今週のまとめ【19.04.14〜19.04.20】
今週読んだ記事は「移民」に関する話題と「差別」に関する話題が多かったように思います。特にALS患者に対する「時間稼ぎですか?」発言はかなりショッキングでした。また、特定技能の外国人労働者が福島第一原発での仕事に雇用されるという話題も、日本の「病理」を映し出していると思いました。
権限を持つとイライラする
これはおもしろい記事でした。大学生くらいでも、部活動やサークルをはじめ「リーダー」になり、それなりの権限を有することはあります。自分もそうでした。権限は良く使うことも悪く使うこともできる。何となく感じていた価値観が言語化されてスッキリとしたような気がします。
「統計」を使った揚げ足取り
話題となった東京大学入学式での上野千鶴子氏のスピーチに「統計的に」反論しようとした意見。ただ、結論(上野氏のスピーチはおかしい)を先行して考えただろうなというのがはっきりと見えています。「揚げ足取り」は決して「批判的思考」になり得ません。記事中での「統計」の使い方がどのように間違っているか考えるのも一つ勉強になりました(皮肉ですが)。
ノブリス・オブリージュと教育
ノブリス・オブリージュとは「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。」のことです。そして、平等主義的な教育・反競争主義的な教育が、むしろ競争を激化させ、所得の再分配や助け合いの必要性への認識を下げているのではないかという指摘がされているブログです。「隠れたカリキュラム」のように、非意図的に学ばせてしまう価値観には注意が必要だと痛感させられます。
この「ノブリス・オブリージュ」の話が盛んとなるきっかけになった上野千鶴子氏の東京大学入学式での祝辞については、このような記事もありました。
ノブリス・オブリージュが現代社会において主張されることの意義を指摘しながらも、上野氏の主張にある「ジェンダー」の価値観について疑問を呈しています。女性にも強者・弱者はいるし、男性にも強者・弱者がいます。上野氏の語りは非常に単純構造化されていたような印象はたしかに否めませんでした。また、記事中で指摘される「小さなノーサンキュー」――あなたにはきっと、もっとあなたにふさわしい相手がいるよ/場所があるよ(でもそれは私ではないしここではないから、こっちに近づかないでほしい)――、すなわち「やさしさを持った疎外」との向き合い方が問われているという指摘は胸にとどめておきたいと思いました。
移民・難民の問題をめぐって
冒頭でも紹介した福島廃炉に関するニュースの他にも移民・難民の問題について、今週は多くの記事が出ていました。特に印象的だったのは、外国人在留制度は「人権」よりも上位に位置しているという山口氏の指摘でした。ここまで露骨な「差別国家」だったとは……という気持ちになります。そして「移民」という枠で捉えず、私たちも含めた労働者全体の問題として向き合っていくことの重要性を再確認しました。
他人の幸せと自分の不幸
おかわりをした人が得をしているだけなのに、おかわりをしていない自分が損をしていると考えるという、ある意味非常に日本人らしい発想ではありますが、こうして具体例を突きつけられるとなんとも世知辛いもの。他人の幸福を自分の不幸と考える思い違いは平成のうちに克服しておきたいものですが…。
本来、「他人の得」と「自分の損」はそのままイコールにはなりません。今回の件でも、あえて損をするといえばお店側であって、おかわりをしない人にとっては「損」でもないので「不公平」でもないはずですが……おそらく、他人だけが「得をする」という状況が不平等感を生むのでしょう。ですが、その「得をする権利」は全員に同じように与えられており、その権利を行使していないだけなのに不平等と騒ぐのはいかがなものかとも思います。これにまつわる心理学の研究とかもありそうだなと思いました。
「時間稼ぎ」発言からみえた社会の陥穽
この話題については、2日間に分けてnoteに書かせていただきました。よろしければお読みください。市長からの謝罪に対しても一部批判がありますが、本人が受け入れている以上、これ以上個別の事例として外野が騒ぎ立てるのは違うかなと思っています。
子どもに選挙権がないのはなぜ?
「多くのおとなが十分な情報もないまま選挙に行ったり、政治的無関心から選挙にまったく関与しなかったりする。少なからぬ人が、政治的判断力とはまったく関係のない宣伝、空虚な公約、その他の要因に影響される」
「考えが揺れ動く人もいれば日和見する人もいる。多くの有権者が、議会制民主主義の複雑な事情を深く理解しておらず、自分の決定がどのような結果を生むかについてたいして考えていないのはないか、と懸念される」
「子どもはどうして選挙権を持っていないのか」という問題提起から、以下の論文にたどり着き、選挙をめぐる「大人の」課題にまで話が発展するというとても興味深い記事でした。
まぁ、言語等の発達の観点も踏まえれば未就学児には厳しいものがあるでしょうし、みんな著者(治部れんげ氏)の子どものような意見をはっきりと持てる子どもとは思えませんし、絶対に引き下げた方がいいとはさすがに言いがたいのですが、一つの問題提起としては面白かったなと思います。
「メディア・リテラシー」を問う
ジャーナリストの佐々木俊尚氏の論考です。フェイクニュースが蔓延する中で、そもそも中身が複雑化していること、更に「正しいと言っている人たちの間で小さな島宇宙を形成して、他の人の言うことを聞かなくなる、いわゆるカルト化みたいな現象」が起こっていることを指摘しています。さらに、いわゆる新聞・テレビ世代とネット世代の感覚の違いを主張します。「シルバー民主主義」についての指摘も、興味深いものです。
まぁ、中立的な立場で議論をすることは難しいと思います。むしろ、何かしらの方向にある程度は寄っているくらいが正常ではないかと。しかし、その上で「異なる意見・価値観」を認められるかが大事になってくると思います。「石を投げ合う」よりも「歩み寄り」と佐々木氏は主張しますが、私としては「石のキャッチボール」くらいで良いかなと思います。投げられた石をキャッチするのが重要です。なんでも「寄り添う」を基本にしてしまうのは、割と現実に即しておらず、「権力者側への寄り添い」の強制にもつながりかねないと思う部分はあります。
差別や人権軽視が蔓延する社会
外国人の受け入れ拡大の裏では、このような差別が根強く残っています。後者の百田氏のように排他的な価値観を前面に押し出していく人もいますが、前者のように中国人や韓国人に対して差別をする人は社会全体にみられますし、「日本語以外使用禁止」や「外国人というだけで採用なし」など、差別意識をむき出しにしているというよりも、企業的な論理を盾にした差別?と言えると思います。百田氏のような差別もどうかとは思いますが、前者のような「差別意識の弱い」差別にも注意する必要はありそうです。また、日本国内でも人権軽視というべき事例がいくつかあります。
これもまた、非常に不愉快な一件です。人権を奪われかけているのは、外国人だけではないということもはっきり書いておきたいと思います。
喫煙者拒否は差別になるか
「差別」というのは非常に難しい話です。人によって捉え方も異なるものです。よく用いられている定義からは漏れてしまう「差別」もこの社会にはたくさんあると思います。ただ、喫煙者だからという理由で「不当に」権利を侵害されているという意味では、この件も差別と考えるべきではないかなと考えています。ただ、喫煙に関しては「受動喫煙」の問題も大きくあるため、一概に喫煙者の権利をすべて守るべきだとも言えないのが難しいところです。
なお、今回の件については、喫煙者を教職員として採用しても、受動喫煙対策を行うことは可能であるという点で「不当」と判断しました。
「いじめ」問題の根深さ
「いじめ」が、PTSDにつながり「過去のいじめ」にいじめられ続けたのだろうと思います。転校後にどれほどの心理支援を受けることができたのでしょうか。そして、いじめを見過ごした「教師」の問題もあります。はっきりと書けば、教員のほとんどが「いじめはダメ」くらい知っていても、具体的な対処方法を知らないことは少なくないですし、何より自らの差別的発言に対して無自覚な場合もあります。さらに、自分に対して反論してくる生徒のことをよく思わないケースもあるでしょう。教師もまた「権限」を持った存在なのです。さらには「いじめゼロ」なんて掲げれば「俺のクラスにいじめなんてするやつはいない」発言をする教師も増えるでしょう。教育社会学者の北澤毅の言葉を借りれば、教師はいじめの「発見者」ではなく「定義者」なのです。
簡単にこうした問題の解決策を示すことができないのがもどかしいですが、まずはつらい現実と向き合うことからはじめようと思います。
日本スゴイ!を欲する社会
「私は国際共同研究に関して質問があります。今回の成果が突出した共同研究であることは理解しております。それぞれの国、特に日本がどんな貢献をしたのかについてお聞かせください」
NHKの記者の質問が失笑を買ったという話です。「日本スゴイ!」という言葉が欲しかったのかと思います。しかし、NHKを責めれば済むような問題ではないと感じます。
正直なところ、NHKの記者がこうした質問をした背景が「NHK」だけにあるとは思えません。日本社会側の要請という面もしっかり意識しておく必要があると思います。
「性的同意」をめぐって
真の「性的同意」について述べられたお話。性的関係においてのみならず、「同意」という概念について、広く通じると感じました。スウェーデンの例も紹介されていますが、このような事例は積極的に海外から学ぶことも大切になると思います。
「心の専門家」による分析の問題点
世の中は、様々な事件について「わかりやすい」説明を求めます。その中で「心理状態」が問われることは少なくありません。心理学を専攻する者の一人としてはっきりと意識しておきたい話です。
ピエール瀧さんの件についてコメントを寄せた臨床心理士の方は、自身のブログの中で次のようなコメントを載せているそうです。
「社会が心理学用語で事件解説を求めていることは確かなのだ。つまり需要がある。精神医学・心理学用語を使ってもっともらしい作文を1つ作れば、世間はそれで何かが『わかった』ような気がして、安心する。時代は、出来事を何でもかんでも『心理的な出来事』として位置付けることを求めている。コメンテーターの仕事は、社会を『わかったつもり』にさせて、出来事を整理済の棚の中に放り込むことにすぎない。それ以上の意義が無い事はわかっていながら、お金がないので仕事を選ぶことができない。テレビコメントの依頼が来たら、断らない」
「お金がない」という問題は確かに切実なものですが、それでも専門家としてこうした発言をすることの問題は大きいでしょう。そもそも、こうした事象は「心理」のみの問題ではありません。問題を「心」に帰着させることは一種の「自己責任論」です。薬物を防止する効果も持ちませんし、せいぜい「あぁ、自分はピエール瀧とは違う!」という安心感を生むくらいでしょう。それが良いものかについては考えものですが。
さらに、彼らが読みとく「深層心理」なるものは、はっきりと言えば世間に流布する「エセ心理学」と大差がありません。ほとんどが、専門用語を交えた「それっぽいこと」に過ぎないのです。「心理学」という学問に対する誠実な態度とは言えないでしょう。
そして、そうした「心理」からの解釈を求めてしまうメディアや社会の側も変わらなくてはならないでしょう。せっかくなので、「にわか専門家」を批判した犯罪心理学者の原田隆之氏の記事を紹介しておきます。
メタ認知と成績上昇
学習方略の研究でも「メタ認知」は多く研究されており、今回の結果に大きく驚くということはありませんでしたが、大規模な縦断データでの研究はベネッセならではだなと思います。しかし、吉田・村山(2013)が指摘するように、有効と考えられている方略を必ずしも生徒は使ってくれないという課題もあります。どうやってやらせるかについては、説得的コミュニケーションなども関係してきそうですね。
人助けとお金をめぐって
社会心理学の研究です。ほんの少しの心理的介入だけでも平等主義的な価値観を取り戻すことができるという結果には驚かされます。「性善説」的な人間観だと思いました。お金を持つと傲慢になるというのは「権限」の話とも似ているなと思いました。
教育現場での「対話」
障害児教育を専門とされている大久保賢一先生が、自らの子に対する「体罰」に対してどのように対処したかをツイートした一件。これが一部の教員(を名乗る)アカウントから批判されたという珍しい話でした。個人的には非常に良い対応だったと思うので、批判があったのは意外でした。参考になったので記録しておきます。
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