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地域の先人から学ぶ

本田宗一郎伝(中部博著)を読んだ。本田宗一郎は浜松の北部、山の入口である天竜の光明村(現、船明あたり)で生まれ育ち、世界のHONDAを率いた伝説的な経営者ということは多くの人が知るところと思う。最近、天竜に関わることが増え、地元の偉人を通して地域を知りたい気持ちが湧き、子どもの図書館についていった折に手を取ってみた。450ページあったが引込まれる文章で一気に読了した。備忘録として感じたことをメモしておく。

世界を動かす原動力となる情熱と実現する技術

やはり何といってもこれに尽きる。自分の中でどうしようもなく勝手に燃えてしまう情熱を、仕事の原動力にしていることが根源であること。だから自分の気持ちに素直に仕事ができ、だからこそ周りを動かせるのだなと感じた。同時に言葉だけではだめで、宗一郎が天才的な技術者であったこと。情熱をどうしたら実現できるか、現実的に解像度高く考えることができたということである。自分の好きなことだから苦労を苦労と思わない、何時間だって没頭できる。こんな心境で仕事に打ち込めるのは幸せだなあと感じた。ポンポン(自転車にエンジンを取り付けた簡易的なオートバイ)をつくる動機が自分の妻が戦後の焼け野原で買い物に駆け回る苦労を軽くしてあげたいというエピソードも泣ける。苦労して困って困って困り抜いて、解決策が生まれる。本当にそうだと思う。いきなり目的薄い状態で集まったところでイノベーションは起きん。

自分を振り返ると、情熱と技術はどんな言葉で表現できるのだろうか。情熱は浜松の街の魅力を高めたいということ、歩いて暮らせる距離感に街に愛着を持つきっかけとなる接点(お店や仕掛け、人とのつながり)をつくること。こんな感じだろうか。技術については、建築・不動産分野に明るいこと、世界含め様々な街を見ていること、アイデアの実現に向けた実行力があること、だろうか。客観的な評価も聞いて常にアップデートしていこうと思う。

自分にないものを持つパートナーを

本田宗一郎は根っからの技術者で、企業の経営は得意ではなかった。それを自分で自覚している。ホンダ創業間もなく藤沢武夫という天才経営者と出会い、藤沢に営業や企業運営の一切を任せて自分は得意な技術分野に専念できる体制を築き、それは二人が引退する1973年まで続いた。これも企業運営するにあたっては非常に大事なことだと思う。自分の得手不得手を自覚し、創業者だからといって何でも自分の権限下にせず、任せることはすっぱりと任せてしまう。言うのは簡単だが、思い入れの強い創業者だからこそ難しい部分だと思う。

平等主義の徹底

それともつながるが本田宗一郎は徹底した平等主義者だった。幼いころ貧しかったため受けた差別を心に刻み、自分は差別を絶対にしないという強い意志があったと記されている。だからこそ学歴や出身に囚われない能力に応じた人材登用ができ、企業の成長に直結している。この点も非常に重要にとらえるべきポイントだと思った。誰もが頭では人間皆平等とわかってはいるが、会社組織が生み出すヒエラルキーが経営者と労働者の見えない線引きをしてしまいがちなことを自分も何度も感じてきた。心理的安全性のない組織は、内部から批評的な意見が出ることがなくなり、縦割り的になり、会社への愛着も育ちづらい。そうならないよう、主体的に頑張ることで事業が良くなり、社会も良くなるという実感を各々が等身大で持つことのできる組織の在り方、これを対話を通して考え続けないといけないと感じた。

それと、明治~昭和までの社会を本田宗一郎の生涯を通して読むことで、自分の親や祖父祖母の世代がどのようなことを感じていたのかも想像することができて面白かった。もう少し言うと親世代はなぜあんなに車やバイクが好きな人が多いのか、ということに少し感情移入できた気がする。上の世代が自分や更に若い世代とは違う感覚を持っていると漠然と感じていたが、おそらくホンダを代表する車メーカーの勃興を自分に重ね合わせた人が多かったのではないか。レースを通じた世界への挑戦、遠くまで自力で行くことができる新しい乗り物、自由、冒険、高揚するエンジン音。自分もバイクに乗ってみたくなった。

他にも多くの名言や励まされる言葉があり、困ったときは読み返したいと思う内容であった。浜松は他にも偉人がたくさんいるので、これからちょくちょく調べてみようと思う。

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写真は2013.8 アメリカ シーサイド


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