起こっているフリ・マックの紅茶・映画館

久しぶりにお母さんが子どもを叱っているのを間近で見た。子どもの頃、親に怒られるとこわくて悔しくてイライラして泣きたかった、そんな気持ちを思い出した。今ならこのお母さんはほんとうはそんなに怒っていなくてほとんどパフォーマンスなんだということがわかる。子どものため。子どもにそれはやっちゃダメなんだと身体で覚えさせるために怒っているフリをする。

ブンミおじさんの森、ながら見してたら全然わからなかった。映画は全身で観なくちゃいけない。構図とか空気感とか全体に漂うしっとりした雰囲気は好きだった。

マクドナルドでホットの紅茶を頼むと紙コップに入ったお湯とリプトンのティーバッグが渡される。果たして自分はこの120mlのお湯に120円を払っているのか、という気分になる。でもまあよく考えてみると普通の喫茶店ではお店の人が熱湯にティーバッグを入れてしばらく時間をおいたものが渡される。ただそれを自分でやるだけなのに、未完成なものに対価を払っているような感じがする。
なにかを消費するときに、対価を払うということもその消費の要素のひとつだよなと思う。映画を観るとき、1,300円だか1,500円だかを払ってチケットを買う。支払うことで初めて自分は今からこれを享受するのだ、という自覚が生まれる。

映画館で映画を観るようになって、一体映画館で映画を観るとはどういったことなんだろうと考えるようになった。
映画館で映画を観るのは家で観るのと全然違う。
まず、映画を観に行こう、と思う。映画がやっている時間に合わせて映画館に向かう。知らない人々と同じ空間で真っ黒なスクリーンを見つめる。
観終わって帰る。家で観るよりも、その映画とか変わっている時間が長い。
そしてそれは身体的である。映像や音が良いというのはあるけれど、身体的というのがいちばん大きい気がする。そして、映画館はそれがどんな駄作であったとしても大事に大事にパッケージに包んで、まるでクローシュの下にある鶏の丸焼きみたいに、お膳立てして観客に差し出す。


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