002 おおわきまさと
TO あとどノート
はじめまして。大脇と申します。
海士町の出身で、18年間島で暮らし、その後、東京の大学へ進学。
大学を休学して1年間沖縄の久米島町というまちで地域おこし協力隊を行ったあと、東京の組織人事コンサルティングを行う会社に就職。
3年間勤めた後、今は新潟県三条市という町で働いています。
自分自身のことを書くことは、これまで何度かありましたが、今回はちょっと深い部分まで、自分自身のことを開示しながら、書き連ねてみたいと思います。
■小学校時代
少し遡って書くと、僕は小学校の時、身長が175センチくらいありました。
そして、人口2400人の島で、クラブ活動はたくさんあったのですが、その中でも、ミニバスケットボール、をやっていました。
ミニバスは、少しリングが低いので、身長175センチくらいあるとゴールまですぐ手が届きます。そういった意味でも、ある意味エースとして「期待」をされ、チームの中心にいたように感じます。
ただ僕にとって、「チームの中心」にいることは「苦しい」思い出しかなかったように感じます。バスケットは、5対5。身長の高い僕に、ボールが手渡されると、ディフェンスが集中します。当然、あたりもきつくなってきますから、接触頻度も高くなり、ファールの数も多くなります。
そして、ファールをすればするほど、怒られたのも事実でして、当時の僕からしたら、「なんて理不尽な」と表には出さなかったけど、心に秘めた感情がありました。
そんなチームプレーから少し距離をおきたいと思って、始めたのが中学校から始めたソフトテニスでした。
■中学校時代
島の中学校は、当時の部活動だとソフトテニス部かバレー部しかありませんでした。当然、身長も高かった僕は、バレー部に勧誘されましたが、「チームプレー」でかつ、身長も高いので、また同じような状況になりそうだなと思い、仲の良い先輩が多かったテニス部に入ることにしました。
それからどっぷりテニスにハマってしまい、毎日テニスのことを考え、毎日練習をして、毎日壁打ちをしていました。
ソフトテニスには、ダブルスがあって、ペアと連携しながら点を重ねていく競技でしたが、1人ひとりが自立した上での連携を求められるため、僕の性格に合っていたのかもしれません。
いつの間にか強くなっていて、島の大会でも毎回上位に、県の大会でも少しずつ上に行けるようになっていました。
僕が島前高校に進学したのは、もちろん魅力化プロジェクトのお話もありましたし、そこは嘘ではないのですが、テニスへの想いみたいなものも、大きかったように思えます。
■高校時代
この頃になると、いろんなことをやり始めました。ロシアの交換留学に行ったり、生徒会をやり始めたり、いろんな先輩と一緒に遊び、そしてテニスに熱中する。
この頃は本当にたのしくて。先輩と後輩に囲まれながら、好きなことに熱中する。高校2年生くらいまでは、本当にテニスの思い出しかないくらい。「勝つために」どうすればいいか、と常に考え情熱を注いできたものでした。
一方で勉学についても、たくさんの「期待」をかけてもらいました。
その当時は、僕の学力はクラスで上の中くらいで、成績的にはTOPではないけども下でもない、くらいの絶妙なポジションでした。これまでテストでTOPになったことは、あんまりなかったように感じます。
それでも、受験の際に「早慶目指そう」って言ってくれた大人の方達、そして最後までサポートをしてくださった方々には、今でも感謝しかないです。
僕の原点を作ってくださったのが、受験期のお話です。ここを書くと超絶長くなってしまうので、割愛させてください。
※詳しいお話は、下記の書籍をご参照ください。
未来を変えた島の学校――隠岐島前発 ふるさと再興への挑戦 https://www.amazon.co.jp/dp/4000248766/ref=cm_sw_r_cp_api_i_xtOPEbJZ0GNN9
■大学進学後の自分
あの受験体験を経て、大学に進学してからもたくさんの方にお会いしましたし、たくさんの人に「期待」をしてもらいました。
「30歳で町長になる」なんて言って、島の学校から飛び出て、生意気にも夢を語っていたように思います。
僕の夢を半分「面白おかしく」取り上げたり、イベントの場で、心のどこかでは「生意気なこと言ってるな」と思いながら、表層的な言葉で話しかけてくる大人にもたくさん出会いました。
一方で、僕のことを心から応援してくれた人とも出会い、今ではその人たちと一緒に働けているのが、なんとも不思議な感覚です。
僕にとっては、人生を左右する出会いでした。
また、地元に帰ると少しに大人になったためか、「地域の事情」が本当の意味で見えてきました。
「大脇は恵まれている」と、いろんな人から言われましたし、「親のおかげ」「周りの人のおかげ」と言われることもありました。
今となっては、冷静に受け止め切れるのですが、当時の僕からしたら、悔しさしか残らず、「なんのために地元に帰ってきてるんだろう」と帰省をするたびに思っていました。
「海士町のため」「地元のため」そんな思いで島から出て行ったことは事実。
だけどそれがいろんな負の感情に変わっていて。いろんな人のお力によって、今の自分があること、それは絶対に否定できない事実です。
でも、
小学校の時から「期待」をかけられ、それに応えるために、努力をし続けてきたこと、誰もやったことがないことに挑戦し、リスクを追うときの気持ち、
不安。
それと闘ってきたのは紛れもなく自分なのに、なぜそんなことを言われなければいけないのか、と自問自答する日々でした。
■これまでの自分とこれからの自分
僕の中で島前というのは、
僕を成長させてくれた場所で、「愛すべき大事な場所」です。
学生時代にはいろんなこともありましたが、それでも、「そんなことどうでもいいな」と思わせてくれる人々がたくさんいる島です。
これまでたくさんの「期待」をかけてくださって、たくさんの「応援」もしてもらいました。
そのしていただいたことに対して、まだ何も恩返しができていない、と思っています。
島に帰省すると「いつ帰ってくるだぁ?」と声をかけてくださる方もたくさんいます。安心してください。
ちゃんと帰りたいと思っています。
でも一方で、僕はまだ島の大人の方から見たら、まだまだ若い。でもそんな年齢で判断されるのではなく、人として、大きな自分になりたいなと思っています。
僕も今、新潟という土地で色々とチャレンジしています。
海士町だけではなく、島前の人に刺激を受けながら、僕は粛々とやるべきことをやり、苦難・葛藤と向き合い、成長していきます。
だから、今度みなさんと会う時には、もっともっと人として魅力的な人になって、帰ってくるつもりです。
色々書いてみたけど、あんまりしっくりこないので、またイベントとか、島に帰ってきた時に、しっぽり話したいなと思います。
002 大脇政人(1993年5月生まれ 保々身出身)
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