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芯探求_2【一人称の使い分けで自我を隠したい/絵師自我問題】

カヨコはお前が浮かんでくるから抜けない

ある日、ブルアカについて話していた友人とのDiscordにて言われた衝撃の一言

は?

俺はカヨコで抜こうとするとカヨコを汚してる気がして罪悪感で抜けないけど、NTRでもリョナでもその他様々な異常性癖でも平気で喰らうお前が……?

え?

俺はカヨコで抜くと生活の中にカヨコで抜くという選択肢が入り込んできそうだから抜かないのに、性癖をブラックリスト方式で管理してて未知の異常性癖でも平気で喰らえるお前が……?

カ ヨ コ が 俺 の せ い で 抜 け な い ?

嘘だよな……?いや、嘘に決まってる。だって俺が、俺が、こんなにカヨコに狂わされるほど魅力的なのに、それを抜けない……?
は……?俺そこまでのことやってる……?


 私のTwitterは、「色んなことを呟いたりするメイン垢」と「カヨコについてしか話さないサブ垢」で構成されている。
そのツイートの比率はこの記事の執筆時点でおよそ1:2。メイン垢が1サブ垢が2だ。
そこから顧みるに、私が普段出力している情報の内、3分の2がカヨコに関することであろう。カヨコ好きすぎるだろこいつ……(他人事)
何故垢を分けたかというと、メイン垢で呟こうとしたとき、あまりにもカヨコについて言いたいことが多すぎてメイン垢がカヨコ垢になりかねないと躊躇したからである。どうやら私には自己隔離する癖があるらしい。

そんなある日、友人とのDiscordで衝撃的なことを言われた。

「カヨコはお前が浮かんでくるから抜けない」

「は?」
「カヨコが俺のせいで抜けない?」
「俺そこまでのことやってる……?」

「……やってるなぁ。

そこで私は前々から思ってることを決心した。

自我を出すのをやめよう

自我をあまり出さないようにしよう。
絵師について「自我を出すな」という議論が度々巻き起こるが、その度に自分が消費者だったら作者がちらつかないほうが作品を楽しめるよなあと思っていた。そこに来てこれだ。「カヨコで抜けない」
「自我」というのは、あの魅力的なカヨコを異常性癖悪食モンスターさえも喰らえないものにしてしまうらしい。これは非常にマズい。
あいつが喰えないなら一体誰が喰らえるというのか。釘さえも喰らうトリコか?

そうだ、一人称を使い分けよう

 そして辿り着いたのが「一人称の使い分け」である。元々、私は考察などの真面目な文章では「私」という一人称を愛用している。何故変えているのかと言われたら「そっちのほうが論文っぽいから」という虎の威を借りる狐のような浅はかな返答しか過去の私はできなかっただろうが、今回、これの意味を拡張できた。喜べ今の私。
それは「自我を出さないこと」である。なぜ論文などに「私」が多用されるかというと、それが丁寧な表現に併せて用いられやすいからである。丁寧な表現は、相手との間に適切な距離感を敷く。だからこそ、論理を邪魔しないために論理的な文章と相性が良いのだと思う。
そして、その距離感は創作の場でも役立つと考えた。日常的な「俺」より「私」を使ったほうが、創作物を消費してくれているときに耳元で飛ぶ蚊のような存在にならなくて済むのではないだろうか。そりゃあカヨコで抜こうとして耳元で蚊の羽音がしてきたら抜けないのも当然である。私だったらキレる。「耳元で囁いてくれるのはカヨコのASMRだけでいい!!!」って叫ぶ。
しかし、面白い文章とは感情が滲み出ている文章で、「私」を使うには少々淡々としすぎている気がする。そんなときに日常的な「俺」の出番である。ほら、俺の出番っていう言い方自体が、もう自我の臭いがプンプンして来ない?だからこそ、「俺」は感情を乗せてくれる。だからこそ、面白い。
……そういえば、俺ってよく言う芸人さん居たな。俺だよ俺、そうだよハンバーグだよ。

ハンバーーーーーーーーーグ!!!!!!!!!!!!!

誰だハンバーグ師匠のネタ面白くないとか言ったやつは。


まとめ

まとめると、創作物の魅力を減らさないように極力「私」を使うようにしてるし、ハンバーグ師匠のハンバーグは、肉の塊ではなく自我の塊である。「俺」って言ってるし。
また、日常的な会話では「俺」を使い続けている。流石にお気持ち表明し続けるような会話で「私」と言うには息苦しい。創作の場以外では自我を晒したいものである。

……あれ、俺の友人カヨコで抜けなくなったままじゃない?

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