見出し画像

私とネコのけむり君

猫への狂おしいあこがれは、ある日、唐突にやってきた。

 

もともと犬猫の類を飼いたいと思うたちではなく、どちらかというとうっすら苦手意識を抱いていたような気さえするのに、ある日、目の前を横切る野良猫の、黒いしっぽをふりふり歩く後ろ姿に心の臓を撃ち抜かれたわけだ。

 

かわいい。猛烈にかわいい。

 

そのころ私は20代半ば、ブラック企業の汚水に首までびたびたに浸かって、いま自分が何をしているのかもわからなくなるくらい窒息寸前で働いていた。社内の複雑な人間関係、適性無視の業務内容、毎日とにかく疲れていて夢は「毎日ベッドで寝ること」だった。

 

そんな疲労困憊の心に、すっと寄り添ってくれたのが、猫である。

 

野良猫を見つければそっと後ろをついて歩き、なにかと理由をつけては猫飼いの知人の家に上がり込み、「ねこ かわいい」で検索してはお気に入りの画像をコレクションしていた。

 

ねこカフェなるものにも行ってみた。初対面の猫が膝に前足を乗せてくれたあの感動といったらない。ときめきをキュンと表現するが、キュンではもはや足りない。ギュン!!もしくはギュルルルン!!である。

 

疲れ果て、うらぶれたニンゲンを前に「どうしたの?大丈夫?」と気遣ってくれるのが犬だとしたら、無言で横たわってみせるのが猫だと思う。いや、それさえもニンゲンサイドの解釈なわけで、神(猫)の振る舞いに勝手に癒されたり救われたりしているにすぎない。

 

当然、神様……いや、猫様を迎えて一緒に暮らしてみたいという願望はあったわけだけど、なんせ当時の私は低賃金&重労働の過酷環境におり、時間もなければ貯金もなく、おまけにアパートはペット不可だった。

 

そんな現実とはうらはらに、日に日に猫愛、いや猫欲は膨らみ続け、ある日、私の煩悩は一匹の子猫を連れてきた。

 

ハチ割れの黒猫。真っ白い靴下をはいているような手足がチャームポイントで、おっとりと物静かな猫だった。たまに、ちょっと低い声でナーゥと鳴く。

抱っこが好きで、抱き上げて背中をさすってやるとゴロゴロ喉を鳴らすのだ。

 

鳴らすのだ、と書いたけれど、これはすべて私の脳内で起ったこと。実際には触れることも声を聴くこともできない猫である。

そう、シンプルに分かりやすく言うならすべて妄想、だ。

 

猫を飼いたい、でも飼えない、その葛藤が生み出したのが、脳内猫だった。

いま思えばどうかしていたかもしれないが、断じてお心の病ではない。

 

思うことが存在のはじまりであると信じた私は、まるで目の前に猫がいるかのように、すこしかたい毛並みの手触りや肉球の柔らかさを想像した。そして彼(オスだった)に、私はけむりという名前をつけて頭の中に住まわせることにしたのだった。

 

猫の名前はもちろん、寺山修司の詩から引用した。

寺山修司の猫といえば浅川マキさんの歌うふしあわせという名の猫も有名だが、脳内にふわりと浮かぶように生まれた黒猫には、けむりのほうが似合いだと思った。ちなみに愛称は、けむけむだ。

 

けむけむは私の頭の片隅で昼寝をしたり、あくびをしたり、うろうろ歩き回ったりして、いつでも猫らしくマイペースに暮らしてくれた。

どこに行くのも一緒だし、眠るときには布団の中にもぐりこんできた。もちろん妄想だ。

 

あれから10年。おととし、本物の猫を迎えることになった。

 

アラサーからアラフォーに変わり、仕事も変わり、住所も変わった。苗字は変わっていないが、一緒に暮らすパートナーができた。理解あるその人のおかげで、晴れてペット可の物件に引っ越し、一匹の猫を迎えることができた。

 

けむりとは違う、茶色のオス猫。けむりは短くてちょっと硬くい黒い毛だったが、その子は細くてふわふわの長毛。日に当たると、茶色の毛並みがきらきら光る、きれいな猫だった。

 

けむりと違ってぜんぜん大人しくしてくれないし、「ご飯くれ」「かまえ」「遊べ」とウニャウニャよく喋る。そのくせ抱っこは嫌がるし、もちろん一緒には寝てくれない。

 

ほんものの、猫。

 

噛み癖はあるし、うんちもくさい。やんちゃで気分屋で、極度のビビり。インターホンが鳴ると一目散に部屋の奥に逃げていく、ほんものの猫。

 

てのひらに収まるほどの子猫はみるみる成長して、いま4.5キロ。最近ようやく抱っこに慣れて、なでてやると気持ちよさそうに喉を鳴らす。愛しい猫。

 

ときに飼い主が、愛猫のママやパパを自称するのも頷ける。

 

ニンゲンのエゴで迎えた猫だけど、毎日ご飯をあげてトイレの世話をして、ブラシで毛並みを整えて、病院にも連れていく。夜中に鳴けば飛び起きて、なでてあやして育てたのだから、ちょっとわが子みたいな気持ちになってもしかたないんじゃないかな、と。

 

猫にとってわが家がどれほど居心地の良い場所なのか、正直なところ分からない。ほんとうはもっと幸せに過ごせる場所があったのかもしれないと考えもするけれど、あどけない寝顔を見るたびに、一緒に暮らしてくれてありがとうと、ただただ感謝する。

 

けむりはいまも、ときどき頭の片隅にやってくる。散歩中、ひとり湯船につかる夜、コーヒーを飲む昼のひととき、ひょっこり顔を出す。

賢そうなまなざしは相変わらずで、悠々としっぽを立てて横切っていく。

成長することも年老いることもない、私だけの永遠の猫。けむりのように実体はないけれど、10年連れ添った愛しい猫だ。

 

黒と茶色の2匹が転げまわって遊ぶ姿を夢想しては、その幸せな光景にむふふとひとりほくそ笑む。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?