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“ぼくたち”の範囲を広げる感覚が身体知として理解でない

今日はネットショップで購入してもらった「ひな人形」を発送した。
お届け先は京都府。
分かるのは名前と住んでいる場所だけ。
どんな人なのかは分からない。

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最近読んだ本の中で『“ぼくたち”の範囲を広げる』という表現がでてきた。

“ぼくたち”を広げると、社会の感じ方が変わる。
買ったどら焼きを200円で手に入れたと感じるか、和菓子屋のおばちゃんが作ってくれたと感じるかの違い。

“ぼくたち”の範囲がせまくて、おばちゃんが外側にいる赤の他人だと思えば、200円で手に入れたと感じる。つまり、お金がすべてを解決したという感覚になる。

しかし、“ぼくたち”の範囲が広がって、おばちゃんをその内側にいる仲間だと思えば、おばちゃんが作ってくれたと感じる。

この“ぼくたち”の範囲は知り合いかどうかではなくて、僕らの意識次第だ。

『きみのお金は誰のため』より一部引用

頭では言っている内容を理解できる。
だが、身体知としてイマイチ理解できない自分がいる。

今回のひな人形でいえば、
作ってあげたという感覚はなくて、購入してもらった感覚だ。
お客さんが“ぼくたち”の内側にはいない。

お金の奴隷になっている人ほど“ぼくたち”の範囲はせまいらしい…
おそらく僕の範囲はせまい。家族くらいしか内側にいない。

範囲がせまいのは自分が社会の一員だと感じることが少ないからだろう。
自分のやっていることが、社会の誰かの為になっていると感じることがない。

意識を変えれば範囲が広がる感覚を味わえるのだろうか…
お金の奴隷にはなりたくない…

ー Profile ー

鈴木健太 | 工房ベル

木製スーツアクセサリーを作る木工作家。

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