はれかぜ

てんでばらばらなものを、統べたら何になるか、見てみたい。

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最近の記事

気楽さ(虚と実の反転)

・・・虚実の反転、考えのメモ。 「私」とは何か?の定義の共有が必要になってくるかとは思うけども。 ホロスコープ等で示されるものも、「私」では無いのかもなぁ。と。 多分、窓みたいなものなんだと思う。 ルネ・マグリットの絵みたいな感じ。シルエットあるけど、空虚でさ。空や風景しか描かれて無いの。 確か、、瞳の虹彩に空が描かれた絵には、「偽りの鏡」という題もついてたりする。 それは生命と言ったらいいのか?もっともっと深い奥底にある何かから、非常にユニークでアーティスティックな窓

    • 創るとは?美しいとは何か?

      私は木漏れ日が大好き。 自然は、いつでも、なんの出し惜しみも無く教えようとしてくれてると思う。 2012年に見た日蝕の時の三日月の木漏れ日は、私にとって理を知る大事な詩篇の一つとなってる。 木漏れ日ってね、木の葉の小さな隙間がピンホールカメラの役割りをして、太陽が反転して地面に無数に映し出されている状態なんだよ。 太陽が欠ける時の、刻々とその変化を即時寸分違わず無数に映し出す様相は、私の心の状態がそのまま世界に現されるだと教えられたよ。あの時、そうと知ったのに、どうしたらいい

      • 私の教科書

        先日、「『いのっちの手紙』斎藤環⇄坂口恭平」を読みました。坂口恭平さんの『躁鬱大学』を読んだ時もそうだったのですが、夢中になって読みました。 読んでいる間、何度も何度も、私の胸元で、肌で、スパークするものがありました。たくさんの気付きの中の一つで、私の中で確信したものを書いておこうと思います。 私はですね、どうやらお人形が好きなようなのです。理由は、わかりません。ただ、布で作られた、簡単に作られた(シンプルでも実際は手間がかかっている!)お人形を見かけると、意識するよりも

        • いのちを感じる。

          人間って本当に立体を把握しているのかな?彫刻や建築などを手掛ける人々は、どんなふうな景色を見ているのだろう? 私、立体を把握するの憧れる。 私自身が把握できている思考の流れは、 プログラミング言語とか、Photoshopとかの作り方と同じだなぁと思う。 3DプリンターもMRIもFAXも、織物も編み物の設計も同じ。点と点を繋ぎ線にしてそれを集積して面とし、また平面の積み重ねをしている。 量子コンピュータとかになると、また全然違うんだよね?扱う情報量が桁違いだから解像度とかス

        気楽さ(虚と実の反転)

          線と創造

          線を引きながら思ったこと。 あるクリエイターの方の塗り絵を見てとても線が美しいと感じられた。 その塗り絵は、多様な海の生き物たちがピタリとくっつくようにして泳ぐ様を線描表現していた。それは昔、美術の授業にあった糸鋸で作る木製のパズルを思い出すものだった。 こんなにもこの線が気になるのは何故だろう?としばらく見ていた。 わたしたちは、互いに互いを創造し合っているのかもしれない。 相手へ向ける視線が自動的に瞬間的に現実に表現されていく世界なのかもしれない。 その視線が自らの

          物事と密度。

          忘れてしまったけど、どなたかの話を聞いて気になったこと、思ったこと。 コップに一滴の毒と、プールに一滴の毒。心が拡張すれば、同じ事象もなんともなくなる。みたいな。 ホメオパシーの原理を思い出す。 それだけだと物凄い毒だけど、ものすごーく希釈すると薬みたいになる。身体に対しての影響が変化する。 身体においてだけでなく、心においてもそうなのか。 瞑想が希釈となり、その事象の捉え方が変化する、他の視点が見えてくる。 「ホメオパシー」に加え、さらに「パワーズ・オブ・テン」とと

          物事と密度。

          それは在る。

          差別の心。思いもかけないタイミングで私の中に見る時がある。それは反射のように即座に無意識に出る。そしてそれをもとに判断を下し、防御のつもりで実行する。 そんな時、自分に対して本当にびっくりするし悲しみが湧き出てくる。 私は、差別なんて、しない! しているつもりは無くても。 正義も偏見。 私、差別なんて、しない! しているつもりは無くても。 無意識に反応し、罪悪無しに卑怯に逃げる。 私、差別なんて、しない? でも、差別のしない人間なんていますか? その根深く蔓延るものも、た

          それは在る。

          逃げる日々。

          キロンを見た。その翳りゆくしかないのでは?と思うほどに悩ましいその裏には、予想外にあっけらかんとした明るさが有るのではないか?と澄んだ秋の青空を見ながら思う。逃げていたら、そのあっけらかんにも出会うことは無い。 太陽と月に共通する強い罠を感じる。それにどっぷりと浸かっているのも知ってはいる。でも詳しくは見ないで逃げている。 何が正解なのか考えたところで、私にはいつもわからない。動き出すタイミングも人に尋ねてもわからない。毎日、ほぼほぼ逃げながら、怠惰と律することをもっとフ

          逃げる日々。

          音の世界

          一日中ヘッドホンつけっぱなしで音楽聴きっぱなし。暇さえあれば、ちょくちょく。 自分では無い、音にならない音が全身反響した感じで、持ってかれた感に浮遊するから、あんまり良きことでは無いなーと思いながら聴いてしまう。 自身の生体の音を聴きたい気持ちと、自分じゃない音で埋めたい気持ちと、自分じゃない音を嫌悪する気持ちと、聴いたこと無い音を外に求める気持ち。 で、、今、私は、そういう感じなんだ、「ま、いっか」となる。 みなさん、音ってどんな風に聴いてるのかな。 自分の身体の音とか、

          思いもよらない「明るさ」

          ※この文章は、竜とそばかすの姫のネタバレを少々含んでいます。 朝目覚めた時に真っ先に浮かぶ言葉が「しにたい」。朝が来ることを悔やむ日が続いたり収まったり、波が打ち寄せるように訪れていました。 きっと、デトックス的なモノと思われるコレ。また不意に訪れたら、こうしようと思える私なりのものが見つかったのです。そんなお話です。 私は、世の中の動きが静かになる夜は好きなのですが、世の中の動き出す朝は罪悪感でいっぱいになるので、あまり好きではありませんでした。何故なら、私は何もでき

          思いもよらない「明るさ」

          呼吸。

          ある朝。 ふと、自分の存在が一つ腑に落ちたように感じた。 その時、初めて、丹田で呼吸しているのを感じられた。 数日かけてじわりじわり、良い人ぶって嘘ついて抑えていたり、妥協した選択をしてきた事に怒りが感じられるようになってきた。 生きていて、グレーも必要とは思う。 けど、今、私、白黒はっきりしたい。 呼吸って、私が感じているものよりも、本来はもっともっと大きなところで呼吸するものかもしれない。 そうしたら、意識は変化し、それに伴い身体の動かし方も変化し、切り開かれる空間は

          わからないものを、わからないまま持つ。

          前の記事、「ブリコラージュに対する私の心象」を書くきっかけとなったのは、2019年4月に発表されたブラックホール撮影成功の記事です。 なので、この文章の元は2019年に書いています。ちょうどその頃シンギュラリティーと言う、AIが人類の知能を超える転換点に関する記事をよく目にしていました。多分、そういった記事のどこかで見かけたと思われる「特異点の分散」という言葉も同時に気になっていました。 この「ブラックホール」と「特異点の分散」という言葉がリンクしているように感じて、時折、さ

          わからないものを、わからないまま持つ。

          ブリコラージュに対する私の心象。

          私の中の散らばった意識の光を 一度一つにまとめよう。 水面を反射した壁に映る淡く揺れるような光も、 ビビッドな色を持つ不動な強い光も。 あちこちへ動いてはキラッとする光も 雲間からさす、濃淡の縦縞のような光も 水分を含んだ柔らかな光も 蝋燭の消えてしまいそうなその光も 私の要素である光の片割れたち。 全部。 全部。 無数にある、各々の揺らぎを持つ光たちを花束のようにまとめる。 集まって集まって集まったその先。 そこには深い真っ暗な空間がぽかりと空いたかのように見える。

          ブリコラージュに対する私の心象。

          見る。

          すぐ側で、見ていてもらえるだけで私の能力が引き出されてくるように感じる。 そんな体験を、はっきりと感じたのは高校生の頃です。 当たり前な話ではあると思うのですが、私にとって大切な思い出だなぁと思っているので、このエピソードを書き残しておくことにしました。 ほんの一時期だけ、女性の先生に数学を見てもらっていたことがありました。その先生は、ある大学を首席で卒業後、やっぱり小学校の教員になりたいということで別の大学で勉強をしていました。いつもとても落ち着いていて、さっぱりとして