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【遺族厚生年金改正案】福祉制度の弊害を見た

先日、遺族厚生年金の制度改正がニュースになった。

こちらのニュースの反応を見て、ああ、やっぱり国民の意識っていうのはこうなってしまうよな、と思った。

充実しすぎた福祉制度が、国民一人一人の自助努力の意欲を奪ってしまっているな、と。

その詳細は後に書くが、まずはこの改正への僕自身の感想から述べていきたい。


今回の改正は社会の流れからは必然

まず、この改正を見て、まあおおむねこの方向性だよね、というのが最初の感想で、意外性は全くなかった。

今の社会の流れに沿った改正だからだ。

現在の遺族厚生年金は、男女で明確に受給要件を分けているので、完全に時代錯誤な制度になっている。

現行制度は子どもがいない夫婦の場合、夫を亡くした妻は何歳であっても遺族厚生年金を受け取れる。妻が30歳未満の場合は5年間、30歳以上であれば原則として一生涯もらえる。一方、妻を亡くした夫は55歳未満であれば受け取れない。

上記日経記事より抜粋

まあ、世間の反応を見ても、今の制度に問題がある、という認識はマジョリティの中にあるようなので安心した。

では、どう制度を改正していくべきか、という話になったときにこれからの社会の大前提は以下の2点だ。

①子供の有無にかかわらず、女性も働く社会である

女性の社会進出が進み、男女ともに仕事をする、という方向に向かっているのは皆認めるところだろう。
産休、育休制度が充実し、子供を保育園に預けて両親ともに仕事する、というスタイルをとっている人がたくさんいる。
子どもを保育園に送っているパパも今たくさんいるもんね。
今の20代、30代においては、明らかに男側も育児、家事に参加する意識があるし、実際行動も付いてきているのではないかと思う。

せっかく社会がその流れで動き始めているのに、女性だけを家の中に誘導するような制度は、その「男女ともに働く」というスタイルへの意欲をそいでしまう。

だから、第3号被保険や配偶者控除の見直しも検討されているのだ。
遺族厚生年金の改正は、それ単体で動いているわけではないのである。

女性の社会進出は日本だけでなく、世界的な流れなので、これからもこの全体的な方向性は変わらないだろう。

②増加する高齢者を支え切れないので、生涯働くことが当たり前になる

今の年金制度、医療制度は、今の人口動態に合っていない。
本来は大量の若者が少数の高齢者を支えるという設計なので、その人口動態が急速に逆転している現在、今の社会福祉制度が、現状維持のまま成立するわけがない。

国の本音は、高齢者が働かなくなってから、何十年間も国が生活を支えるのは無理なので、生涯働くか、もしくは自分で資金を運用して老後資金対策をしておいてください(例:NISA)、というものだ。

資産運用だけでは足りない人が大半なので、生涯働くというのが今後当たり前になっていくだろう。

今の20代は、自分が老人になったときに、医療費自己負担1割とか、今のレベルの年金を受給できるとか、誰も期待していないと思う。

生涯仕事するというのが当たり前になるし、国もそれを奨励していくことは間違いない。
支えられる側ではなく、できるだけ支える側に回ってください、ということだ。

改正内容をシミュレーションしてみる

では、今の時代錯誤な遺族厚生年金をどう変えるのが妥当なのか、ということを場合分けをしながら見ていきたい。

まず、男女で受給要件を分けていることは明らかに問題なのだから、おおまかに解決策は以下の2つに絞られる。

①現在の男性側の受給要件に女性を寄せる
②現在の女性側の受給要件に男性を寄せる

もちろん完全に間を取る、というのも理屈してはありうるが、これだけ受給要件が男女で異なるので、どちら側に寄せるか、というのは明らかに出てくるだろう。

では①と②、どっちが社会にとって適切なのか、検証してみる。

①現在の男性側の受給要件に女性を寄せた場合

遺族年金、というのは基本的には、男一本で家計を支えている家庭において、旦那が亡くなったら妻(と子ども)の生活が成り立たなくなってしまう、というのを防ぐ目的で存在している。

では、先ほど述べた大前提の2点、女性の社会進出と生涯労働の2点を踏まえて、この遺族年金の仕組みを今後拡大させる方向にいくべきか、縮小させる方向に行くべきか、客観的に見てどちらが適切だろうか。

おそらくここまで読んでいただいた方は分かると思うが、遺族年金自体、縮小、廃止の流れにあることは間違いないだろう。
なぜかというと、現在の制度が時代の流れと逆行するものとなっているから。

なので、遺族年金の受給が少ない側(つまり働いている側)に基準を合わせるのが妥当という話になる。

②現在の女性側の受給要件に男性を寄せた場合

では、逆に女性側の受給要件に男を合わせればいいじゃないか、という意見もある。この方法でも確かに男女格差は是正される。

しかし、そもそも今の女性の受給要件は働かないことを前提したものなので、時代に逆行している。男女ともに「働かない」を基準にして、遺族年金を給付するのはどう考えてもおかしい。

なぜかというと制度が人の行動に影響を与えるので、こういった設計にしてしまうと、遺族年金があるから働かなくていーや、という人を生み出すことになり、本来は働ける国民を働かせない制度となってしまうからだ。

国からしたら、支える側を減らし、支えられる側を増やしていくような制度を進めていくはずがない。

この②の方法は、時代と逆行するという問題に加えてもう一つ重大な問題がある。

それは何かというと、財源どうすんの?という問題だ。

今現在、現役世代が、労使折半で給与の30%以上を天引きされている状態で、さらに社会保険料負担を上げていきますか?という話である。

社会保険料は、属性にかかわらず負担しているので、現役世代が総じて負担することになるが、遺族年金が受けられない生涯独身の人々がそれを許容するだろうか?

この財源の確保という問題からも、女性側の受給要件に男性側を合わせるというのは非現実的であるということがわかる。

福祉国家の孕む潜在的な問題

最後に、本文の最初に書いた「国民の意識」という問題に言及したい。

まず、この遺族厚生年金の改正への反応を見て、僕自身の感想としては、福祉制度が作り出す問題を再認識せざるを得なかった。

それはズバリ、福祉制度への国民の精神的依存度が高いということである。

自分に必要なものは自分で用意する、という自助の意識が欠乏していることである。

国がやっていることは「所得の再分配」に過ぎず、国が資金を用意して、国民に配っているわけではない。

つまり、国の福祉制度の維持、拡充を求めるということは、本来は労働者が受け取る自分の給与から、もっと自分によこせと言っていることと同義なのだ。

福祉制度を充実させればさせるほど、「もらえることが当たり前」になり、潤沢な給付を受けられる層が既得権化していく。

その既得権益者が、自分の受給を減らされることに対して、拒否反応を示しているというのが現在の状況だ。

福祉制度を充実させてしまうと、それを縮小することができなくなる、というのがそもそもの構造的な問題であり、給付を減らすことができないということは、給料の天引きが増えることはあっても減ることがないということとイコールだ。

つまり、福祉制度の充実=国民の労働意欲を奪っていく、という構造が出来上がるのである。

これこそが一番の問題と思う。

例えば、年収500万円の人が、自社で昇進するなり、転職するなりして、年収を600万円に上げたとしよう。

僕はこれはすごいことだと思うし、本人の努力は素晴らしいと思う。

しかし、いざ手取りのUP額を見ると、実は約70万円くらいなのである。

この状態で、人々の労働意欲、向上心の邪魔をしていないと誰が言えるだろうか。

労働の果実、本人の努力の果実を国が横取りし、それをせっせと年金制度、医療制度に横流ししていく。

そしてその給付を受けられる層が既得権益化し、自分の給付が減らされることに拒否反応を示す。

結果何が起こるかというと、制度は時代と合わずに化石化し、社会の進歩の足を引っ張るものとなる。

ここで1つ、この福祉制度による労働意欲の減少を裏付ける情報を予言しておくと、2026年4月、社会保障制度は大バッシングが起きることになる。

なぜかというと、子ども子育て支援金という名目で給与の天引きが増え、手取りがさらに少なくなるからだ。

2026年、年収1000万円の人で年間12,000円(労使合計で24,000円)の負担、そこから段階的に負担が上がり2028年には年間19,800円(労使合計で39,600円)の追加負担となる。

ぜひ、2026年4月、勤労納税をしている層の反応を見てみてください。
福祉制度の充実=労働意欲の減少、の意味がよく分かると思う。

実は社会がこうなっていくことは、元衆議院議員 山本勝市氏が今から50年前に既に「福祉国家亡国論」という本で指摘していた。

なぜなら今起きていることは、福祉制度の構造的な問題なので、制度立ち上げ時から明らかに予測できていた未来だからだ。

この本の中で、今回僕が感じたことを、福祉国家の構造的な問題点としてまさに言語化している箇所があったので、抜粋したい。

ミニマム以上の「公正な」所得の再分配の制度は、民主制度の下で一度導入されると、これを廃止することは政治的にきわめて困難である。

組織されたグループの圧力をもとに「扶助と生活の保障に対する要求は次々に高められる。
扶助と社会保険の範囲は次々に広げられ、金額はますます高められる。
それとともに絶えず社会保険や国家の扶助基金に対する負担金が多くなる。
かかる発展を阻む何の原則もない。
ましてやこのようにして出来上がった保障と扶助の機構は、しょせんは奪い去られた財産の貧弱な代用品にすぎないので、いかなる場合にも真の満足は至らないから、この発展が中途で止まるなどということは考えられない。
そこで全体の負担はますます耐えられなくなる。
微税の努力はますます厳しくなり、摩擦を起こす。
国家の機構はますます大きくなり、社会官僚はますます増える。
その過程はどこで止まるのか。国家と社会が完全な破局に面するにいたるまで終わりはない」(レブケ)

山本勝市著『福祉国家亡国論』P.65より 呉PASS出版

この国には様々な立場の人がいて、遺族年金ひとつをとってもいろんな意見があるのだと思う。

そして、どの意見も否定されるものではないと思う。

でも、一つだけ明らかなのは、社会には大きな流れがあり、向かっている方向があるということ。

個々人の人生を考えたら、その流れをいかに読んで、いかに時代を生き抜くためのアクションを取れるかが大事なのだ。

そして、その個々人の考え方とアクションの積み重ねが、結果として国としての力、豊かさになるのだと思う。

ここまでで、4400文字(笑)。さすがに長くなりすぎた。

付き合ってくれた方ありがとうございました。


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