ひとつの可能性について(24/7/11)

生きて、やがて、死ぬ。
それまでの間をどう過ごすのか問い続けては、できることが増えて、できなくなることが増える。できているうちは「生きて」いて、ひとつふたつ、できなくなることが増える度に、この命は終わりに近づいていくのだと、そんな気がする。

文字を書く訓練を始めた。
スマホやキーボードをぱちぱちやっていると手書きの時に漢字が出てこなくなる、とかそういう意味ではなく、本当に、単純に、細かく手指を動かすという目的でやっている。
なんの因果か、僕の命はよほど死神(神様というものがあるのなら、ね)に好かれているらしく、放ったらかしでは五体が十全でいられないのだ。「できなくなること」が順番待ちをしてる。

昨年のアレ(本当にご心配おかけしました)の後、この身体に最も影響があったのは、手の動きだ。力の入れ加減が容易でなくなった。繊細な動きが容易でなくなった。それで、文字を書く訓練をし始めた。最初の2ヶ月は毎日、最近では数日に一度、大好きなあの人の詩を、物語を、ノートに写している。最初の頃は、なんというか"酷かった"。自然に書こうとすると、あまりにも力が入らない。文字はあまりにもか細く、指先は震えていて。抑え込むように力を入れると、紙はぼろぼろになり、ペン先は潰れ、手首が攣りそうになる。やっとのことで1行を書き写して、涙が溢れた。大好きな人の、大切な言葉なのに、こんなに醜い文字。こんなのでは、あの人にお手紙を書いてお渡しすることもできない。この手は"死んでしまった"。そう、思った。伝えたいことが伝わらない、そんな悲しいことを。

それでも、2ヶ月くらいでなんとか読めるよう文字が書けるようになった。歌詞をひとつ書き写すのに休みながらで数時間かかるけれど、悲しくなるような文字じゃなくなった。
それから、たびたび書いてお渡ししたお手紙。大切にしてくださっていると聞いて、とても幸せ。まだ、伝えたいことがたくさんあって、これからも増えていくことだろう。この手がもう少し、言葉の力を借りることができますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?