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二十五

お金もない、努力もしない 二十五を過ぎたら死ぬしかない

オシャレ大作戦/ネクライトーキー

この歌詞を初めて耳にしたのは、二十歳の頃だった気がします。大学でバンドサークルに所属していた僕は、今まで聴いたことのないジャンルの音楽や、何回も聴いたことのある音楽の波に身体を預け、ゆらゆらと、単位とかバイトとか憂鬱とか、はたまた恋愛とか、ごく一般的でありきたりな大学生活を送っていたと思います。

もちろん、他の一般的な大学生のように将来のことなんて全く考えず(実際には、一般的な大学生のほとんどは将来のことをある程度は考えて)、都会で出会った優しい友人たちと共に、モラトリアムのぬるま湯を不恰好に平泳いでいました。結果的に、大学院に進学したり、留年したりする選択肢を選んだ同期を除いて、怠惰や憂鬱によって構成されたドブ川に新卒のカードを落っことしたのは、就職しなかったのは、僕一人だけでした。


先ほどの歌詞は、ネクライトーキーというバンドの「オシャレ大作戦」という曲の1フレーズです。僕は当時、ネクライトーキーというバンドを知らなかったのですが、後輩がコピーバンドをすると言うことでライブ前にいくつかの曲を予習しておこうと思い、YouTubeで「ネクライトーキー」と検索し、初めて聞いた曲がこのオシャレ大作戦でした。ドラムの4カウントの後、クイズの出題音のような特徴的な音と共にスタートするこの曲は、とても楽しい曲調で、あまり楽しくない歌詞を歌っていました。僕はそういう曲をかなり好んでいました。

しかし僕は熱し易く冷め易いところがあり、劇的に好みの曲を見つけてしまうと三日三晩その曲を聞き続けてしまう癖があります。一番良くない音楽の消費の仕方かもしれません。三日三晩、音と詩によって作り上げられた洗浄液を、イヤホンという名のシャワーを用いて耳から注入する。液は薄汚れた脳の表面を右から左から穏やかになぞって、使い物にならない澱んだ感情をこそぎ取りながらぐるっと一周したあと、最後は涙として体外に排出される。お気に入りの曲たちをある程度聴き続けると、僕の貧弱な脳はその強力すぎる洗浄効果に耐えられないのか、曲がどれだけ素敵で、素晴らしいものであったとしても、そこからはもうほとんど聞けなくなってしまうことがありました。「オシャレ大作戦」の時も同じでした。しかし、冒頭で紹介した「お金もない、努力もしない、二十五を過ぎたら...」というフレーズは、この曲をそれ以降ほとんど聞けていないはずの僕が所有する心の荒地に、何度も、パラシュートと共にふらふらと降下してくるのでした。バイト先の社員さんにこっぴどく怒られた時、そしてすぐにバイトを辞めてしまった時、友人が結婚したとき、なんで就職しなかったんですか?と聞かれた時、親の体調が悪い時、夜眠れない時、ひとたび心の天井から憂鬱な気持ちを発見すると、聴き慣れたメロディーを伴って「お金もないし、努力もしない、そして二十五を過ぎたらお前はどうするんだ?」と語りかけてくるのです。歌詞通りなら、死ぬしかないわけです。

二十〜二十三歳くらいの僕は、たかを括っていました。二十五歳になんて一生ならないのではないか。という気持ちにさえなっていました。二十四歳になった僕は、焦り始めました。まだお金もないし、努力もしていませんでした。「二十五をすぎたら、どうなるんだっけ...。」


 僕は今年、ついに二十五歳になってしまいました。二十五年の年月を経た心地はまったくありません。夢とか願望とかも特にないし、強いて言えば、あまり悲しいことが起こらないような人生を歩めたらいいな、と思っています。とりあえず現時点の僕は、死と話し合いながら、彼とは一定の精神的な距離を保ちながらの生活ができていると思うので、あまり歌詞通りにはなりたくないな、という気持ちを抱えられてはいます。それでも選択肢として、可能性として彼はいつでも、どこにでも存在しているのです。お金も稼げないし、努力もできない、僕はこれからも、音楽の波で無理やり脳を揺らしながら色々なことをなんとか誤魔化して生きていくんだと思います。最近はあんまり色々なことを考えないように生きています。考えないように生きていますが、結局いつも考えてしまっています。親族に対する申し訳なさや、友人に胸を張って今の現状を伝えることができない情けなさが、僕の周りに存在している酸素を薄くしているような気がします。


実は「オシャレ大作戦」のラストのサビ前では歌詞が変わり、

お金はない、逃げ道もない 二十五を過ぎても生きていたい やるしかない ここまで来た

オシャレ大作戦/ネクライトーキー

と続きます。主人公はいよいよ覚悟を決め(仕方なく、かもしれないけれど)、待ち構える未来に立ち向かっていこうという心境の変化がわかる部分です。ラスサビ前に歌詞が変わるように「お金もない、努力もしない、二十五を過ぎたら...」のコールに対して、僕なりのレスポンスを、いつかは見つけることができるのでしょうか...

 とりあえずは、二十五になっても何も変われないまま、現実という名前の海を溺れかけで泳いでいる自分にどうにか酸素を供給する方法を探りながら、溺れ死なない程度に流されていけたらと思っています。今日も、ゆらゆらしていくぞ!(オーッ!)

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