MCUにおける「思想」としてのサノス

※「MCUシリーズ」及び「アベンジャーズ・エンドゲーム」の重大なネタバレが含まれています。

・「思想としてのサノス」

 アベンジャーズ・エンドゲーム(以下EG)は映画史に凛然と輝く傑作である。
 という話はおそらく皆しているだろう。私はこの映画は今まで見てきた作品の中で一番好きだと断言できるほどだが、今ここで語りたいことは、作品の評論ではない。

 思想としてのサノスとは、何者であったか。

 そしてアベンジャーズ、及びルッソ兄弟は、この思想にいかに立ち向かおうとしたのかを論じていくためである。

 まず初めに「思想としてのサノス」とはどういう意味かを説明する。それは「命を犠牲に、命を救う」というものである。ここで留意しておかなければいけないことは、「宇宙の命半分を殺して、半分を救う」という目的は、思想としてのサノスではない。これはあくまで「命を犠牲にして、命を救う」という思想に基づいた「行動」であるためである。

 制作陣や作中でも仄めかされているように、サノスの「命を半分に」という行動そのものは、非常にサノスの個人的嗜好に左右されたものであり、宇宙を救うという大義によって粉飾されてはいるが、単なる個人的残虐性の表れである。しかし一方で「思想としてのサノス」である「命を犠牲に、命を救う」という理念は非常に強固で反論の困難な命題となっている。

 さて、本題へ行く前に、これまでアベンジャーズやMCUヒーローたちが接敵してきたヴィランの思想を整理したい。本題からは外れるので、興味が無い人は読み飛ばすと良い。

 まずはロキである。ロキの思想とは「弱い者を力が強い者が支配することは是である」というものだ。よくある世界征服の悪党であるが、こうした思想は意外とMCUでは少ない。十数年前のヒーロー作品であれば珍しい物でもなく「弱きを助け、強きを挫く」というオールドファッションなヒーロー像と、見事に相反する悪役像であると言える。レッドスカルや、ハイドラの思想はこれと一致するかもしれない。マレキスやロナンも近いか。

 次にオバディアである。アイアンモンガーの方がわかりやすいか。彼のような「自分の私利私欲を叶えるために他人を犠牲にする」という思想もまた、少し古いもので、やはりMCUでは少ない。少しばかり事情は異なるが、他にはヴァルチャーがこれに相当する。

 第三にウルトロンである。ウルトロンの思想は「世界平和のために世界を不安定にさせる不穏分子を予め滅ぼすことは正義」という点である。ウルトロンのこれはコミックのシヴィルウォー2でも争点になった部分であり、現実社会でも重要な問題である。元をただせば、ウルトロンはアベンジャーズのメンバー間での、「世界平和」に対する考えの相違で生まれた産物であったが、これに対しアベンジャーズは「異なる考えの者が手を取り合う」ことで解決した。エイジオブウルトロン(以下AoU)内では、一度は敵対していたスカーレットウィッチやクイックシルバーが仲間になる。最後の決戦の「together」という言葉はまさにAoUの映画を端的に表したものであろう。

 最後に、バロン・ジモの「復讐」である。これ以上ないほど簡潔な思想にも関わらず、アベンジャーズを分裂させてしまうほどに、強烈な敵であった。ヒーローたちでさえも、「復讐」の思想に囚われてしまったほどである。アベンジャーズという名前のヒーローに、復讐を理念とした敵を用意するのは非常に巧妙であったように思う。

 さて迂遠な回り道をしてしまったが、このように、ヴィランの思想も多種多様であるわけだが、サノスの思想が最も強敵であると私は断言したい。

 「思想としてのサノス」の「命を犠牲に命を救う」という考えは、少なからずヒーローたちが善としてきたためである。事実ヒーローたちは時に自分を、時に善人たちの尊い犠牲で、世界を救ってきた。例えばインフィニティウォー(以下IW)で、ガモーラやヴィジョンは「自分の命を犠牲に」サノスの虐殺を阻止しようとした。一見すると尊い自己犠牲ではあるが、これもまた「思想としてのサノス」と同じ考え方である。サノスの取った手段は「他人の犠牲」を強いるものではあったが、仮に彼の目の前に「自分の命を犠牲に世界を救う」という選択肢があれば、彼は躊躇なく命を犠牲にしたことであろう。事実ガントレットの着用と使用は、サノスでさえ半死半生の状態へと陥らせた。にもかかわらず彼は思想の成就のために、二度目の使用も厭わず、更には全ての結末を理解した、通称2014サノスも、スナップに躊躇いを見せなかった。彼は自分の命すら、天秤の上に容易に乗せるだろう。

 ここで一番の問題となるのはEG内での展開である。ナターシャやトニーは自身の命を犠牲に、世界を救ったのだ。彼らアベンジャーズは確かにサノスの世界を救う「方法」の誤りを指摘はできた。しかし結果的に「命を犠牲に命を救う」という「思想としてのサノス」に対して、明確な答えを提案できないばかりか、その思想に基づいて行動してしまったのである

 ここで「自己犠牲」と「他者犠牲」の間に大きな違いはない。IWでヴィジョンが自死を提案した際に、スティーブ・ロジャースは「命に大小はない」と否定した。だがその後、ヴィジョンは「貴方も70年前同じことをしたではないか」と反論する。ヴィジョンのこの言葉はおおむね正しい。尊い自己犠牲とサノスの虐殺に、何の違いがあるのか

 実のところIWでは「サノスの勝利」で終わらせる必要があったとはいえ、ヴィジョンやガモーラの自己犠牲はことごとく失敗に終わっている。ヴィジョンの犠牲はタイムストーンで無かったことにされ、スターロードとガモーラの決意はリアリティストーンによって阻まれた。しかし一転してEGの中で描かれる「自己犠牲」は見事に成功しているのだ

 ここまで書けば僕の言いたいことは理解できるだろう。サノスの世界を救うための方法は完全に否定された。しかしサノスの世界を救うために抱いた思想たる「命を犠牲に命を救う」は否定されるどころか、ヒーローたちによってむしろ推進されてしまったのである

・ヒーローの反撃

 ヒーローたちは映画の中では見事にサノスに勝利した。
 宇宙の命を半分にするという方法は、アベンジャーズたちによって否定され、サノスの軍隊は、宇宙から駆け付けた仲間たちによって敗北した。サノスの大いなる野望も、最強の兵たちも、彼がちっぽけだと否定した者たちによって完膚なきまでに敗北した。

 こうして書くと、エンドゲームの教訓は、

「『偉大なる目的』を前に、全ての行動を正当化するのではなく、やはり何が正義であるかを皆で話し合い、不断の努力を費やす」

 なのだろうと思えた。

 例えば「時間泥棒」作戦を実行する際、トニースタークとスティーブは「この五年間をなかったことにせず、全ての命を救う」という方法で合意した。これは見事にサノスと対比させたように思えた。

「過去に戻って、何かを変えても、新しい世界が生まれるだけで、元いた世界は何も変わらない」

 確かに仮にサノスのスナップをなかったことにしても、意味はない。ただし、それは「インフィニティストーン」が無ければの話である。世界を滅ぼし、世界を作り直すことすら可能なストーンであれば、元いた世界の歴史を、思うままに作り替えることも可能であろう

 例えるなら、アベンジャーズ本来の世界が世界線Aとするなら、時間泥棒で何か過去の事象を変えても、世界線Bができるだけである。しかしストーンの力ならば、「世界線A」の五年間を消し去り、スナップが起きなかった「世界線A'」の五年をまるで挿し木のように挿げ替えることも可能である。事実2014年サノスは、その方法で世界を作り替えようとしたわけだ

 こちらの方がはっきりといえば確実である。さらに言えばアスガルドの民、ヴィジョン、ガモーラ、ザンダーの民…サノス軍によって無残に虐殺された多くの人々は、スナップを否定しても生き返らないのに対し、この方法であれば全てを救うことも可能である

 だがそれでは「五年の間」に進んだ人々は否定されてしまう。五年の間に生まれた新たな命、新たに育まれた関係は無かったことにされてしまう。
 サノスが新たに世界を作り替えると述べた際、キャップは「失われた血は?」と問いかけが、サノスは「誰も覚えていない」と切って捨てた。

 サノスとアベンジャーズの大きな分岐点はここであろう。アベンジャーズは決して犠牲になった者たちを忘れない。無かったことにするのではなく、ただ取り戻すだけなのだ。この点、失われた命への向き合い方については、大いに異なると言えよう。EG冒頭のスタークが遺言の中で、「(自分が死んだら)後ろめたさ全開に前進して」と述べていたが、これがヒーローたちの姿勢を端的に表している。

 他にもサノスとヒーローたちに細かな違いを見出すことはできる。サノスは自身を「私は必然なのだ"i am inevitable"」と言い放つほどに自身が正義であると強固に信じている。だがヒーローたちは「正義」「自由」「平和」について、常に議論を続ける。これは「正義なんて人の主観で変わる」という悲観的な世界観ではない。「必ず正義はある」と信じているからこそ、誰よりも正義を問いかけ続けることが可能なのだ

 とはいえ、とはいえだ。

 これは結局「思想としてのサノス」への反論にはなり得ていない。EGのヒーローたちの行動は、結局何を我々に問いかけたのだろうか。

「思想ではない。方法をこそ重視すべきだ」
「一人ではなく、できるだけ多くの人で議論をするべきだ」
「決して正義を諦めない姿勢こそが重要なのだ」

 このことについて考えていると、この辺がパッと思いついた。

 だがどれだけ考えても「思想としてのサノス」が、いつまでたっても解決した気にならない。今後アベンジャーズやヒーローたちの前に「命を犠牲にして、より多くの命を救う」という選択を迫られるだろう。そのたびに「思想としてのサノス」が呪いのように立ちはだかるのだ。これほど強固な思想は存在しまい。

・ヒーローの出した答え

 さて、私の映画を通じて、サノスという思想との対立は、
 「犠牲を忘れぬこと」
 「決して留まらず諦めぬこと」
 「他人に犠牲を強いる方法は捨てること」
 こういった答えで解決しようと思っていた。ただ、二度目の観劇の折に、この辺りの思想対立について気を付けてみようと思い、注意深く台詞を検証して気づいたことがあった。

 過去への旅を始めるまでのビッグ3の五年間と、三人の結末を見て、考えを改めた。確かに、上のような答えは部分的に正しかったが、もう一つの側面が見えてきたのである。

 ビッグ3の五年間を整理してみよう
・スティーブ・ロジャース…スナップの結果、愛する人を失った人々に、前向きになるよう、精神的な相談役を務める
・トニー・スターク…ヒーローを引退。自分の人間としての理想の生活へと歩みを進め、家庭を持つ。
・ソー…酒と油を摂取し続ける自堕落な生活。

 さて、これらの生活だが、ヒーローとして引退したのはスタークだけである。ソーも引退したようなものだが、彼のあの生活は「サノスは自分なら止められたはず」という自責の念から来るものであり、言うなれば「過去に執着」している状態といえる。

 そして三人の結末だが
・ロジャース…ヒーローを引退し、愛する人との生活を選択する。
・スターク…世界を救うべく、尊い犠牲に。
・ソー…与えられた使命ではなく、自分の意志での人生を進む。

 さて、この三人の結末に影響を与えたのは、間違いなく過去への旅である。ロジャースは愛する人であるペギーと、スタークは父であるハワードと、そしてソーは母であるフリッガと再会する。

 結論から言えば、これが「思想としてのサノス」のカウンターになるのだ。

 これまで、最も自己犠牲を強いられてきたヒーローは、間違いなくこの三人だ

 ロジャースはキャプテンアメリカとして、自由のため戦い続け、
 スタークはアイアンマンとして、世界の安全と平穏を守り、
 ソーは神として王として、宇宙の秩序の維持に努めてきた。

 命を捨てずとも、彼らは人生と自分の肉体を賭して、こうした使命を全うしてきた。
 そんな彼らは、最終的に「自己犠牲」以外の生き方を始めて選択するのだ。スタークだけは例外に見えるが、彼は家族を持つものとして、父から「家族のために戦う」ことを教えられる。元々スタークは、ハワードは仕事人間で、家族を軽視しているのだと感じていた。しかしそんな彼から直接的に、「仕事より家族を守りたい」という本音を聞く。五年間、一時的に自己犠牲を辞めていたスタークは、ナターシャと共に悲劇的な犠牲として選ばれたが、一方で彼は「親」として子供たちを守ることに努めたのだ。

 ロジャースは、ペギーとただ会っただけ。ハワードのように会話したりフリッガのように相談を受けたわけでもない。だがその一瞬は、70年もの時を超え、自分の時代ではなく、未来の世界のために戦い続けるのではない、もう一つの人生を彼に想起させるには十分だった。彼は70年の時と愛する者を取り戻す。この時彼は生まれて初めて「自分のための生活」を選んだ

 そしてソーは、フリッガより「与えられた使命以上に、自分の意志を尊重すること」を教えられる。家族を失い、友を殺され、母星は破壊され、民は虐殺され、宇宙に混乱がもたらされた。神としても、王としても、英雄としても、責任を果たせなかったと自分を責め続ける彼にとって、この言葉はどれほど救いになっただろうか。彼は最も強いヒーローであると同時に、最も多くを失った存在である。彼は母の助言で、ようやく個人としての生活を得たのだ

 「思想としてのサノス」は強敵だ。未だに決着はついていないし、これからもヒーローたちを苦しめるだろう。だがビッグ3はその身をもって、「何かを犠牲にする」以外の選択肢を提案した。

 家族を守り、愛する人と共に生き、己を尊重する。

 家族を失っていたスタークと、愛する人を失っていたロジャース、己の人生を失っていたソー。EGの長い旅を経て、この三人は漸くそれを取り戻した。ここに私は「思想としてのサノス」への反論の可能性を見出した。自分も含めた、全ての命を「犠牲にしない」戦い方は、確かにあるのだと。

 MCUは十年以上にわたって、「正義」を語ってきた。規模は違えど、多くのヒーローがその「正義」の重要性を我々に語りかける。

 サノスもウルトロンもレッドスカルも、決して空想だけの話ではない。「世界平和のため」と、マイノリティを迫害し、他国を侵略し、他者を虐殺した者たちは、確かに歴史上に実在する。だからこそ私たちは、こうした悪と戦い続け、正義を論じ続けなければならない

 サノスが正しいか、アベンジャーズが正しいかを判断するのは、映画の中の登場人物ではなく、観客である我々が、「何が正義であるかを皆で話し合い、不断の努力を費やす」べきなのだろう。


 ヒーロー映画はMCU誕生以前は軽視されていた。ティム・バートン監督のバットマンや、クリストファー・リーヴ主演のスーパーマンのような古典的傑作は確かにあるが、しかし多くの実写化作品は、それほど印象的ではなかった。子供が楽しむものであり、大人はそれにつきそうだけ。

 しかしダークナイトとアイアンマンの登場以降、映画界でもヒーロー作品は地位を向上し、エンドゲームはタイタニックの記録を抜き去り、今や十年以上並ぶものさえ現れなかったアバターに匹敵する興行収入をたたき出している。一、アメリカンコミックファンとして、こうした実写化作品が「語られるべき作品」へと進歩したことを、誇りに思う。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?