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「御子柴仁を諦める」

御子柴仁のアーカイブが削除されてから69日が経過した。日付が変わって今日で70日だ。たかが2ヶ月。されど2ヶ月。あっという間に通り過ぎたとも思うし、気が狂うほど長い時間が経過したような気もする。

それでもまだ私たちは御子柴仁が今どこで何をしているのかを知らないし、そもそも私は「御子柴仁」が生きているのか死んでいるのかも知らないのだ。

TLやリストで拝見しているVTAのリスナーの方々の中には、「残る2期生のデビューはないものとして考えておく」とそっと表明する方々が出てくるようになった。正直すごく賢明だと思う。無駄な希望を捨てて「拾ったら儲けもん」ぐらいに捉えていれば、きっと少しは気持ちが楽になる。期待の裏には叶わなかった時の絶望があるから。だったら絶望ごと希望も見なかったことにする方が心には優しい。私もそう思う。

勿論そうすることにした人たちが口笛を吹くような気軽さでそれを決めたなんて一切思ってはいない。きっとその人たちはその人たちで、色んなことを沢山考えた末にその結論に至ったんだろう。

手に取るように、とは言わないが、私にもその気持ちは痛いほどわかる。私もずっとそれを考え続けているから。

御子柴仁を諦めるべきか。
御子柴仁のことを待ち続けるべきか。
そもそも「御子柴仁を諦める」ってなんだ。
私に「御子柴仁を諦める権利」はあるのか。
逆に御子柴仁を待ち続けることは許されるのか。

もう本当にずっと考えた。なんなら今も考えている。考えながらnoteにその考えをぶつけている。それでもわからないのだ。何も分からない。

運営がどういう意図で7月3日に御子柴仁の名前を在校生名簿から消したのか。
誰が違反をしたのか。
誰がデビュー待ちなのか。
みんなは今どこで何をしているのか。
また御子柴仁の声を聞ける日が来るのか。

知らなくていいことならいくらでもインターネットに転がっているのに、本当に知りたいことはインターネットのどこを探しても見つからない。なにも分からない中でただただ「私が知ることが出来た範囲の御子柴仁」について考えることしか出来ない。そうやって馬鹿みたいに時間を使って考えに考えて、今の私が出せる精一杯の答えに辿り着いた。


私は御子柴仁を諦められない。


多分私は私が思っていたよりもしぶとくて諦めの悪い人間だったのだと思う。というか多分私は物事の諦め方をあまり分かっていないのかもしれない。私は今でもホグワーツからの入学案内が届く可能性はゼロではないと思っているし、ある日突然時の政府から審神者になるように言われるかもしれないと思っているし、ひょんなことから相棒ポケモンと旅を始めるかもしれないと思っている。

そんな人間が「便りがない」程度のことで御子柴仁を諦められるか。答えは否だ。そんなことでは悪魔の証明は完成しない。

そもそも「諦める」というのが「御子柴仁について考えないようになる」ということならば、私に御子柴仁を諦めることは絶対に出来ない。私はただでさえ一分一秒何かしらについて脳内で喋り続けて、脳を回し続けないと死ぬような人間なんだから。

元同期の顔を見れば連想ゲームがよろしく御子柴仁に繋げてしまうし、御子柴が好きだと言ったゲームの名前が出ればそれをプレイする御子柴仁が見たいと心が叫び出すし、御子柴がよく聞くと言っていたアーティストの名前が耳に入れば御子柴仁はどんな声で歌うのかと考えてしまう。

全部を引っ括めても御子柴仁が「御子柴仁」としてこちらに姿を見せてくれた時間は30時間にも満たないだろう。YouTubeでアーカイブが引きちぎれる寸前まで配信したとしたら、丸3枠にもならない。言ってしまえばGWの1企画でしかなかったどこぞのフロムゲー耐久の方がよっぽど長かった。たったそれだけの時間しか私たちは御子柴仁の声を聞いていないのだ。

それなのによくもまぁここまで私の人生に爪痕を残していきやがったよ、御子柴仁は。

Minecraftを見ても、サルゲッチュと聞いても、Butter-Flyを聞いても、KFCを見ても、ドラマツルギーを聞いても、 BOOTHの素材を見ても、元同期の演技の上手さを感じても、元同期の歌を聞いても、ゲーセンを見ても、縄跳びを飛んでも、ギターを弾いていても、ベースの音を聞いても御子柴仁を思い出してしまう。もうダメだと思う。生活が御子柴仁に侵食されている。あと今「『仁』と『に』って似てんな……」と不意に思ってしまったから、今後「に」を見ても低確率で御子柴仁のことを思い出すようになるだろう。もう終わりだ。

今現在御子柴仁がどこにもいないから余計な思考に拍車がかかっているのは分かっているし、もし御子柴仁がデビューしたら少しはこれも落ち着くとは思う。それでもこの不在デバフがかかっている間はきっと「こう」なのだろう。

「遅効性の毒」や「一定時間解けない呪い」という言葉が私の脳内で、「俺を呼んだか」とでも言いたげな顔でこちらを見ている。そうだよ、君たちが今の私を表現するのにピッタリな言葉だよ。

更に悪いことに、私の体に残る「毒」や「呪い」はそれだけじゃない。

純文学の話をされても、煙草の煙が流れてきても、誰かと「約束」をしても、船舶免許について聞いても、競馬で負けた人を見かけても、認知シャッフル用の動画を探しても、家が燃えた話を小耳に挟んでも、プボの話題が目に入っても、カリスマの話題になっても、象を見ても、のりたまを見つけても、桜を思い浮かべても、風に揺れる長くてふわふわの金髪を見かけても、コーラを手に取っても、ダーツに触れても、エビを見ても、トムヤムクンの匂いを嗅いでも、蝉の話題を見ても、サバンナと聞いても、砂利を踏みしめても、「た行」と口に出しても、私はあの百鬼夜行の集団を思い出して寂しくなる。もっと言えばトマトと特級呪物でも低確率で思い浮かぶ顔がある。

正直今はめちゃくちゃ寂しいし、御子柴仁に限らずみんなの声が聞きたくて仕方がない。みんながもうそこにいないのならばそれはそれで仕方が無いので明確な死亡宣言を出して欲しいし、そうではないのなら「もうちょっとまっててよ〜」ぐらいの匂わせをして欲しい。明確にフィクションだと分かる話を未だに心のどこかで信じている奴が、行方不明届けぐらいで生存を諦めきれるわけがないだろうに。私を殺したいなら一思いに殺せ。

白木の杭で心臓を一突きしなければ死なないヴァンパイアよろしく、頭を弾丸で貫かれなければ消滅しないゾンビよろしく、VTA公式から名前付きで退学を突きつけられないと私は御子柴仁を諦められない。やっとこの場で開き直れた。

明日目覚めてからも私はいつも通りに御子柴仁のYouTubeアカウント予定地をスクショして最早それ用になりつつある鍵垢にツイートするし、心に思い浮かんだ御子柴にまつわるよしなしごとをそこはかとなくツイートするし、たまに御子柴仁の声が聞けないことに絶望して発作のように唸るし、その直後に「北見とるり嬢のところに動画あるやんけ」と思い出して配信と動画を見に行くし、身の回りのいろんなことから御子柴仁を思い出しては「はよデビューしろや」とどこに向ければいいのかも分からない感情をキレ芸として発散するし、深夜に1人御子柴の深夜配信が見たいと泣くのだと思う。

それもまた人生。そしてなんも関係ない私の優しいフォロワーたちに対して、私が提供出来るエンタメコンテンツのひとつだ。お前ら、どうだ? 狂ったオタクを檻の外から見るのはさぞ楽しかろう。御子柴仁がデビューした折には「あの頃のトチ狂った柊のこと、正直どう思ってた?」とインタビューしに行くから。準備しておいてくれよ。

とにかく、私はこれからも御子柴仁の「連れていくから」という言葉を信じて、御子柴仁を諦めずに毎日を過ごすのだと思う。というかそう決めた! 私が自然に「もう思い出にするか」と思う日まで思う存分御子柴仁を諦めない。

こっちはこっちで勝手に気長に御子柴のことを待ち続けるからさ。なんかいいタイミングでデビューしてくれよ。それだけが今の願いだ。


追記。その後の話です

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