相対主義を問い直す ~ 自己と「出会い直す」ための対話(倫理レポート)

昨年度高1倫理を担当した際に、レポート課題を課しました。その一例として私が作成したレポートを、そのまま掲載します。

0. レポート課題の概要
現代社会において「常識」「社会通念」と見なされている価値観や考え方を一つ取り上げ、
①その「常識」が「常識」と見なされるに至った(歴史的)過程を具体的に説明しなさい。
②その「常識」を乗り越えるために、どのような思想的アプローチが可能か考察しなさい。思想家の理論を参照する形でも良いし、曲の歌詞・小説・漫画・アニメ・映画・ドラマなどの作品内容を参照しながら考察しても構わない。

1. はじめに
 金子みすゞ(1903~30)の『私と小鳥と鈴と』という詩をご存じだろうか。小学校の国語の教科書にも掲載されている有名な詩であり、全文は以下の通りである。

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

 最後の「みんなちがって、みんないい」という箇所は様々な解釈が可能だが(※1)、教科書への採択に伴って教育現場では「一人一人の個性や違いを大切にする」という個性尊重のメッセージとして受容されていった(伊藤,2016)。
 このような「一人一人の個性や違いを認めることが大事」という個性尊重の考え方は、現代社会において広く受け入れられている。例えば、2003年に大ヒット曲した「世界に一つだけの花」では、「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」という歌詞が個性尊重を肯定するメッセージとして多くの共感を呼んだ。
 また、個性尊重の考え方は学校教育においても肯定的なものとして受け入れられた。例えば、1997年の中教審答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第2次答申)」では、以下のように個性尊重の考え方を重視する方針を打ち出し、それを「ゆとり」と結び付けている。学力低下の批判を受け、2008年の学習指導要領改訂からはいわゆる「脱ゆとり」へと方針が転換されたが、根本となる個性尊重の考え方は今なお受け継がれている。

教育は、「自分さがしの旅」を扶ける営みと言える。子どもたちは、教育を通じて、社会の中で生きていくための基礎・基本を身に付けるとともに、個性を見出し、自らにふさわしい生き方を選択していく。子どもたちは、こうした一連の過程で、試行錯誤を経ながら様々な体験を積み重ね、自己実現を目指していくのであり、それを的確に支援することが、教育の最も重要な使命である。このような教育本来の在り方からすれば、一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることを、教育改革の基本的な考え方としていくべきである。(中略)
これからの教育の在り方を考えると、[ゆとり]の中で[生きる力]をはぐくむことを目指し、個性尊重という基本的な考え方に立って、一人一人の能力・適性に応じた教育を展開していくことが必要であると言うことができる。(中央教育審議会(1997),下線は筆者)

 このような個性尊重の考え方に対しては「ナルシシズム的である」という批判も向けられてきたが、本稿で注目したいのは「みんなちがって」と「みんないい」の間に存在する論理的な飛躍である。「みんな違う」ことを認めることと「みんないい」という肯定的な評価を下すことは本来別物であり、必ずしも接続されるとは限らない。しかし、実際にはこの二つが違和感なく接続されてしまう場面は多い。例えば、グループディスカッションにおいて参加者が各自の意見を述べて議論したにもかかわらず、「結局は人それぞれだよね」という結論で終わってしまった、という経験は誰しもあるだろう。
 両者が違和感なく接続されてしまう背景には、相対主義の考え方が横たわっている。ここでの相対主義とは、「いつの時代においても全ての人に当てはまるような真理は存在しない」という立場に基づいて、「他者の行為や考えに対しては寛容な態度をとるべきであり、自らの価値基準によって判断しようとするのは傲慢である」とする考え方を指す。社会の分断が深刻化し異なる意見を持つ者への憎悪が顕在化している現在(※2)、哲学対話や科学コミュニケーション、タウンミーティングなど様々な形で対話の可能性が模索されているが(※3)、こうした対話の場に「みんなちがって、みんないい」という相対主義的な考え方を持ち込むことで対話の可能性が閉ざされてしまいかねない。相対主義に根差す個性尊重の考え方はシンプルであるが故に批判しづらいが、相対主義的な考え方を持ち出さずに他者との対話を実現することはどのようにすれば可能だろうか。
 本レポートでは、こうした相対主義に根差す個性尊重の考え方を現代社会における「常識」の一つと見なし、これを乗り越えるための思想的アプローチを相対主義への批判から探ってみたい。

2. 文化相対主義のインパクト
 相対主義の思想的な起源は古代ギリシャにまで遡るが(※4)、特に現代にも多大な影響を与えているのは文化相対主義である。
 文化相対主義とは、人類学者のボアズ(1858~1942)に端を発する概念である。19世紀末はスペンサー(1820~1903)の社会進化論など進化論的発想に基づく社会理論が支配的であり、植民地支配を正当化する論理としても用いられていた。ボアズはこの点を批判し、特定の価値に基づいて文化を序列化しないことの重要性を強調した。このような文化相対主義の考え方について、太田(2005)は「文化を何らかの基準に照らし合わして比較できない理由は、基準それ自体が客観的ではないからである。それを客観的と思い込むことが、既に自らの思考の外に出ることを拒絶している。」と説明している。
 レヴィ=ストロース(1908~2009)も、ブラジルにおける未開部族の調査を通じて親族関係や神話の分析を行う中で高度な構造を見出し、「未開社会の人々は高度な規則に従って生きている」という主張を展開した。当時の主流であった自民族中心主義を批判し、野生の思考(呪術的思考)は文明の思考(科学的思考)よりもむしろ豊かであるという文化相対主義の考え方を提示したのである。
 ここで重要となるのは、自らとは異なるものに対するまなざしの暴力性である。未開の部族の風習は欧米諸国から「野蛮である」と見なされてきたが、文化相対主義はこうした「文明-野蛮」という二項対立を解体しようとするものであった。文化を序列化しないことの重要性を強調したため、「お互い文化が違うから、それぞれの文化で勝手に振る舞えば良い」という安直な理解を招き、「非人道的な文化への批判を無効化してしまっている」「政治利用に繋がりかねない思想である」などの批判も呼び起こしたが(※5)、文化相対主義の考え方は1980年代以降多様な文脈で用いられるようになった。ムーア(1873~1958)が20世紀初頭に自然主義的な実在論を批判しメタ倫理学の議論を呼び起こしたことも相まって、普遍的な価値を前提とする考え方は20世紀に大きく揺らいだのである。

3.「みんなちがって、みんないい」は批判できるか
 前章で見たような相対主義の考え方はシンプルかつ強力であり、だからこそ相対主義に根差す個性尊重は一種の理想として受け入れられてきた。本章では、道徳的相対主義に対する批判を検討する形で相対主義に根差す個性尊重の乗り越え方を考える。
 佐藤(2017)は、規範レベルの相対主義に対する普遍主義者の反論を三点に分けて説明している。
 ①事実だけから規範的な主張はできない
 ②相対主義は矛盾を抱えている
 ③相対主義の主張は現実味がない
 ①は、第1章でも指摘した「みんなちがって」と「みんないい」の間の論理的飛躍に関する問題である。事実と規範を区別する場合、仮に「みんな違う」ことを事実として受け入れたとしても「みんないい」という規範には至らない。「他者の行為や考えに対して寛容な態度をとるべき」という規範を導くためには、別の根拠が必要となる。
 ②は、「相対主義のパラドックス」と呼ばれる問題である。これは、相対主義を突き詰めると「他の全ての主張は相対的だが、自分の(相対主義の)考え方だけは普遍的に正しい」という矛盾に陥ってしまうという問題である。これに対しては「相対主義の考え方も相対的である」「相対主義は二階の主張である」「普遍的な道徳的主張もある」などの再反論もなされているが、いずれも相対主義のパラドックスに対する十分な回答とはなっていない。
 そして、本稿の考察において最も重要となるのが③である。道徳的相対主義は一見寛容な考え方のように思われるが、他者に対する無関心・不干渉の態度に繋がり、結果として殺伐とした社会を招く危険性がある。相対主義の立場に立つことで、かえって抑圧に目をつぶることにも繋がりかねない(※6)。
 我々は他者からの強制に反発し「人それぞれだよね」と言ってしまう一方で、完全なる相対主義の立場に立つことにも違和感を覚えてしまう。この問題をどう考えれば良いのだろうか。
 この点について、文化人類学者のギアツ(1926~2006)は以下のように述べている。ここでは、相対主義とは他者への理解を放棄する考え方ではないということが明確に述べられている。

文化の(あるいは歴史の、と言ってもよいが)相対主義の正しさは、我々が決して他の民族や他の時代の想像力をあたかも我々自身のものであるかのようにきちんと理解することはできないとするところにある。他方その誤りは、それゆえに我々は決して真にそれを理解することなどできないとすることにある。我々は他の民族や他の時代の想像力を十分に、少なくとも我々自身のものではない他の全てのことを理解するのと同じくらいには理解することができるのだ。ただし、我々とそれとの間に介在するお節介な解説の背後から見るのではなく、それを通して見ることによってそれは可能になる。
(ギアツ(1983=2014)、下線は筆者)

 また、文化人類学者の池田光穂は、文化相対主義を「他者に対して自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話を目指す倫理的態度」と定義している(池田,2003)。すなわち、文化相対主義は自文化に対して省察のまなざしを向ける考え方であり、「各々が勝手に振る舞えばよい」という安易な相対主義の発想を意味する訳ではないということである。

 ここで、上述の定義の中に登場した「他者に対する理解と対話」についてもう一歩考察を進める。
 河野(2019)は、対話(dialogue)を単なる会話(conversation)と異なるものとして位置づけている。対話は他者との協同作業であり、変化や創造の連続である。様々な考えを持つ他者と対話することで異なる視点を獲得し、より自分に適合する考えを更新し続けることが可能となる(※7)。そうした自己変革の可能性に開かれていなければならないのが対話である。
 こうした対話の最大の障害となるのが、相対主義の考え方ではないだろうか。「結局は人それぞれだよね」という言明は、自ら安全な立場に立つことによって対話の可能性(=自己変革の可能性)を閉ざしてしまうものである。異なる視点の獲得がなければ、それは単なる会話にすぎない。“会話化”されてしまった対話は、自己と「出会い直す」場としての機能を失っているのである。もちろん、自らの前提を問い直すことは苦痛を伴う場合も多いし、他者との関わりの全てが対話である必要はない。しかし、対話と会話の区別を意識しないまま「コミュニケーション能力」を称揚した結果、相手を傷つけない優しいコミュニケーションとしての会話が中心となり、対話の重要性が看過されてきたといえる。
 レヴィナス(1906~95)は、〈他者〉とは私に回収されない絶対的に他なる存在であり、他者を理解しようとする試みは不可避的に暴力を伴うと主張した。「他者を完全に理解することは不可能である」という主張は相対主義の考え方とも親和性が高く、一定の説得力を持つ。しかし、「結局は人それぞれだよね」という言葉によって他者を理解する営みを放棄した先に待っているものは、他者への無理解と無関心である。相対主義に根差す個性尊重とは、対話を拒絶し他者理解を諦めることをオブラートに包んだものにすぎない。他者理解の暴力性を引き受けたうえでその先に対話の可能性を見出すことは、相対主義の乗り越え方として真摯な態度といえるのはないだろうか。

4. まとめ ~ 相対主義の一歩先へ
 本稿では、相対主義に根差す個性尊重の考え方を現代社会における「常識」の一つと見なし、相対主義への批判を検討する中で「自己変革としての対話」の可能性について論じた。
 相対主義に根差す個性尊重とは、相手を傷つけないためには最良の考え方である。同じ価値観を持った人同士の会話は楽しいものであり(※8)、円滑な人間関係を築いていくうえでは必要なものだが、そうした会話の背景には相手の価値観に踏み込まない相対主義的な考え方が暗黙のうちに存在する。互いに干渉しない“優しい”コミュニケーションの先には、他者に対して自分の価値観を表明できなくなる世界が待ち受けているのではないだろうか。だからこそ本稿では、相対主義に根差す個性尊重を批判的に論じ、それとは異なるコミュニケーションとしての対話に可能性を見出したのである。
 我々は他者との会話を楽しむだけでなく、他者との対話を通じて新たな言葉や概念と出会い、自己と出会い直す。つまり、対話を行うためには自己変革に対する覚悟が必要である(※9)。暴力性を自覚したうえで他者と対話することは苦悩や挫折を伴う営みだが、「他者理解は可能」と「他者理解は不可能」の間にこそ他者との豊かな関係が立ち現れるのだと考える。


(※1)例えば、金子みすゞ全集の出版に尽力した矢崎節夫は、「私とあなた」だと「私は私でいいのだ」「私は何をやってもいい」という自分中心の眼差しになってしまうことを指摘し、最後で順番が引っくり返って「あなたと私」になったからこそ「あなたはあなたでいいのだ」というメッセージになるのだと主張している。また、国文学研究者の小倉真理子は、「小鳥」も「鈴」も歌を歌うという点で「私」に近しい存在であり、この詩を自己肯定のメッセージとして解釈している。(伊藤,2016)
(※2)三井(2019)は、アメリカにおいては科学的知識が多い層ほど進化論や地球温暖化に対する考え方の二極分化が著しくなっているというカハンの研究を紹介し、異なる意見を持つ他者と分かり合えない科学的知識が豊富な人を「賢い愚か者」と呼んでいる。
(※3)ハーバマス(1929~)は『公共性の構造転換』において、道具的理性に代わる人間特有の理性として対話的理性(コミュニケーションを重視する理性)の可能性を見出している。「熟議」をはじめとする対話の試みは、ハーバマスの思想に裏付けられていることが多い。
(※4)例えば、プロタゴラス(前500頃~前430頃)は「人間は万物の尺度」という言葉で知られる代表的なソフィストである。
(※5)こうした普遍主義と文化相対主義の対立を超克しようとする試みも存在する。例えば、井口・アブドゥル(2019)は、FGM(女性器切除)と呼ばれるアフリカを中心に行われる成人儀礼の一種をめぐって普遍主義と文化相対主義の対立が生じていることを指摘したうえで、双方における暗黙の前提となっている医学的なまなざしを検証している。
(※6)この点に関連して、ポパー(1902~94)は「寛容のパラドックス」という問題を提示している。このパラドックスは、「無制限の寛容は寛容の消失を招くため、寛容な社会を維持するためには社会は不寛容に対して不寛容であらねばならない」というものである。ポパーは自由主義の立場から、「不寛容な人々が理性的な議論を交わすつもりがなく、暴力によって自らの教説を押し付け反対者の自由を禁じようとする場合は、不寛容に寛容であらざる権利を主張しなければならない」と述べている。
(※7)こうした対話の重要性を指摘していたのが、ソクラテスである。河野(2019)は、ソクラテスの言う「無知の知」とは一度得た知識をあえて捨てて無知の状態に戻ることで自らの偏った思い込みに気付き、全体を見渡す知を得ることであると述べている。
(※8)同じ価値観を持ったものだけで場を作ることを、宮台真司は「島宇宙化」と呼んだ。
(※9)この点に関連して、千葉(2020)は「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。だが人はおそらく、変身を恐れるから勉強を恐れている。」と述べ、自己破壊としての勉強の価値に言及している。

【参考文献】
千葉雅也,2020,『勉強の哲学 - 来たるべきバカのために(増補版)』文藝春秋.
中央教育審議会,1997,「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第2次答申)」
クリフォード・ギアツ(梶原景昭・小泉潤二・山下晋司・山下淑美訳),1983=2014,『ローカル・ノレッジ 解釈人類学論集』岩波書店.
井口由布・アブドゥル ラシド,2019,「「女性器切除」と言説の政治 ― 近代医学的まなざしの自明性を問い直す」年報カルチュラル・スタディーズ 7(0), 27-45.
池田光穂,2003,「文化相対主義をめぐる質疑応答」
 https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030702CL.html
伊藤麻由,2016,「金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」受容研究」富大比較文学(8), 14-29.
河野哲也,2019,『人は語り続けるとき、考えていない - 思考と対話の哲学』岩波書店.
三井誠,2019,『ルポ 人は科学が苦手 - アメリカ「科学不信」の現場から』光文社.
太田好信,2005,「媒介としての文化 - ボアズと文化相対主義」『メイキング文化人類学』世界思想社.
佐藤岳詩,2017,『メタ倫理学入門』勁草書房.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?