ミニマム被災者ということ

※すごく長文で読み返しもしないため誤字脱字あるかもです。思いつくまま打った吐き出し日記。

昨日で東北の震災から12年経ちました。
(あ、今日は真面目な話)
私の出身地は青森県の岩手県寄りの海沿いの市で、沿岸部は津波で壊滅しました。
ですが市街地の自宅を含め、海から少し離れた地域は全く津波そのものの被害はありませんでした。火力発電所が津波をかぶり、数日間停電になったことと物が落ちて多少壊れたくらいの被害でした。
当時私は当時の夫と別居して実家に住んでおり、妹と息子と母の4人で暮らしていました。
発災時、私は母と息子と買い出しに出てちょうど帰宅したところでした。地元は田舎で車社会なのですが、私は免許を持っていなかったため、月に一度息子のオムツや飲料、オヤツやレトルト食品をまとめ買いしていました。
買い物したものを棚や冷蔵庫に母とお喋りしながらしまっていた時に、耳慣れない警報音が鳴りました。何の音か分からず母と音の出所を探すと、私のお尻の右のポケットから鳴っています。携帯電話の緊急地震速報でした。当時はガラケーで、今のような音声アナウンスはありませんでした。画面に「緊急地震速報 強い揺れ…」という文字を見終わらない内に、慌てて大声で別室で遊んでいた息子を呼びました。キョトンとした顔で廊下を駆けてくる息子を確認した瞬間、揺れが始まりました。
奇妙な揺れ方だったのを覚えています。地元は地震が多く、数年おきに震度5-6クラスは起きていたので、強い揺れの経験は何度もあります。予兆だったと言われている3/9の地震も、それまでの地震と変わらない揺れでした。
ですが3/11その時の揺れは強い波に揺られているような、全方位に「∞」のような形で揺れているような、初めて経験する揺れ方でした。
また揺れの長さも経験したことのない長さでした。「∞」の揺れのあと普通のガタガタ揺れに変わり、しばらく揺れ続けていました。揺れの最後の方にには恐怖より辟易の気持ちの方が強かったです。
変な揺れ方で外に逃げた方が良いのか家で落ち着くのを待つべきか判断しかね、息子を抱えて母と玄関で外の様子を伺っていました。
昼間で、すぐ近くにはバイパス道路がはしっているというのに、外は静まり返っていました。この短時間でご近所みんな避難してしまったのかと思うほど静かで、地震の揺れに合わせて揺れる電信柱のキイ、キイ、という音だけが響いていました。
揺れがおさまりはじめ、母が震度を確認しようとテレビのある部屋へ行った時、停電していることに気付きました。強い揺れのあとに停電することもあるため、実家にはランタンとラジオが備えてありました。ラジオをつけてチャンネルを合わせると、慌ただしいアナウンサーの声が聞こえてきました。
「津波が発生しています」「沿岸部の方はすぐに逃げて下さい」「避難指示が出ています。指示は、避難勧告より強い要請です。みなさん逃げて下さい」
外でも消防車かパトカーが、津波発生と高台に避難するようアナウンスしていますが、住宅地のためか反響がひどくよく聞き取れません。
実家は海沿いから車で軽く30分は離れています。津波の知識はありましたが、実家付近まで津波がくるとは思えません。川も近くにはありません。
被災中ずっとそうだったのですが、頭の中に「冷静な私」と「息子第一の母な私」がずっとせめぎ合っていました。ここまで津波が来るはずはないことは分かっている、でも万が一があれば?息子は何があっても守らなければ、息子を守れるのは私しかいない、、
頭の中の決議の結果、取り越し苦労でも高台に避難しようとなり、母に逃げようと伝えました。
が、「高台ってどこ?○○?津波はこないでしょ」と取り合ってもらえませんでした。
実際実家のところには津波は来ませんでしたし、海から実家までの間に大きな川が二本流れており、また起伏の激しい地形なので、広範囲の津波だったとしても実家のある地区までは到達しなかったと思います。
私は冷静なつもりで全く冷静ではなく、何度も母に「落ち着け」と言われていました。
最初の揺れがおさまったあと、母と近所の様子を見るために外に出ました。同じような考えの人が多かったのか、揺れの間の静寂が嘘のように人がそこかしこで話をしていました。
東北の3月はまだ冬の範疇でその時もハラハラと塵のような雪が降っていましたが、興奮からか寒さは感じませんでした。
私たちはどこへ行くでもなくウロウロして帰宅しました。近所の様子だと自宅避難で問題無さそうだったからです。
家の中の被害は大したことはなく、とりあえず高いところにある落ちてきたら危なそうなものを床に移動しました。
当時の夫や妹に連絡を取ろうと携帯を見ると、電波のマークがつく場所に見たことのないマークがつき、電話は不通になっていました。私は携帯電話の他にPHSを持っていたため、そちらでかけてみると繋がりました。仕事中だった夫も妹も兄 無事で、妹は帰路についているとのことでした。
夫はスーパーに勤めていたため、買い物客の対応に追われ遅くなるとのこと。
また兄嫁と甥も無事で、兄嫁と連絡のついた兄がこちらの実家に避難するように言っていたとのことでした。兄は仕事上、広範囲の停電が起こった場合に非常召集がかかります。その後発災翌日の夜に数分帰宅するまで兄とは連絡が取れなくなりました。
実家には母と妹、私と息子の他に兄嫁と甥が集まり、男手のいないまま夜を越しました。
妹のワンセグでニュース映像を見ると、見慣れた地元の漁港が映されています。いつもと違うのは、漁港にお風呂の水が溢れるように海水が流れ込み、ヘッドライトのついたままの車が波に揺られていたことです。「これ、(まさか)人乗ってないよね」母がポツリと呟き、誰も何も言いませんでした。何が起きたかは分かりましたが、どうなっているのかが何も分かりませんでした。
実家はオール電化で、停電になってしまうとコンロもストーブもつかないため、外出時のような格好で毛布を膝にかけて寒さを凌いでいました。
唯一の光源だったランタンは古かったせいか電池の持ちが悪く、徐々に徐々に暗くなって、最後には消えてしまいました。替えの電池の分は必要な時だけ使い、明かりは仏壇の蝋燭を使おうと決めました。
いつもの地震なら、停電しても数時間で復旧するはずがしないため、不安になりずっとラジオを聞いていました。
何時頃か分かりませんが、深夜に近い時間だったと思います。ラジオのニュースを聞いていると、「○○県の○○地区の浜辺に、200体から300体の遺体が打ち上げられているとのことです」と早口のニュースが伝えられました。他にも絶望的なニュースを聞いているはずですが、このニュースは強烈に脳裏に焼きついています。この震災が只事じゃない、非常に大規模な大変な災害であると実感した瞬間でした。
それまでも、どこそこは壊滅状態、どこそこは連絡が取れないと何度も聞いてはいましたが、何となく人は無事だろうと思っていたのもあります。
え、どういうこと?200体とか300体とか、どういうこと?なんで?
これからどうなるのかもわからず、盛んに報道されるのは被災の著しい東北3県のみで、不安ばかりが膨らみ眠れない夜を過ごしました。
その間も何度も余震とは思えない強さの揺れが起き、そのたびに息子と大荷物を抱え玄関まで走りました。メンタルの弱い私はずっと緊張しており、ずっと過呼吸気味でした。

3/12は息子の誕生日です。今日で14歳になりました。
震災当時、息子はまだオムツも取れていない乳児と幼児の狭間でした。
アナフィラキシーを起こしたこともある強めの卵アレルギーで、市販品で食べられるものは限られていました。前述のように、発災当日にまとめ買いの買い出しをしていたため、通常であれば数日は飲食に困ることはありません。夫も従業員特権でか、卵の含まれていない物資をスーパーから優先的に買って来てくれていました。
本当に偶然でしたが、その日に買い出しをしていなかったら、息子は食べるものもなくオムツもなかなか換えられない事態だったかもしれないとゾッとしました。

発災翌日、余震に怯えつつも朝を迎えました。ほとんど眠れていませんでしたが、異常な興奮状態は続いておりずっと頭痛がしていました。
兄嫁は甥と少し離れた実家に行くと出掛けて行きました。姉妹が被害の大きい地域に住んでおり、連絡が取れないとの事でした。
一日暖房をつけていない家は気温が低く、カセットコンロでお湯を沸かし暖かいお茶を淹れました。室温は昼になっても上がらず、車で暖を取ろうと母と妹と車へ行きました。ついでにガソリンを入れに行こうと近くのスタンドに行くと売り切れで閉まっており、また別のスタンドは長蛇の列で、私たちの三台前で品切れになると店員さんが伝えに来ました。
仕方なく自宅へ帰り、駐車場に車を停めてしばらくボーッとしていました。その日は晴れていて、車内だと日光だけでも暖かく、「太陽光って偉大だね」と笑い合っていました。

夜、兄が帰って来ました。
火力発電所が完全にやられたため、他県から電気を引いてこなければならない。地理的に通常であれば岩手県が近いが、被災状況から無理。青森県方の津軽地方から引いてくることになったが、もしかしたら2週間は停電が続くかもしれない。
そんなことを早口で話したあと、私と妹に「今なら時間があるから(被災した)○○漁港へ行ける。見に行くか」と言い、○○漁港へ連れて行ってくれました。
被災後の漁港は妹のワンセグで見たきりで、実際にその場に行くと言葉も出ませんでした。そこかしこに瓦礫が山積みになり、アパートより大きな船が道路の真ん中に横たわっていたり、車が住宅の玄関に挟まっていたり。数ヶ月前に新しく出来たと華々しくニュースで報道していた市場は、壁が穴だらけになりやはり泥や瓦礫で汚れていました。
現実感なく口を開けていると、親戚の家の前を通りかかりました。一階が店舗になっているのですが、出入り口は壊れて中は瓦礫と暗さで見えませんでした。
あらゆる建物が破壊され泥や瓦礫にまみれているのに、なぜか道路だけは車が通行できるくらいに綺麗になっていました。兄は「すぐに自衛隊が入って、ヘドロや瓦礫をかき出して綺麗にした。いまは多分岩手に行っている」と言っていました。
妹も私も港付近の惨状に少なからずショックを受けました。
兄がどういうつもりであの光景を私たちに見せようと思ったのかは分かりません。兄はダメ人間ではありますが、あの状況で野次馬しようと面白がる人間でもありません。ただ、私は見たことを後悔していません。
兄はその後、電気の復旧支援で数日陸前高田市へ行き、辛い経験もしたようです。その時に避難所の子どもたちからもらった感謝の手作りメダルを大事そうに飾っていました。現在は色々あり絶縁している兄の、唯一尊敬したところです。
また漁港付近に住んでいた親戚は、早々に避難しており無事でした。後々テレビで知ったのですが、震災の少し前に地区で津波を想定した避難訓練をしていたそうです。


震災後、しばらくして私は離婚し、海のない県に単身引っ越してきました。
ずっと、自分が被災者であると言い切れずにいます。幸い津波の被害はなく、幸い失ったものもなく(離婚で息子は失った)、亡くした人もいない。
罹災証明が出たので、被災者は被災者なのだと思います。震災直後だけでなく、その後もしばらく大変な思いもしました。
自分も被災者だ、と言うと、津波の被害に遭われた方に申し訳ないような、そんな気持ちがあります。こんな事くらいで、と。
あの震災で傷付きトラウマになっていることは事実です。亡くなった人の代わりに私が死んでいれば、どれほど世のためになったかと思うこともあります。
でもそんな事は言えない。
被害の軽微な被災者だから。
何も失っていない私は、何も言う権利はない。
震災の映像で泣く資格も、当時を思い出して苦しくなる資格もない。
この12年、ずっと抱えてきた気持ちです。
現在の夫にしか話していません。メンタルの主治医にも話せずにいます。
きっと、同じような人はたくさんいるんじゃないかな。どう昇華すれば良いんだろう。

地元を離れ周囲に東日本大震災に思い入れのある人がいない中、警察署と交番で半旗が上がっていることに気付き、これを書き出そうと決めました。

誰にも読まれないだろうけど、誰かに知っておいて欲しいというワガママな乙女心。

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