永遠なる意味の永遠なる遊び

今年の大きな変化は、〈自分らしい在り方〉を見つけたこと。
言葉にすると月並みだけれど、これは本当に探し出すのが難しいもの。
自分が間違えている、無理している、ズレている自覚は、ほとんどの場合、ない。
身の丈に合わないものを求めたり、過ぎたことや思い込みに執着したりしている。

大きな傷を追う時、自分が失うものは「実はおまえが持っていなくて良いものだったのだよ」という神の声を伝えている。
「いや、どうしても自分はそれがほしいんだ」と言っても、神はお構いなし。
「いらないったら、いらないの」
それは子供から燃えるマッチを取り去るのに似ている。
持っていない方が良いから奪ってあげるのだ。
子供はそのことで泣くかもしれない。
大きくなれば、親心が分かる。
それと同じように、人間も霊的に育つに連れて神慮というものが分かってくる。
自分の身に起きていることで悲劇というようなものは一つもない(勿論、この世には膨大な例外があることは承知している)。
挫折や喪失は常に、「別の道を辿れ」という神の導きの始まりなのだ。

深く掘り下げていくにつれて、まだまだ未知の自己を発見する。
ある例え話にこんなものがある。
彫刻家が石から馬を掘り出した。
子供がそれを見て言った。「どうして石の中に馬がいると分かったの?」

勿論、子供は勘違いしている。
馬は石の中にいたのではない。
彫刻家は石を削り取って馬に変容させていったのだ。
初めに完成像があったのではない。
過程を経て、完成像は現れた。

では彫刻家は何をもって、どの時点で、それが「完成像」であると知るのだろう。
答えは心だけが知っている。
「出来た」と思う時、それは終わり、「まだだ」と思う時、まだそれは終わっていない。

人格の形成、練磨、成長も同じである。
彫刻と違う所は、人格の変遷には完成がないこと。
心はいつも「まだだ」と思っている。
それを私たちは様々な苦境や痛みや感情によって感じ取る。
私たちが感じ取るすべてのことは、次の一手を知るための手がかりとなる。

〈本当の自分〉〈自分らしさ〉というものは捉えどころがないものだが、その捉えどころのない性質を受け入れられるようになったことで、私はずいぶん楽になった気がする。
かつてゲーテはこう書いた。

「形を創ったり形を変えたり、つまり永遠なる意味の永遠なる遊びです」

『ファウスト』

終わりがないことを拷問と思うか、遊びの種と思うか、ここに大きく深い呼吸が関わっているように思われる。

明日の真呼吸会は長めにお話しますので是非ご参加下さい。
ヒーリングその他について質問なども頂ければお答えします。

いつも通りの10時からです。

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