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愛するということ

先日、花を買った。
特に理由があったわけでもなく、衝動買い。
薄ピンクのバラを一輪。同じ日に花瓶(と言っても無印良品のカラフェを花瓶代わりにした)も買って一輪挿しにした。
実家にいる時は庭先の花を少しだけ世話することがあったが、自ら進んで花を買うのは初めてだった。
たった一輪の花だけど、これがあるだけで家に帰ることが楽しみになる。次は向日葵が欲しいが、季節的に少し早いかもしれない。


昔、ドイツの精神分析・哲学の研究者、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を読んだことがある。
その名の通り、「愛するとは何か?」を説いている本。決して男女間の性的な愛だけではなく、人間やモノ、時には目に見えないものに対する「愛」について書かれている。
そしてこの本の一節では「愛の性質は『配慮・責任・尊重・知』である」と述べている。

「配慮」とは対象の生命と成長を積極的に気にかける事。
「責任」とは他人の要求に応じられる、そして応じる用意があるという事。
「尊重」とは対象のありのままを見て、その対象が唯一無二である事を知る能力。
「知」とは愛するための対象に関する知識である。その人に関する知がなければ、配慮も責任も何もかも始まらない。

『愛するということ』著 エーリッヒ・フロム

この「配慮・責任・尊重・知」という性質は、花を育てることにとても似ていると感じる。

「明日は強い雨風だから、花たちを雨風が当たらない場所に移動しておこう」という配慮をもつ。
「この花は自分が責任をもって育てなければならない」という責任をもつ。
花が枯れて役目を終えた時、その花をドライフラワーやポプリにして尊重してあげる。
「この花は高い気温に弱い」という情報をもとに対策をする。そういった知識をもつ。

「配慮・責任・尊重・知」をもって何かを愛する。
すなわち、愛は自然発生的は現象ではなく、継続しなければならない「努力」であり「技術」なのだと自分は思う。
配慮と責任をもち、尊重し、知識を付ける。そしてそれを継続する。要は仁愛である。

先日、私事ではあるが失恋をした。その際、自分にはこの「知」が少し足りなかったような気がする。今思い返してみたら、あの子のことを知っているようで何も知らなかった。海を知ったつもりだったが、実際は脚を浸しただけみたいな(多分違う)。なんだか自分ばかりべらべらと喋っていた、気がする。
去年、別れを告げられた彼女の際は「配慮」が足りなかったと感じるし、そもそもそこでも「知」が足りなかったかもしれない。

反省する程度で思い返せばいいことを、いつまでもだらだらと考えてしまう。そして頭の中に苦い記憶として残る。それが何かのきっかけ(ほとんど匂いのプルースト効果)で想起されて虚しくなる。いつもこうやって繰り返してしまう癖をそろそろどうにかしたい。

愛は意志をもって成す努力で、技術である。
ということは頭では分かっていても、実際にそれを行うことは難しい。
そもそもフラれている(=恋人に選ばれていない)ので、愛することすら許されていないのだが。
「相手が自分以外の異性を選んだ」という事実や、その相手の意志すらも受け入れることが仁愛や慈愛の考えらしい(特に仏教)。

残念ながら、そのような愛を自分はまだ持ち合わせていない。
まだまだ一方的で利己的な愛し方しかできなさそう。フロムの説く理想の愛からはかなり遠いな。

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