使い道があるかないかではなく

*間違えて本日分のこの記事を、昨日投稿しました。昨日の記事はヒーリングに関するQ&Aに差し替えました。未読の方は是非お読み下さい。

映画の『グリーンマイル』を観て、本題からはちょっとずれた所で感じることがあった。
それは老いについてである。
まだ43歳なので、老いについて語るには早い。
しかし事実として人生の、多分半分を折り返すか、折り返しつつある。
47歳になる姉が先日そのことについて言及し、確かに、と思った。
山登りに行くと、74歳を過ぎてもかくしゃくと、仲間連れで歩いている人もいる。
「もう老い先短い」と言って、どんどん活動量を減らす人もいれば、その年令から新たなことに挑戦を始める人もいる。
老いに対する姿勢は人それぞれである。

最近、英語の勉強を再開した。
と言っても真面目にやるのではない。
車の道中、教材CDをかけておくだけである。
ただ聞いている。
耳を慣らしている。
そうすると、英語用の鼓膜の乾燥を防げるので。
「何のために?」と言ったら、用途は無い。
10月11月と英語を使う機会があったが、それはとても珍しいこと。
私にとって英語学習は、その使用頻度を考えると費用対効果が極端に低い。
だから過去にもどうしても続かなかった。

しかし40代に入って考えが変わってきた。
「使うから学ぶ/使わないから学ばない」ではなく、「使うかどうかは関係なく、ただ学ぶ」になった。
そして「学ぶ」と言っても、絶対に真面目にやらない。
子供のように、ただそれを身近にしておくだけ。
だから「親しむ」というくらいだろうか。
それで自然と入ってくるものだけ、自分の中に入れていく。
この方法が、とても気に入っている。

使い道があるかないかを考えると、色々なことが切り捨てられ、〈自然退縮〉という現象が起きてしまう。
掃除だってそうだ。
来客がないから掃除する必要を認めない、となれば、どんどん生活の場は荒れてしまう。
力仕事をする訳ではないから筋肉の必要を認めない、となれば、体はどんどん虚弱になってしまう。
もっと広げて言うと、その存在の必要を認めない他者に対して冷淡になることもあるだろうし、理解の必要を認めない事柄について無関心になることもあるだろう。
過去には(今もだが)人類は、「使い道がない」といって、特定の民族を大量虐殺したこともある。

「使い道があるかないかじゃなくて…」というのは、贅沢な発想ではあるが、それ以上に、人間にとって不可欠な姿勢かもしれない。
そういう考え方を楽しめるようになってきた近頃、良い年の取り方をしてきているな、と感じている。
以前にはこういう余裕のある取り組み方が出来なかったから。


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