一人ひとり異なるし、それは前もって確実には分からないし、何が起こったのかの説明さえも多くの場合ひとつには決まらない

EBMはそこに「確実なもの」をもちこむのではなく、あくまでも医療の不確実さにできる限り挑戦しようとするものである。EBMを理解しているものは、エビデンスによって医療の不確実性が一掃されるとは決して考えていない

(中略)

エビデンスで個人の意思を完全に決定することはできない。私たちにできることは「エビデンスを利用すること」だけである。「Evidence cannot make decisions, people do(エビデンスが決めるのではない。人々が決める)」は、医療における全く正しい言明である。

「エビデンス」とはいかに使われるべきか。わたしたちは「エビデンス」とどう向き合うべきか。簡潔な記述の中からはっきりと見えてくる良記事です。

少し話は逸れますが、こうした「エビデンス」との向き合い方に加えて知っておきたいのは、人間が「事実」を歪めて理解しようとしてしまう認知傾向です。あなたの「エビデンス」が歪んだ認知に基づいていないかについても、注意しておく必要があるでしょう。

「悲しいかな、事実や論理は人の意見を変える最強のツールではない」。そしてそうであるのに、事実ばかりで人を説得しようとすると、事実の影響力はさらに低下してしまう。


いじめ加害者を「登校禁止」にできるか

俳優の春名風花さんのツイートが話題を呼びました。その問題意識は非常に単純。「いじめる側が普通に学校に来られて、いじめられる方が『学校は来なくてもいいんだよ』って言われる状況はおかしくないか」ということです。

教育社会学者の内田良さんは、このツイートの内容を踏まえて教育学の視座から「出席停止」の議論を持ち込みました。

教育を受ける権利を重視するというならば、それはまずもって被害を受けた生徒の権利を保障しなければならない。だが、現実にはまったく逆の状況が起きている。

この議論における難しいポイントを三つだけ指摘しておきます。一つ目は「いじめ」認定を避ける事例が増えるという危惧です。「いじめ」というものをはっきり定義することは実に難しく、現実の線引きは難しいケースも少なくないものです。「加害者の出席停止」は、いじめ認定のハードルを上げることにもつながる可能性が高く、むしろいじめ対応としては望ましくないとも考えられます

二つ目は、流動的ないじめ関係をどう捉えるかです。絶対的な上下関係があるからいじめが起きているとは限らず、いじめる側といじめられる側は容易に入れ替わることが指摘されています。こうした場合にどうやって対応するべきかというのは、きわめて曖昧で難しい議論になると思われます。

三つ目は、そもそも「いじめ」は生徒個人の病理であるかという問題です。いじめをする子を取り巻く環境や、そもそも学校の環境自体が「いじめ」という行動を醸成しているという考え方もできます。たとえば、家庭でのトラブルによるストレスが原因で「いじめ」を起こしている場合、その子を学校に来させないことが「教育」と言う人はいないと思います。こうした観点からは「出席停止」処分は教育として不適切なものといえるでしょう。

ただし、先にも述べたように「被害を受けた生徒の権利を最優先に守るべき」ということもまた重要です。安易に「学校なんか行かなくてもいい」と発するのではなく、社会としていじめ被害者・いじめ加害者の権利を守るためにできることを考えていく必要性を感じます。


「愛国」とはなにか

歴史学者の将基面貴巳さんの論考です。真の「愛国」とは何かを歴史を紐解いて次のように指摘しています。

現代日本では、一般に「愛国者」を自認する人々とは、日本の文化や歴史を誇り、現政権を支持し「嫌韓」を叫ぶ体制派である。彼らは、〈ナショナリズム的パトリオティズム〉の信奉者たちである。

しかし、本来の「愛国心」とは政治権力の横暴から市民的自由と平等を守る〈共和主義的パトリオティズム〉である。〈共和主義的パトリオティズム〉は、自国を溺愛し、自国をひたすら誇りに思う自己礼讃とは無縁である。時の政府による権力行使が、市民的自由や平等を脅かしていないか、厳重に監視する態度にほかならない。

最近の日本社会では、政府がやることに対して反対することは「反日」であると見なしてくる人たちもいます。個人的には、日本のことを何も考えず、ただ時の政権に迎合して「日本バンザイ」と叫んでいる人たちが「愛国者」を自称することには非常に腹が立ちますが、そうした人たちの声がどんどん大きくなっている印象を受けるのもまた事実であり、なんだかなぁという想いです。

先日、週刊ポストが「韓国は要らない」という特集を組んで問題視された後、一部の論客が「流行語大賞となった『日本死ね』はヘイトでなく、『韓国は要らない』がヘイトというのはダブスタだ!」と盛んに主張していました。まさに、記事中の「ナショナリズム的パトリオティズム」の表れであると感じます。

また、日本において「共和主義的パトリオティズム」が根付かず、「ナショナリズム的パトリオティズム」が強い背景には、後者の方が思考活動として楽だからという理由もあるのかなとは思います。社会にもう少し「余裕」のようなものが出てくれば、少しは改善されるのかなぁ……とも思ったり。


韓国は「反日」ばかりなの?

日韓関係が悪化する中で、実際に韓国に行って取材をしてきた記者の方のルポです。ネット上では「韓国では反日運動が」という言葉ばかりが目立っていますがこの記事から見えてくることは、もっともっと複雑な状況でした。

そもそも、日本国内で「嫌韓」を叫んでいる人がすべてではないように、韓国でも「反日」を叫んでいる人がすべてではないことは予想がつきます。言い換えれば、安易に「韓国は危険」というような主語を拡大した言説をばらまくことがいかに意味のない行為であるかということを痛感させられます。

そしてもう一つ。

韓国の人々に話を聞いて感じたことは、多くの人が、年齢問わず、政治について自分なりの考えをしっかり持っているということだ。質問すれば、しっかりと答えが返ってきたことが印象的だった。

日本では、SNSなどのネット上では政治に関する意見が交わされていても、“オフライン”では身近な人たちと対話をするシーンはあまりないと、少なくとも私は感じている。

客観的な事実に基づき、きちんと自分の考えとして正々堂々と、もっと政治的な話をしても良いのではないかと思った。そうした政治的な会話に付きまとう「緊張感」も忘れずに。

この記事から見えたもう一つのテーマは、日本の「民主主義の成熟」についてです。本稿では、参院選の低投票率についての記事を紹介しましたが、そこで見えてきた「政治との距離」とは対照的な韓国の姿がこちらの記事からは見えてきます。

たとえ考え方が違っても、適度な「緊張感」を持ちながら意見を交わすことができる韓国と、異なる意見を持つ者には「反日」のレッテルを貼り、日常的にはほとんど政治の話はできない日本。今後、どういう国を目指していくべきか、他国から学んでみるのも良いのではないかなと思いました。

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仕事に行くために「覚せい剤」を使ったキャリア官僚のこと

久しぶりに読んでいて胸が痛くなる記事でした。覚せい剤取締法違反の罪で逮捕された経産省キャリア官僚の生活は、想像を絶していました。

なぜ、手を出したのかと聞かれると「酷いうつの中で、これ以上迷惑をかけられない。仕事に行きたいという気持ちが判断を狂わせてしまいました」と。「次に体調を崩したら長期休暇を取るしかないと思っていて、違う課に異動にすると言われていましたが自動車課でどうしても働き続けたいと思い、とにかく(仕事に)行かなければという思いでした」と。このような精神状態の中で違法薬物を使ったそうです。

この言葉を踏まえた、阿曽山大噴火さんの言葉も深く突き刺さります。

仕事優先という考えは共感できますが、ルールに反してまで仕事をするのもどうなのかと。自分を犠牲にしてまで働くという被告人のようなタイプの人たちによって各省庁も支えられているのかもしれません。私が夜遅くに霞が関を通った時、明かりが灯っている部屋がポツポツとあります。

覚せい剤を密輸までして使用し続けたことは動機がどうであっても許されることではありません。罪は罪として償うことが必要ですし、この方が治療を続け、回復・更生して社会復帰されることを強く祈ります。

ですが、日本型の劣悪な労働環境が責任感や義務感のあった若者の人生を変えてしまったのだとすれば、そこにメスを入れていかなければ同じことが再び起こってしまうのではないでしょうか。暗澹たる気持ちになる記事でした。


「日本型謝罪」のこと

反レイシズム情報センター(ARIC)代表である梁英聖さんの記事です。これまでも問題視されてきた、ちゃんと謝罪しない人たちのことを「日本型謝罪」という言葉を用いて次のように説明します。

日本型謝罪とは、その場しのぎのため、とりあえずアタマを下げて、世間が忘れるのを待つための謝罪、のことです。

公的に行われる際の欧米型の謝罪モデルでは、①事実を調査して、②その事実が人権規範や正義や法律に反していたと認められた場合、③それに対して謝罪(や損害賠償や処分)がなされ、④再発防止措置もとられます。正義に反していたことへの埋め合わせとして謝罪がなされるからです。

しかし日本で企業や役人や政治家が謝罪する時、これら4つの要素はないがしろにされることが圧倒的に多いのです。正義が軽んじられている日本では、謝罪はせいぜい世間を騒がせた(和を乱した)ことに対してしかなされないからです。

この記事で取り上げられている週刊ポストの特集だけでなく、最近とても多いと感じるのは「誤解を与える表現でした。」という言い回しです。個人的には、非常に不誠実かつ無責任であると強く感じています。

「誤解」というのは、その言葉の通り「まちがって解釈すること」を指します。たとえば、週刊ポストの謝罪では「誤解を広めかねず」という表現を用いていましたが、それはつまり「韓国は要らない」という言葉を字義どおりに受け取ることは「誤解」だと主張したいということなのでしょうか。

小学館ともあろう大手の出版社が、「韓国は要らない」という言葉や、当該記事を読んだときに、韓国に対するネガティブな感情を抱くことは「誤解」だと言っているのです。まったく意味がわかりません。だったら「韓国は要らない」という言葉は、いったい何を目的とした言葉だったのでしょうか。

これは、小学館だけの問題でも、いわゆる「ネトウヨ」だけの問題でもないと思います。ジャーナリストの安田浩一さんの「在特会などのわかりやすいレイシスト集団を必要としないほどに、日本社会の極右化が進んでいるようにも思えるのだ」という言葉が胸に深く突き刺さります。

ちなみに、小学館は未だ謝罪していませんし、記事の撤回すらしていません。つまり、小学館の考え方は「韓国は要らない」はヘイトではないということでしょう。(わたしは今後、小学館の本については一切買わないことに決めましたのであしからず。)

それはさておき、梁英聖さんのこの記事は、最近の新聞社・出版社、さらには政治家などの不誠実な「謝罪」の問題点を簡潔に解きほぐしている良記事だったと思います。あの「謝罪」への違和感を感じている人には必読の内容でした。

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「7分間の奇跡」

新幹線の整備スタッフの素早い仕事ぶりが「7分間の奇跡」として海外メディアなどで高く評価されている。でも、それを手放しには喜べないと述べるライターの川辺謙一さんの記事です。

記事によると、東京駅新幹線ホームでの「車両の整備」が最短7分で終わるのは、そうせざるを得ない必要に迫られた結果だといいます。そして、こうした「7分間の奇跡」は、日本人の勤勉さという面では良いこととも言えるが、そうした「頑張り」に頼っている危うさ、そしてミスを誘発するリスクがあるのだと述べられています。

川辺さんのこんな言葉が印象的です。

以上述べた「誇れること」と「誇れないこと」は、互いに強く結びついている。そのため、「誇れること」だけを抜き出して語ると不自然になる。

ところが国内メディアの多くは、整備スタッフの働きぶりや、服装の珍しさをわかりやすく伝えようとするあまり、「世界が驚く神業」「清掃員のおもてなしの心」などと、安易に日本人の優位性と結びつけて紹介する傾向がある。

もちろん、メディアで紹介されることによって整備スタッフの士気が上がるならばよいが、メディアが「誇れること」だけを過度に強調して持ち上げるのは避けるべきであろう。そう伝えることが、人々が抱くイメージと現実が乖離する原因になるからだ。

これは、「7分間の奇跡」以外にも広く通じることだと思います。つまり、誇れることの裏には、誇れないことがあり、どちらかを強調するのは非常に不健全であるということです。近年の「日本スゴイ」の風潮は、社会に潜む問題点を隠してしまい、人びとの苦しみを増大させている可能性があります。現実に向き合うとはどういうことなのか、改めて考えさせられます。


「貧困」の再発見

「貧困」というトピックについて、大西連さんと望月優大さんの対談記事です。いろいろな示唆に富む良記事だと思います。注目した記述をいくつか引用しておきます。

大西:
誰でも貧困になるリスク」は現在のほうが、よりリアリティを持って感じることができます。そしてその困難は、とても見えにくくもなっている印象です。なぜならば、「野宿者」などといった、わかりやすい「かたち」ではなく、「ネットカフェ難民」などの一見、住まいがないことがわかりにくい「かたち」が増加していることが知られてきました。

また、「野宿」でも「ネットカフェ難民」でもない、働いているんだけれど給料が低くて生活がやっとだとか、病気になって仕事を辞めて収入がなくなったとか、低所得の人たちの存在も身近に感じる機会が増えていると思います。まさに「普通」の人が貧困になっているとも言えます。
大西:
僕としては正直、この議論は堂々巡りな感じがしていて、もっとシンプルに「お金」の話をすることが大事だと思っているんです。貧困って、シンプルに「まずお金がない」ということですから。根本にある問題を、突き詰めて考えないといけないと思う。

でも、今議論されているのは、ソフト面や対人援助のこと。これって、言ってしまえばパターナリズムなんですが、それって支援者側がちょっと気持ちいいじゃないですか。そこに危機感があるんですよね。

支援者側の人が、頼られるとうれしいとか、ありがとうと言われるためにやっているとか、その人が笑顔になるのが幸せ、とか言っているインタビューなどを見ると、がっかりします。

ある課題を抱えている人がいたとして、その人を支援者が望む(社会の在り方として望む)形での課題解決に向かわせることは、一見、正しいようで、支援と引き換えに「特定の在り方を強制させる」ことでもあります。

(中略)

ここに違和感を持つ業界(福祉関係)の人ってすごく少なくて、そこが当事者のための支援になりきれていない点なんだと思う。支援は広まっているし、担い手も増えているんだけれど、究極的に言うと、おっしゃる通り「優しいパターナル」なんですよ。

貧困の実態について取材を続けてきた大西さんが強調していたのは「貧困」を考える上で「優しいパターナリズム」的な発想ばかりで議論が進み、当事者のための支援になりきれていない上に、本質的な「お金」の問題が矮小化されているのではないかという危惧です。

望月:
そもそも「どういう社会を目指すのか」というビジョンを描くこと自体が、今はとても難しくなっていると思います。移民・外国人の領域でも、どこでもとにかく地域の現場が大変で、足りないリソースをなんとかやりくりしてできるだけ効率的に解を出していくという必要に迫られている印象です。

その中で丁寧に、良心的にやっている方々には本当に頭が下がるのですが、そこにお金が回っていないのも、つまるところ国や社会としてのビジョンが欠落しているからだと思っています。結果として、支援される側だけでなく支援する側も含めてお金がないという状態に陥ってしまっている。

それに、一つのものに依存していると、従属することになってしまうから、依存先が分散できて、バランスが取れるようになればいいと思う。

(中略)

今こそ大きなビジョンとして「一人ひとりのリスクを下げる社会」ということが大事だと思うんです。福祉国家、つまりウェルフェア・ステイトという理念があるじゃないですか。英語の「ウェルフェア」は「福祉」と訳されますが、言葉の意味としては「いい感じになんとかやっていく」ということなんですよね。

生まれの差があっても、人生の場面場面で交渉力になるような力をそれぞれにできるだけ万遍なく与えるような社会をつくれないか。今の社会では生きていく上でのリスクが高まっていて「いい感じになんとかやっていく」ことがどんどん難しくなっているように思う。そういう社会を次の世代に残したくはないです。
自分は移民や外国人という分野について学んでいて、『ふたつの日本』はその結果のレポートなんだけど、ほかの分野でも必要だと思う。社会に対してお金を払うことの意味や大切さを理解するために、こういう学びのプロセスが多かれ少なかれ必要なんだと思います。

一億人規模の途方もなく巨大なコミュニティに自分のお金を入れていくということを直感的に納得しようと思ったら、何も考えずに「ニッポン大好き」にでもならないと無理じゃない? でも、少しずつ知識を身につけながら自分が払っているお金について考えていくという道もあるはずです。こっちの方が難しいのは間違いないんですが、そう思ってもらえるような文章を書いていけたら良いなと思います。

移民の実態についての取材を重ねてきた望月さんは、社会がビジョンを描くことの重要性、そして社会福祉の実態を「学ぶ」ことの重要性を指摘しています。これも非常に大切な指摘であると感じました。


事故を減らすための「環境」づくり

横断歩道をわざと「12度」にして引くことで事故防止につながったのではないかという記事です。

既存の横断歩道から改修した26か所の交差点について、設置前後1年間の事故件数を調査したところ、設置前の合計17件が、8件に減少しました。ただし、対象交差点のほとんどで道路標示の補修や信号機のLED化なども行われており、それらも交通事故が減少した要因と考えられます。

その他の対応もなされていたため、この結果が直接的に横断歩道の効果であるかは検証できていないようですが、先行調査の結果も合わせれば、効果があったのではないかと推論することは可能だと思います。

個人的に「もともと横断歩道の設置角度に着目したのは、様々な横断歩道を見ていたある職員です。」という記述におもしろさを感じました。日常の中での気づきから仮説が生まれ、そして人命を救う技術となる。科学や工学の奥深さを感じられる記事だと思います。

先日起きた、京急線とトラックの凄惨な事故。それについても、トラックならではの道路における問題があったのではないかという指摘がなされていました。今後の検証が待たれますが、事故防止のための「物理的な」対策が進むことに期待したいものです。


香港ルポから見える“複雑な”背景

香港で起こった大規模デモを追ったルポ。これまでの多くのメディアが取り上げてきたものとは異なる「真実」をライターの安田峰俊さんが描いています。

騒動が一定の節目を迎えたことで、現地で見聞した不都合な事実――。すなわちデモ隊にとって都合の悪い情報についても、あえて伝えるべきだと考えて今回の記事を書くことにした。以下で詳しく書くように、デモ参加者の一部はかなり暴力的な行動にはしっており、さらに従来我々に伝えられてきたデモ報道は(欧米メディアの情報も含めて)あまり客観的ではない。

安田さんが描いたのは、暴徒化したデモの実態と、そこでマスメディアが何を撮っていたかという「真実」です。特に、印象的だったのは暴徒化したデモではなく、マスメディアのあり方について述べた一節です。

特に8月以降の香港デモは、すでに逃亡犯条例改正案の撤回問題はもちろん、香港人自身の権利要求の場としての意味付けすら徐々に薄れはじめている。替わって顔をのぞかせているのは、米・英・欧の西側自由主義陣営と、香港政府の裏側にいる北京の中国政府とが、お互いに事実の隠蔽と印象操作を繰り返しながらメディアを使って殴り合う熾烈なプロパガンダ・ウォーだ。

いまや香港のデモ隊と警官隊は、西側自由主義陣営と専制中国による21世紀型の代理戦争の兵士に変わっている。もっとも、香港のデモ隊は欧米勢力の単なる駒には甘んじていない。むしろ、彼ら自身がかなり積極的にプロパガンダを駆使して情報戦を戦い、欧米と中国の双方を翻弄している感すらある。

今回の香港デモについて、(わたしも含めた)多くの人びとはネットやマスメディアを通してその実態を把握していきました。しかし、この記事が改めて示しているのは、そうした情報には一種の「歪み」があり、ある「ストーリー」を見せられているという側面があるということです。

香港デモを民主化のための大義のデモと理解することは当然できますが、それも一つの見方にすぎず、見る角度を変えればまったく違う世界が見えてくるのかもしれません。「プロパガンダ・ウォー」と向き合う難しさを痛感します。


元犯罪者を社会はどう受け入れるか

「チャラい」けど「根はいいヤツ」として、人気を集めていたお笑い芸人のEXIT 兼近に過去の犯罪歴があったことを週刊文春が報じました。記事の見出しは「吉本芸人EXIT兼近は少女売春あっせんで逮捕されていた」と、穏やか?なようにも思いましたが、ネット上でも賛否両論が巻き起こっています。

ジャーナリストの佐々木俊尚さんはこの件について次のようにコメントしていました。

「法的制裁が終わった話を蒸し返すのは倫理的にどうなのかという問題があるが、過去に起きた事実を書いてはいけないということはない。それは表現の自由だ。一方、編集部は批判が集まった後に出したコメントで言い訳をしているが、『文春オンライン』に掲載された記事を見てみると、"吉本芸人EXIT兼近が少女売春あっせんで逮捕されていた"という見出しになっていた。そうではなく、"実はこんなことがあったが、ここまで更生して素晴らしい有名な芸人になれてよかったよね"というものにすれば何も問題はなかったのではないか。例えば『婦人公論』では、本人の納得の上で"私は、実は過去にこういうことがあって、ここまで立ち直った"というような形で女性を取り上げているが、読者は悪いイメージを持つことなく、"良かったね"と感じている。逆に5年前のツイートをほじくり出して、どういう文脈で語ったことなのかを引き剥がして批判するということも行われている。つまり、事実にまつわるコンテキストや、それをどういう形で報じるかの問題だと思う」

あいトリの件でホットとなった「表現の自由」という観点からは、文春の報道を制限するのは望ましくないと考えられます。一方で、吉本興業が主張するように、「未成年時の前科に係る事実を、その事件から長期間経過した後に、正当な理由なく軽々に実名で報道することが許されるとすれば、未成年の者についてその後の更生の機会を奪ってしまうことになりかねず、社会全体として非常に危惧すべき問題である」ことも真ではないかと感じます。

また、今回の件は「社会は元犯罪者を受け入れられるか」という問題ともつながると思います。今回の件で「犯罪者は要らない」というような過激な言論もみられますが、犯罪者を社会から隔離しようとすることは再犯率を下げることにはつながらないことははっきりしており、社会の安全・安心のためには更生や治療を重視することが必要と考えられます。

今回の件においても、佐々木さんの指摘する通り、EXIT兼近の「更生」という文脈で語った方が、犯罪の抑止という観点から考えても望ましかったのではないかなと感じます。犯罪からの更生といえば、薬物問題で逮捕された清原和博さんの報道も思い出されます。犯罪者をモンスター視せずに、前向きな姿勢を追いかけるような報道が増えたら良いのにと思います。

また、先日Twitter上で、免許をとって中古車を買った女子高生に対して、悪質なリプライを送ったり、本人を特定しようとする人たちが現れ、アカウント削除にまで進むという事例がありました。「他人の幸せ」を他者が勝手な論理で侵害するというひどい話でしたが、今回のEXITの件でも似たようなものを感じたことは事実です。

他人の幸せを喜べない。そんな社会を脱却するために、いったい何ができるのでしょうか。


移民は何を思う。アンケート調査から見えたもの。

日本にやってきた技能実習生たちの声が集まった記事です。法学者の斉藤善久さんは次のように指摘します。

「日本は賃金がよくて、高度な技術があるから来るんだろうと思っている人がいるけれど、実際はそうでもなくて、賃金だけ見たら最低賃金1千円の韓国の方がいい。中国やベトナムには日本を超える最先端の技術もたくさんあるし、技能実習生が日本でまかされるものはそもそも最先端の仕事ではない。ただ、それでも来るというのは、日本人は『礼儀正しくて親切で勤勉で、ルールを守る』、そんな日本人と一緒に生活して、一緒に働きながら、言葉や生活とか、ものの考え方を学べたら成長できるだろうなあ、楽しいだろうなあと思って、若者たちは日本に来る。それが日本の中で、よりによって差別したり粗野だったりする割と最悪な人たちに会っちゃうという悲劇が起きているのです」
「ベトナム自身が急速に経済発展していたり、また給与では他国の方が最低賃金が高いなど、競争は激しくなっていて、日本は出稼ぎ先として魅力的な国ではなくなりつつある。それなのに、受け入れる日本側では、依然としてベトナム人労働者は『貧しいから来日する人たち』と見下し、会話や交流もせず、差別的な態度を取る。借金や、転職の難しさにつけ込み、労働法規などにも違反するような労働条件のもとで働かせている。日本人自身が、海外・発展途上国の人々から見た場合の日本の価値に気づかず、むしろその価値を貶めるような行為をしていると言わざるを得ません。

もちろん、日本での立場(在留資格)や『実習』先の当たり外れなどによって、それぞれが置かれている状況は大きく異なるので、日本での生活や労働条件に満足している人々も一定数存在します。でも一方で、私たちがこれまで培ってきた、社会的・文化的な美徳への信頼という『日本ブランド』が、外国人材ビジネスや、外国人労働者を不当に働かせる、一部の日本人によって利用され、毀損されていることに気づいて、改善していかなければいけません」

アンケートから見えてきたこと。それは「日本」という国の良さを信じて来日してきた外国人労働者を見下し、差別し、不当に働かせ、絶望させ、日本人の手で日本の信頼を奪っているという現実ではないかというのです。

「信頼」というものは、築き上げるのにはものすごい時間がかかりますが、崩れるのはあっという間です。ここでインタビューに答えてくださった外国人の方はおそらく日本に完全に失望したわけではなく、これから改善することを信じてくださっているのではないかと思います。

しかし、当の日本人はどうでしょうか。韓国への差別的な言葉を発することばかりに躍起になり、日本国内で起こっている現実には目を向けようともしないわけです。これが「美しい国」なのでしょうか。まもなく、外国人労働者は激減し、日本産業が崩壊してしまう未来がなんとなく見えるような気がします。


生涯学習社会と「学び足し」

ジャーナリストの井戸まさえさんの記事。母校の女子大に「大学院生」として再入学したというお話。自分がどうやって入学に至ったか、制度のことなども交えながら述べられており、他の人にもチャレンジしてほしいのだろうなという気持ちが感じられる。

日本の知的地盤を上げていくためにも、実は社会人を経験した人々を大学院に引き込むことは大事なのではないかと思う。

個人の切実な課題に直面するとその根源が何かを「もっと知りたい」と思う。「勉強したい」

先般、大学院で学ぶ50代以上の学生たちの論文の骨子発表を聞く機会があったが、つくづく思ったのは、日本は「たいそうもったいないことをした」ということだ。

30年、40年前は「女はそこそこ賢ければ良い。かわいいほうが得」と言ったプレッシャーが今よりずっと強く、当事者たちもそれに対して疑問を持ったとしても抵抗する術を十分に持たず、社会に出、結婚し、子育てをした。それ以外のライフコースを選択すると窮屈な思いをすることが多かった。多くは、意識することなく知らず知らずのうちにジェンダーの呪縛にかかっていたといことだと思う。

彼女たちが大学卒業時にもし大学院進学という選択をしたならば、研究職として今ごろもっと社会に資する論文がバンバン出ていたかしれない。学部を卒業する際に少なくとも積極的な選択肢として「学び続けること」ができたなら社会の性別による不均衡は少なくとも今より改善されていて、政治分野における女性の参画の低さをはじめ、もう少しは生きやすい社会だったに違いないと思う。

一方で、様々なキャリアを重ねたからこその今の、この研究発表ができているいうことも真実である。

「偏差値から解放」され、「真に学びたいことが見つかり」、「経験値が上がっているぶん理解力もある」(50代の大学院進学経験者)。20代でも、30代でも実現できない研究。「世の中の全貌が理解できるようになった」今だからわかる部分なのだ。勉強とは机の上だけでなく、個人の社会経験が加わるからこそ、そこに深みが出て独自の視点が生まれる。それが大学教授や研究者という立場でなくても、社会に還元できる場は無数にある。

長々と引用しましたが、このメッセージの中には「生涯学習」を考える上で必要な視点が含まれていると感じました。

大学という機関がどうあるべきかという議論は難しいものです。しかし、「生涯学習社会」を考えるならば、大学教授や研究者になるためではなくても良い、「学びたい時に、学べる」「研究したい時に、研究できる」という環境を整えること、そうした役割を大学が担うべきではないかと思いました。

先日、ロンドンブーツ1号2号の田村淳が慶應義塾大学の大学院に通っていたことが判明して、ネット上で「大学の地位を下げる」というようなコメントもみられました。しかし、わたしは学びたい人が学べるというのはまったく悪いことではないと思います。

一方、社会人になって大学に通えるような人というのは恵まれている人に限るという意見もあります。そういう意味で「不平等」があることは事実でしょう。ですが、それは「社会人だから大学に通ってはならない」という話ではなく、通えない人が通えるようにするという是正が必要という話だと思います。

いろいろと難しさはありますが「社会人が『学び足し』をできる」という社会を考えていく上で、この記事は一つのロールモデルになる印象を受けました。


世論調査は「民意」を反映しているか

政治学者の菅原琢さんの論考です。元記事は5月頃に公開された毎日新聞の記事となります。世論調査の「歪み」を丁寧に解きほぐした良記事です。

 忘れたり、勘違いしたり、うそをついたりと、このような回答者の回答傾向はさまざまに説明されるだろう。確かなのは世論調査に限らずどのような調査でもその回答は安定しないことがよくあるということである。何せ、われわれのようないいかげんな人間が回答するのだから当然である。世論調査に限らず、アンケート調査とはそういうものだという認識は、世論調査から世論、集計結果から人々の意識や行動を理解していく際に前提として念頭に置くべきことである。

 しかしそうであっても、投票者の意見ばかりが反映される調査結果のみを「世論」として認識し、消費するよりも、こうして棄権者、政治低関心層を多く含んだ形の数字も見たほうが、現代日本の政治と社会の関係を理解する方法としてより健全である。特に、政治家や政治部の新聞記者のような政界にどっぷり漬かった人々は、政界から遠い一般の人々が見えず、意識できずに議論をしてしまう傾向があるように思えるからだ。

 そしてだからこそ、有権者全体の意見を表出させることが期待される世論調査には、政治から遠ざかる人々をもっと尊重してほしいと筆者は考えている。たとえそれが、「答えない/わからない」であったり、ころころ変わるいいかげんな回答であったりしてもだ。いいかげんさや政治への無関心も含め、それが現代のわれわれの世論なのだから

菅原さんの主張はきわめてシンプルで、現在の世論調査では、投票に行かないような「無関心層」を捉えきれていないというのです。この記事が対象としているのは、4月に行われた統一地方選ですが、過去最低の投票率となった自治体も多く、市長選の投票率が50%にも満たなかった自治体も多くありました。

むしろ、現在は「無関心」「わからない」といった声のほうがマジョリティの「民意」とすら言えるかもしれない状況です。民主主義国家においてまったく健全とは言えないわけですが、そうした「民意」も丁寧に拾い上げなければ、現在離れている有権者はさらに離れていくばかりではないでしょうか。

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