ゴジラ/キング・オブ・モンスターズにおけるゴジラ、人、兵器、世界の描き方

多様なゴジラ解釈

 ゴジラはその長い歴史ゆえに設定にも数多くの変化があった怪獣である。戦争被害者の怨霊だったり、繰り返し進化を遂げる超生物であったり、生きた核兵器だったり、その力も設定も様々であった。

 今回のキング・オブ・モンスターズ(以下KOM)でも、やはりゴジラの設定は大きく刷新されており、簡単に言えば「古代から生きてきた最初の地球の住人で、地球のエコシステムの循環者」と言える。さて、この設定に対してはファンの間でも議論がわかれるところだろうが、しかし私は非常に上手い設定に思えた。

 徹底的にゴジラを自然の一部として描き、騒がしい地球人に迷惑したりする様子は、実は初代ゴジラの設定に近いのである。初代ゴジラは太古の恐竜で、水爆実験で目を覚ます。こうした大筋の設定だけではない。例えば初代ゴジラには、ゴジラを神と信じている集団たちが神楽を舞う様子が描かれるが、こちらもKOMでは繰り返し過去の伝説伝承にゴジラたち怪獣が神や悪魔として描かれている様子が見てとれる。

 私自身はゴジラの神格化はそこまで好きではないが、しかしあくまで自然の一部として捉えるなら話は変わる。なぜなら自然の脅威を神として崇拝するのは、人間社会では一般的な形態であるためだ。

 つまりゴジラを自然の一部として徹底的に描ききるのは、実はある意味でゴジラの解釈として非常に正しいのである。作品内の表現に限らず、ゴジラはメタ的にも様々な意味を与えられる。神、怨霊、核の脅威、震災など様々であるが、初代のゴジラはあくまでただの人間に住処を奪われた哀れな恐竜にすぎない。ゴジラが意味を持つのではなく、ゴジラに人が意味を与えるだけなのだ。例えば初代では山根教授の最後の有名な台詞からもわかる通り、水爆の脅威に関連付けるものもいたり、疎開のせいで先の大戦を思い出す者たちも描かれる。勿論そこには製作陣による怪獣ゴジラに対する暗喩的表現も含まれているだろうが、あくまでそれ以上は作品内で直接踏み込むことはない。

 ゴジラに意味を見出そうとする理由は難しくない。人が大自然を御するため、そして対話することができるように、自然を神として擬人化するように、ゴジラという理解できぬ怪物を、理解した気になるためである。それは、非常に原初的な人の弱さであると、言い換えることもできるだろう。

モンスターバースの世界

 改めてKOMのゴジラを見ると、彼に与えられた設定は先の「太古の住人」という要素だけであるが、やはり彼を神や、世界の浄化装置など、人間たちのまこと都合の良い解釈も複数紹介される。長い歴史故に人々のゴジラにかける思いは非常に多岐にわたるため、もはや正解のゴジラ像など存在しないのは確かである。だからこそ、そうした解釈の一つを採用するのではなく、あくまでゴジラを野生の動物として描くことに留めることで、観客の解釈や意味付けを強制しないのは、非常に巧妙なのである。逆に言えば、ゴジラそのものにあまり意味付けをしないのは、初代ゴジラ作品へのリスペクトであるとも言える。

 ゴジラ以外にも、レジェンダリー作品の巧みさは多分に見受けられる。まずゴジラたち怪獣を原初の地球の住人であるという世界設定である。これはシェアードユニバースを構築し、展開をやりやすくするための物に最初は思えたが、KOM視聴後に考えを改めた。この世界設定により、一見神話的でドラマティックな展開が、あくまで動物としての怪獣の行動であると説明できる。ゴジラはムートーを倒したり、キングギドラと戦うことを優先していたが、その中でゴジラが人を助けたりしたように思える展開が複数存在する。特にKOMはそれが顕著で、人がキングギドラに追い詰められると、必ずゴジラが駆けつけるのである。

 しかしこれはなんてことはない。ゴジラにとって人は脅威ではない。天敵であるムートー、地球を乗っ取ろうとするインベーダーのキングギドラだけが、ゴジラの攻撃対象なのである。つまりあくまで生態系的に正しく、合理的な判断で行動しただけなのだ。

 これは人間に敵対した怪獣たちにも同じことが言える。ムートーが人を襲ったのは、彼らが核エネルギーを食糧とするためであり、そして人が雄個体の繭に攻撃を仕掛けたためである。キングギドラも同様で、自身を怪獣たちに王と認識させるための力に似た兵器を使い、そしてその力に従わない人間を敵として認識したためである。

 この作品の面白いところは怪獣たちの行動をどこかでロマンティックで、神話的に、そして感情的に描いた後、必ず科学的な動物生態学的見地が披露されるのである。つまり一見ゴジラが人間の味方をしたように見えたり、怪獣が人を襲うことの理由に、非常に丁寧な描写が行われている。こうした設定は、ゴジラが単なる太古の昔からのトラベラーというだけでは成立しえないもので、むしろ最初から共演を念頭に置いた、モンスターバースだからこそ可能なものなのである。

科学と人

 さてゴジラ映画は常に人の行き過ぎた科学の発展や、エゴの成長に対する警鐘を程度の差こそあれ、何度も行ってきた。初代においてゴジラを目覚めさせたのは人間の水爆であり、ヘドラやビオランテ、デストロイヤといった人間の科学技術の産物的怪獣など、そうした示唆には枚挙に暇がない。

 KOMでのそうした科学の象徴が、オルカとエコテロリズムであることは言うまでもないだろう。

 さてオルカについては、過去のゴジラシリーズでも類似したものが存在していて、多くのゴジラファンはあれを見てX星人の兵器を想起したであろう。しかし一方でもう一つ偉大な古典を思い出す人もいたのではないか。

 そう、レイ・ブラッドベリの『霧笛』である。

 ピンと来ない人もいるかもしれないが、『原子怪獣現る』の原作と言えば、わかる人も多いのではないだろうか。

 当時アメリカで流行していたモンスター映画の一つであるが、この原子怪獣の特筆すべき点は、この作品はゴジラの公開一年前の作品でありながら、古代恐竜が核兵器で目覚めたという内容なのである。

 しかし詳しい人ならば知っているかもしれないが、原作とされる霧笛では怪獣の目覚めたきっかけは大きく異なる。そのタイトルからもわかるが、霧笛を自分の仲間と勘違いして陸に上がってきたことになっているのだ。

 ここで察した人も多いかもしれないが、怪獣の声を解析し、怪獣を操るオルカは、まさに現代の霧笛なのである。

 さてオルカに与えられた役割は、人の生み出した兵器が人を滅ぼすという、しっぺ返しとしての機能である。しかしこれは作品の結末で大きく転換を見せる。

 人のエゴの塊であるオルカは、人を救う一手に変貌する。この兵器がゴジラの窮地を救い、逆転のきっかけとなったのである。実はKOMの兵器の描き方には少しだけ独特な部分がある。

 そう、肝心な時に限って故障するのだ。ハッチに潜水艦のミサイル、そしてオルカそのものに至るまで、何度も壊れる。その窮地を脱するのに人の力を必要としている。これには、いざという時にはやはり人間の知恵と勇気が必要なことを暗示しているようである。しかし更に重要なことは、渡辺謙演じる芹沢博士の核兵器使用である。

 もはや耳にタコができるほど聞いた話ではあろうと思うが、ゴジラと核兵器は切っても切り離せない関係で、ゴジラの目覚めだけでなく、その突然変異が核兵器を原因としたり、ゴジラが生きた核兵器であったり、その繋がりは様々である。まさにゴジラの理不尽な力は、核兵器の凄惨な破壊力の体現のようである。しかし今作で登場する核兵器は、なんとゴジラを生き返らすために使われる。またそれを行ったのが芹沢博士、場所は海底、というのがなんとも憎い演出である。

 かつて、ゴジラを命がけで葬った初代芹沢博士。
 そして、ゴジラを命がけで救った芹沢猪四郎博士。

 この対比は見事という他ないが、命を奪う平気でしかない核兵器が、反対に命を救う兵器となることも、作為的であろう。

 オルカにせよ、核兵器にせよ、兵器も科学技術も使い方次第で命を奪うことも、命を救うこともあるというのは、ある意味この映画の最も強いメッセージであろう。

 さて私は「ゴジラという自然に意味を見出してしまう人間」ということを上述したが、これこそ、人間の弱さであることは言うまでもない。勿論これは映画内の描写の話であって、ゴジラに特別な思いを馳せる観客たちのことではない。特に初代の芹沢博士は、初代映画で全くゴジラと関わらないことで有名である。これはゴジラに匹敵するほどに、芹沢博士自身がドラマ性と物語を持っていたためであり、つまり芹沢博士はその物語の中で、唯一自身の立ち位置のためにゴジラを必要としなかった人物と言えるのだ。

 しかし一方疑問に思うのはこの映画にもゴジラを自然として扱って、意味を見出さない人物がいるのではないかということである。

 この物語の主要人物たちを振り返ってみよう。

 まず主人公のマーク博士。彼は動物学者と、ゴジラを自然として理解することのできる人物の一人であったが、しかし子供がゴジラに殺されたという感情は、怪獣たちに対して特別な意味を与えてしまう。

 次に芹沢猪四郎博士。彼は何かゴジラに対し特別な感情を抱いており、何らかの意味を見出しているようだ。しかし父親が核兵器の被害者でありながら、生きた核兵器ともいえるゴジラに対して怒りは見せない。愛情にも近いものを見せるが、ゴジラに対する特別な意味付けについては、それほど行っていないようだ。

 そしてエマ博士。彼女は怪獣たちとエコシステムの関係を見抜いた人物であり、この点ゴジラが自然環境にどれほど有益であるかも理解していた。では彼女はゴジラを単なる自然の一部として理解していたのだろうか。
 実は彼女もまた、ゴジラに特別な意味を見出していた。振り返ってみてほしい。彼女はそもそも何故エコテロリズムに賛同したのだろうか。単純な話だ。息子の死という非常に理不尽な事件を、彼女は「自然の摂理」として理解しようとしただけにすぎない。怪獣に意味を見出す、というよりは、自分の息子が崇高な目的の下で犠牲になったと思い込みたい、哀れな女性にすぎなかった。

 こうして俯瞰すると、エマ博士とオルカ、芹沢博士と核兵器は非常に魅力的な対比であることに気づくだろう。一見すると破壊兵器ですらないオルカが、人類滅亡の危機をもたらす一方で、今まで負の遺産の一つであった核兵器が人類を救う一手になる。

 人間はゴジラという脅威を目の前にして、自分自身の持つ兵器の欠点に目を瞑り、恐怖に駆られて時期尚早かつ不用意に暴走させてしまう。KoMは怪獣と同じくらいに、人間自身の脅威性と、そして可能性を前面に押し出した作品である。

 人間もまた、世界を救い、世界を滅ぼす怪獣なのだ。



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