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他人は自分の感情を映し出す鏡

今朝は朝焼けがきれいでした

今日は三連休の最終日。
私が住んでいる街は海水浴場があるので、今日は人出が多そうです。


先日、とある活動でちょっとした気づきがあったので、お話しさせてくださいね。


11時半の開場を前に朝から準備をしていたのですが、その日はなぜか作業がトントンとはかどって、いつもよりずいぶん早く準備が整ったのでした。で、みんなで雑談しながら、開場時間を待っていた時のこと。

仲間の一人が「この時間がもったいないから、二手に分かれて午後からやる予定だった作業をやっちゃわない?」と提案しました。

うーん、二手に分かれて両方こなすことができるかな?ちょっと厳しいんじゃないかな?と思い、そのように伝えると、
「え~、時間がもったいないよ、もったいない!」「あ~、時間がもったいないなぁ」と何度も繰り返すので、最終的にはその人の提案通りに、二手に分かれて作業することになりました。

結果的には、どちらも滞りなく終了したので、その提案に沿って良かったのですが。。。
なぜだか私の中でモヤモヤとした後味の悪さが残ったんです。


帰宅してから、なぜこんなに引っかかるんだろう?と、わだかまっていることを分析してみたんです。

自分の考えが間違っていたのが悔しいのか?
正直、それもゼロじゃなさそうだけど、もっと違うものがあるなぁ。。。

と深堀してみて、分かったことがありました。

一つには、私自身はみんなでまったりと雑談をしていたあの時を楽しんでいたのに、それを否定されたような気がしてしまったのだということ。
私にとっては、今を楽しんでいる時間だったのに、その人にとっては無駄な時間でしかなかったのだということ。
それが悔しくて悲しかったんだな、ということに気づいたんです。

そしてもう一つ。
私は、何もしない今をも楽しみたいと思っているけれど、それは間違いなのだと否定されたような気持ちにもなっていた、ということにも気づいたんですね。

もちろん人それぞれ考え方は違っていて、どちらが正しいとか間違っているとかの問題じゃないということは分かっているのに、私はその人が私と同じように考えていないことを、心のどこかで否定したいような気になっていたんですね。
その人が本当はどう思っているかなんて知りもしないのに、勝手に決めつけて。

そのことに気づいたとき、私の現状を教えてもらったような気がしました。


実は私自身がずっと、何もしていない時間を持っていることを自分に許していない人間でした。
本当の意味で自分に自信を持てていなかったから、目に見える形で役に立っていると自覚できたり、生産性を認められることをやっていないと、不安で仕方なかったんです。

そして、ありのままの自分で気持ちよく生きようと決め、自分を見つめ直した時に、何もしていない自分を受け容れることこそが、とても大切なことなのだと知りました。
その時、私がどれほど自分自身を愛するために、自分に条件を付けて生きてきたのかということに気づいたんです。

そのことに気づいてから、何もしていない時間をも感謝すること
生産性のない自分をも愛すること

このことを実践し続けてきたんです。


最初は自分を責めてばかりで、なかなか許せなかったんですよね。
それほどまでに、これまでの長い時間、自分で自分をいじめていたのだと思い知りました。

それでも、どうしても、喜びをもって楽しく生きることを自分に許してあげたくて、何度も何度も繰り返してきました。
そうして最近はやっと、何もしていない時の自分も良いじゃない?と思えるようになってきていたんです。


で今回、この出来事で感じたモヤモヤのお陰で、改めて自分がどのように生きたいのかを、再確認させてもらったような気がしています。

私はどんな瞬間も、今目の前にあることを楽しんで過ごしたい。
目の前にいる人たちと過ごす、二度とないこの瞬間を大切に味わいたい。
どんな時も、愛ある言葉で接したい。

このことが私の中で腑に落ち切っていたら、きっと彼女の発言に対して何も感じなかったはずなんです。
私自身が中途半端で、自信をもって「私はこうです」と言えるものがなかったから、モヤモヤが残ってしまっただけなんですね。


目の前に現れる人やモノ、現象は、自分が今どのような考えを持っているかを映し出してくれる鏡。
どんな人もどんな現象も、その時の自分の感情にフォーカスすることを促してくれているに過ぎないし、そう考えると、全てのことを感謝で受け止められそうです。


・・・という未熟な私の体験談ですが、どなたかの何かの参考になったらうれしいです(^-^)


三連休の最終日、皆さまどうぞ楽しくお過ごしくださいね!


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