かさぶた・生活の延長線上にある死

恋人と別れて3ヶ月も経つと、もう恋人がいたときの感じを忘れてしまう。
父が亡くなって3年も経つと、父がいたときの感じを忘れてしまう。
人間とは薄情というか忘れっぽいというか。
でもそれは生きていくために必要な薄情さだと思う。血がどくどくと流れる湿った傷はいずれ乾きかさぶたになる。

そろそろ自分の映画の企画を考えたいなと思っている。最近ビクトル・エリセのエル・スールとコゴナダのアフターヤンという映画を観た。
どちらも、もうこの世にはいない人のまなざし、や記憶というモチーフが出てくる。
作中で誰かが亡くなる。自我が芽生えた後に身近な人が亡くなると、その後の人生でずっと「死」というものがついてまわる。身近な人の死を経験する前も、いつか自分は死ぬのだとわかってはいるが、あの死の手触り感、あまりにも当たり前に死が存在しているということをこの目の前で見せられると、すべての人は死に向かって歩いているのだという事実を受け入れざるを得なくなる。
だからなんなんだろう。
もしかしたらそれなのか?つくりたいものは死の手触り感、死は悲劇なのではなくて生活の延長線上にあるものだということをずっと言いたかったのか。企画探しは続く。

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