好きのメンテ、潮騒、現実とドラマ

"好き"もメンテが必要だと思う。ここ2週間くらい、忙しくて本や映画や音楽から隔たった生活をしていた。創作もあんまりできていなかった。そうなると、本を読んだり映画を観たりすることが好きだった感じを忘れてしまう。自分の中から色彩がなくなる感じ。
何かを好きでい続けるには、定期的にその何かに触れて、私はこれが好きなんだと思い続けなくてはいけない。

祈り終わると、すでに月に照らされている伊勢海を眺めて深呼吸をした。古代の神々のように、雲がいくつも海の上に泛んでいる。

若者は波を取り巻くこの豊穣な自然と、彼自身の無上の調和を感じた。彼の深く吸う息は、自然をつくりなす目に見えぬものの一部が、若者の体の深みにまで染み入るように思われ、彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと調べを合わせているように思われた。新治は日々の生活に、別に音楽を必要としなかったが、自然がそのまま音楽の必要を充たしていたからに相違ない。
三島由紀夫「潮騒」

潮騒の美しい部分が全部この文章に詰まっていると思う。人間と海。人間の中にも海があると、夜暗くなった部屋で波の音にも似た耳鳴りを聞いている時に思う。

実体験をそのままシナリオにしたら、この部分不自然じゃないか?普通この状況でこんな行動をしないのでは?という指摘をいくつかもらった。改めて、現実とドラマは似ているようで違うんだなと思う。現実の人間というのは適当で全部の行いに意味なんかなくて、脈絡もなくて、時々訳わからないことをやってしまう。ドラマは全ての行動にある程度の必然性がなくてはいけない。

ところで心をかき乱される出来事があると創作は捗る。

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