【脳内メモ】書評

■ 書籍レビューなのか書評なのか
■ 書くべきは、作者について、作品について、概要、自分の考えや評論、まとめ
■ 副題に「GAFAを超える最強IT企業」という、それらしい言葉が躍っているが、内容とは無関係なので注意されたい。とはいえ、そこに本書が傑作たるゆえんがあるので、ますます注意されたい。現在のネットフリックスは確かに「最強IT企業」の一角を占めている。2018年時点で契約者は全世界で約1億4000万人。独自コンテンツの制作費でも他社を圧倒している。エンターテインメント業界の競争構造を一変させ、ウォルト・ディズニーを脅かす存在にまでなった。その優位は資金力ではない。膨大な顧客の利用データに強みの正体がある。誰が、どこで、何時に、何時間、どういう映画を見ているのか。どのシーンを早送りし、どの俳優をひいきにしているのか。ビッグデータとアルゴリズムを駆使することによって契約者の選好と行動を驚くほどの精度で予測する。本書は1997年の創業からネット配信前夜を対象としている。創業以来10年近くにわたり、ネットフリックスは「郵便DVDレンタル屋」だった。この事実を忘れてはならない。業界を支配していたのは実店舗のネットワークを全米に張り巡らしたチェーン店・ブロックバスター。防衛王者と挑戦者との丁々発止の競争の成り行きが最高に面白い。事実の詳細だけでなく、両サイドの経営陣の心情心理にまで深く踏み込んだ記述。競争戦略の事例として、これ以上ない示唆に富んでいる。ブロックバスターも果敢な対抗策で何度となく挑戦者をダウン寸前まで追い詰める。その都度、ネットフリックスは自分の得意技に磨きをかけ、巻き返す。ブロックバスターこそがネットフリックスを業界王者へと鍛え上げた「陰のトレーナー」だったといってよい。競争の不思議な面白さを鮮やかに描いている。刻々と技術が進歩し競争環境が変化する中で、ネットフリックスはしびれるような意思決定で戦術的な後退や転進を繰り返し、ついに今日の地位についた。しかし、戦略のコンセプト──いつでもどこでも好みのコンテンツを簡便に見ることができる──とそのための基本戦略はまったくブレない。ただのレンタル屋だった当初から社名は「ネットフリックス」だったのである。本書が描くネット配信前夜にネットフリックスの戦略と競争優位のすべてがある。裏を返せば、この時期を知らなければ本当の姿は分からない。いま読むことに価値がある。原書の出版は2012年。翻訳が遅れたことを喜びたい。
■ どのようにして未知の良書と出会うか。Eコマースはとても便利ではある。しかし、書名や著者名が分かっていないと検索できない。買い物の場として優れているにしても、出会いの場としては難がある。アマゾンは「あなたへのおすすめ商品」を大量に紹介してくれる。これが頓珍漢(とんちんかん)なこと甚だしい。大規模な購買データをもとにしているのだが、そそられる本がほとんどない。ビッグデータと人工知能には一層の奮起を期待したい。単に僕の趣味嗜好がひねくれているだけかもしれない。さらに役に立たないのが、ユーザーのコメントだ。ほとんどが匿名で、内容は玉石混交。もちろん玉より石のほうがはるかに多い。評価の星の数となるといよいよ意味がない。本は究極の嗜好品。不特定多数の評価の平均値を本選びの参考にする人の気が知れない。僕にとっての最良の情報源は、結局のところプロの書いた書評である。ネットでの匿名の評価とは質の次元が異なる。知識・見識はもちろん、自分の名前を出す仕事であるからして、気合とサービス精神が違う。僕が絶対の信頼を置くのはフランス文学者の鹿島茂。フランス文学には関心がないのだが、氏の人間と社会を視る眼とそこから生まれる大胆不敵な論理展開にいつも深く共感している。あっさりいえば、「面白がりのツボ」が合う。鹿島茂『大読書日記』(青土社)は2001年から15年間の600ページ超の書評集。興味がない分野の本でも面白く読ませるところが凄い。他の書き物のジャンルと違って書評の価値尺度ははっきりしている。すなわち、読み手にその本を買わせられるかどうか。この書評集を読んだあと、僕は28冊発注した。厳選してもそれだけあった。「理由は聞くな、本を読め」と題された長めのまえがきがとりわけ素晴らしい。ここを読むだけでも価値がある。なぜ本を読まなければならないのか。「読書は役に立つ」といってもしょうがない。読書の価値は事後的に振り返ってはじめてわかるものだからだ。読書に限らず、大切なものほど事後性が高い。事後性の克服は人生の一大テーマといってよい。では、どうすべきか。それは読書しかない。本は事後において書かれている。読書によって、人は事後的にしか知りえないことを知ることができる。四の五の言わずにまずは読め――読書の効用の本質をこれほど明快に抉(えぐ)り出した文章を他に知らない。
■ タイトルにうそはない。阪急電鉄をはじめ、不動産開発、デパートから宝塚歌劇団や東宝などのエンターテインメントまで、数々の独創的事業を一代でつくり上げた小林一三。彼こそは近代日本が生んだとてつもない経営者だった。その偉大さは松下幸之助に比肩する。同時代を生きた小林と松下には共通点が多い。徹底して考える経営。人間の本性に対する洞察に基づいた大構想。そこから演繹(えんえき)的に出てくる事業展開。戦後の公職追放の経験。長寿を全うしたこと。何よりも、2人は日本人の生活を大きく変えたイノベーターだった。違いもある。「水道哲学」(水道水のように低価格で良質なものを大量供給せよ)に集約されるように、松下は不便や不足といったマイナスを解消しようとした。いっぽう小林は、ゼロからプラスを創ろうとした。居心地の良さ、快適さ、健全さ。宝塚のモットーである「清く正しく美しく」。モノよりもコト、人間生活の「意味」にこだわった。本書を読むと、小林のやることが完璧な「ストーリー」になっていたことに改めて気づかされる。二流経営者は「シナジー」(相乗効果)という言葉を連発するが、戦略を単に組み合わせの問題として考えていて、時間的な奥行きがない。小林は「こういうことをやるとこうなる」と、いつもストーリーを考える。論理と思考が時間軸上でつながっている。小林には常人とは違う景色が見えていた。鉄道事業にしても乗客数ではなく初めから住人数と生活に目が向いていた。鉄道が先にあって不動産開発が出てきたのではない。小林にとっての鉄道事業は小林が理想とする都市開発の手段に過ぎなかった。デパート事業。どのデパートも客を集めるのに多くのコストをかけている。これは無駄であり、客がいっぱいいるところにデパートを作ればいいと小林は考える。これが「ターミナルデパート」というコンセプトになった。「薄利多売」について、普通なら「薄利だから多売しなければならない」というロジックになる。ところが小林は、多売が初めからあって、だからこそ薄利でいいと考える。これが顧客にとって魅力となり、好循環が生まれる。松下について語る本は多い。しかし、小林一三という偉大な経営者の評伝は少ない。とくに、その思考と行動の様式の解明にまで深く切り込んだ本はなかった。死後60年余り、平成も終わりになってついに決定版が生まれたことを喜びたい。
■ 経営戦略や事業戦略についての実務家向け解説書は世にあふれている。しかしその多くは「実務家向け」の「わかりやすい」「解説」を意図するがゆえに、結局、戦略とは何かがわからないまま終わってしまう。多くの実務家向けの解説書はSWOT分析(経営資源の最適活用を図る経営戦略策定方法)やファイブフォース・モデル(企業を脅かす五つの脅威)、バリューチェーン(価値連鎖)などのフレームワーク(問題解決に役立つ思考の枠組み)を解説し、その使い方を伝授する。しかし、そこから導出される情報がどのような意味を持ち、全体としての戦略のどこに作用し、他のフレームワークとどんな関係にあるのかまでは踏み込まない。こうした不満を一掃してくれるのが本書である。戦略の定義を論じる冒頭の章からして味わい深い。戦略とは目的に対する手段である。しかしそれは「選択された手段」でなければならないと著者は言う。一つしか有効な手段が存在しないのであれば、それは「追い込まれている」のであって、戦略ではない。複数の代案を優先順位づけした後に選び取られた何かが戦略であり、戦略とは「何をやらないか」を決めることにある。戦略の本質を鮮やかに突いた定義だ。何を対象に事業を行うのか。市場の選択から戦略は始まる。市場セグメンテーション(分化)を論じる章の後に、成長マトリクスなどおなじみのフレームワークを扱う章が来る。これらはいずれも個別市場間の資源配分に関わっている。だから市場セグメンテーションの章の後に来て初めて意味を持つ。議論の構成と流れがよく考えられている。だから、「実務で使える」のである。製品・市場マトリクスを説明するところでも、その使用法にとどまらず、市場を細分化する軸としてなぜ製品(ないしサービス)を使うのか、といった「そもそも論」が出てくるのがいい。さまざまな取引特性のうち、製品が自社で最もコントロール可能な軸だからである。このようにフレームワークの背後にあるロジックにまで目配りが利いている。評者は「ストーリー」をカギ概念として競争戦略を考えることを仕事にしている。本書には戦略ストーリーの章も用意され、そのわずか十数ページの簡潔な記述のなかに、評者もこれまで思いつかなかった新しい洞察が盛り込まれていて驚いた。戦略に関わる重要問題を過不足なく網羅しながら説明はあくまでもコンパクト。比喩や実例が多く、読みやすい。「教科書」はこうありたい。
■ いくら現在の日本が先の見えない曲がり角にあるとしても、明治期の日本が直面した困難や不確実性と比べれば、「ベタ凪(なぎ)」といってもよい。本書が描くのは明治以降の日本の近代における「創造的対応」の軌跡と奇跡である。本書の焦点は制度や政策や組織や機構ではなく、個人の営為にある。津波のように押し寄せる外生的・内生的挑戦に立ち向かったイノベーターたち、明治初期の砲術家にして貿易商の高島秋帆、維新官僚の大隈重信、旧下級藩士にして小野田セメント創業者の笠井順八、三井、三菱の両財閥を成すに至った益田孝と岩崎弥太郎、発明家にして企業家の高峰譲吉、こうした傑物が果たした創造的対応の過程を鮮やかに記述する。どの章を読んでも面白いが、秩禄処分と士族授産という維新官僚の革新的な政策が小野田セメントという近代的産業資本を生み出していくという、政府と民間の「二重の創造的対応」を考察する3章から4章が本書の白眉(はくび)である。財政基盤が脆弱(ぜいじゃく)な明治新政府は財政負担の抜本的な削減という課題に直面していた。最大の削減対象は、封建制度の瓦解(がかい)によって不労所得者となった旧士族であった。ここで明治政府が繰り出したウルトラCが、武士階級という身分を金禄公債で買い入れ、その公債を産業資本に転換するという壮大な構想である。これに呼応して時代に鋭敏な一部の士族たちがさらなる創造的対応に乗り出し、日本資本主義の担い手に自らを変身させていく。つくづく思い知らされるのは、変革におけるリアリズムとプラグマティズムの重要性である。変革というと、よく言えば「理念」、悪く言えば「かけ声」が先行しがちだが、維新官僚と企業家たちは徹底して現実的で実際的であった。これが「身分の有償撤廃」という創造的な政策に結実し、産業近代化の波を生み出した。マクロレベルの社会変革では既得権益の破壊は避けて通れない。ヨーロッパの市民革命と比較して、明治維新がはるかに血生臭くない革命になりえた背後には、「損得勘定」という人間の本性を見据えた明治日本のイノベーターたちの思考と行動があった。歴史とは機械的な法則の上に繰り返される自然科学的な現象でもないし、規範的な先進性や後進性があるわけでもない。それは優れて人間的な営為であり、個性的な現象である。このような著者の歴史観が本書の記述のあらゆる部分にすがすがしいまでに行き渡っている。
■ 読書の愉悦。そのツボは人によってさまざまだろうが、僕の場合は論理に触れ、論理を獲得することにある。論理というと何やら堅く聞こえるが、平たく言えば「ようするに、そういうことか……」。僕にとっての読書の価値は、情報や知識を仕入れることではない。人と人の世について、腹落ちする理解を得る。これほど面白いことはない。松下幸之助著『道をひらく』(PHP研究所)。今もなお読み継がれている名著だ。自らの拠(よ)って立つ思想と哲学が実に平易な言葉で書かれている。特別なことは何もない。「自分の道を歩む」「素直に生きる」「本領を生かす」――言われてみれば当たり前のことばかり。にもかかわらず、この本がここまで大きな影響をもつに至ったのはなぜか。幸之助は、言葉において強烈なのである。言葉が腹の底から出ている。フワフワしたところが一切ない。本質だけを抉(えぐ)り出す。一言一言に実体験に根差したリアリティがある。繰り返し困難に直面し、考え抜いた先に立ち現れた人間と仕事の本質を凝縮する。だから言葉が深い。直球一本勝負。やたらと球が速い。しかも、重い。
■ ところが、である。岩瀬達哉著『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫)を読むともう一つの幸之助像が浮かび上がってくる。数限りない幸之助伝の中で異彩を放つ本書は、「正史」には書かれなかった人間・幸之助の姿を直視する。むき出しの利益への執念。妾宅(しょうたく)との二重生活。袂(たもと)を分かち三洋電機を創業した井植歳男との確執。成功体験にとらわれ迷走する晩年期。ひたすらに血族経営に執着する姿はもはや老醜といってよい。「素直な心」どころではない。「これまで見た中で首尾一貫した人は誰一人としていなかった」――サマセット・モームの結論である(『サミング・アップ』岩波文庫)。一人の人間の中に矛盾する面が矛盾なく同居している。そこに人間の面白さと人間理解の醍醐味がある。『血族の王』を読んだ後で、『道をひらく』を再読する。いよいよ味わい深い。ますます迫力がある。「素直さは人を強く正しく聡明(そうめい)にする」――幸之助は自らの矛盾と格闘し、念じるような気合を入れて自分の言葉を文章にしたのだと思う。彼の言葉は「理想」ではなく、文字通りの「理念」だった。だからこそ、『道をひらく』は人々の道標になり得たのである。人間ゆえの限界を差し引いても、なお日本最高にして最強の経営者。幸之助への尊敬がつのる。
■ 二流の人の「分かりやすい説明」は要点の箇条書きに明け暮れて、肝心の論理の本質部分に踏み込まない。表面的には分かりやすいように見えるが、実のところ表層をなでているだけのことが多い。本書はファイナンスという複雑な思考の本質(だけ)を誰にでも分かるように説明する。いくつかの著作を読んで、著者の優れた解説能力を知ってはいたが、それにしても本書には恐れ入った。ノーベル経済学賞を受賞した四つの代表的なファイナンス理論(MM理論、現代ポートフォリオ理論、CAPM、オプション価格評価モデル)が分かる、という出版社の売り文句の通り、これらの理論の説明は確かに分かりやすい。しかし、著者が本領を発揮するのは、理論の中身よりもその前提の部分だ。ファイナンスに固有の(それゆえ相当に癖がある)思考様式の本質、ここを押さえておかなければ理論の理解もまた意味を持たない。僕もそれなりに分かっているつもりだったが、本書を読んで改めて気づくことが多かった。著者の説明が秀逸な最大の理由は、Xが何かを説明するときに、一見似ているけれども本質的には異なるYを持ち出すのがうまいところにある。XとYを対置し、「YでないのがXだ」だというアプローチでXの本質を浮き彫りにする。その白眉(はくび)が本書の2章にあるファイナンス(X)と会計(Y)を対比した議論だ。この2つは一見兄弟というか、ご近所同士のような関係にあるように見えるが、思考の本質においては真逆を向いている。会計的思考でもっとも価値があるのは現金だ。だから流動性比率は高いほうがいい。ところが、ファイナンス思考では現金はもっとも価値が低い資産となる。こうした視点の設定を通じて、価格と価値の違い、キャッシュとキャッシュフローの違いといったファイナンスの核心にある思考が次々に明らかになる。ファイナンスは価格と価値を峻別(しゅんべつ)する。現時点での価格ではなく、将来に渡ってお金を生み出す価値こそが選択基準になる。しかし、最後のところでは全ての価値を価格に換算してしまうファイナンスは根本的な「矛盾」を抱えている。これは人間が本来的に抱える矛盾でもある。本書は単なる解説書ではない。ファイナンスという思考の「底の浅さの奥深さ」を見据えることによって、人と人の世の本質を垣間見せてくれる。快著にして怪著である。
■ ネットバブル崩壊、業界の低迷、再びのネットバブル。絶頂の中、発生したライブドア事件、親友・堀江氏の逮捕、株価暴落、そして社長の退任を賭けて挑んだ未知の領域…。その時、起業家は何を考えていたのか?抱えた苦悩と孤独、そして心に沈めてきた想い。焦り、嫉妬、不安、苛立ち、怒り、絶望-。すべての真相を、今ここに。魂をゆさぶる衝撃の告白。
■ すなわち、片方では読書は現実生活でなんの役にも立たないと考える人たちの主張を率直に認めることができる。なぜなら、読書などしなくてもたくましく生きていける人々をたくさん知っているからだ。彼らは彼らなりに充実した人生を全うしている。私ももし出身階層を離脱することがなかったら、彼らと同じように読書などせずに無事に一生を終えていたはずである。だから読書しない人々に向かって読書の効能を説いても無駄なことは自明なのだ。だが、その一方で、青春時代に読書をする習慣を身につけたことが自分の人生にとって計り知れない効能をもたらしたとはっきりと認めることができる。読書なしの人生と読書ありの人生のどちらを選ぶかと問われたら、躊躇することなく後者を選ぶと答えるだろう。つまり、ここまでの人生を振り返って総括すると、読書は少なくとも私には役に立ったということができるのだが、問題は実はこの結論の出し方自体にあるといえる。なんのことかといえば、読書の効能とは「今になって振り返ってみれば」というかたちで「事後的」にしか確認できないことにある。言い換えると、事後的であるからこれから人生を始めようとする若者に向かって「読書するとこれこれの得があるから読書したほうがいいよ」と事前的にはいえないということだ。ところで、事後的には効能は明らかだが、事前的には効能を明示できないものというのは、読書に限らず、たくさんある。教育などというものはその典型である。就職や結婚に有利といった実利的目的を除いて教育はなんの役に立つのかと考えると、これもまた「受けないよりも受けた方がよかった」と事後的にしか効能を答えられない。恋愛もまたしかり。しないよりもしたほうがいいのだ。では、事後的には効能は明らかだが事前的には効能を明示できないものを若い人たちにどのように勧めたらいいのか?読書しかないというのが私の結論である。そうなのである。読書こそは「大切なものはみな事後的である」という矛盾を克服できる唯一の方法なのである。なぜなら、本というのは多かれ少なかれ、この事後性を自覚した人によって書かれているからだ。そのため、読書をすることによって、本来は事後的にしか知り得ないことを事前的に知ることができる。ただし、読書のこの最大の効能は事後的にしか知ることができないという矛盾にさらされているのである。というわけで、私の最終的な結論は次のようなことになる。読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、「理由は聞かずにとにかく読書しろ」と強制的・制度的に読書に導くこと、これしかないのである。
■ 3位の『社長って何だ!』は元伊藤忠会長で中国大使も努めた丹羽宇一郎さんが社長やリーダーの役割や意義を解説した一冊。企業の社長のみならず、チームや部署などあらゆるグループのリーダーにとって必要な資質や心構えを説いており、決して「社長」だけが読む本ではない。丹羽さんのこれまでの経験に裏打ちされた教訓は建前や綺麗事だけに収まらず、実感を持って伝わる。丹羽さんはまえがきで大手企業の不祥事が続き、エリート層や知識層に対する不信感が高まるなかで、もはや一刻の猶予も許されません。今こそ重ねてリーダーたる社長の精神革命を訴えるべきだと考えました》と述べている。
■ 児童精神科医である筆者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。
■ 教育、貧困、環境、エネルギー、医療、人口問題などをテーマに、世界の正しい見方をわかりやすく紹介 本書では世界の本当の姿を知るために、教育、貧困、環境、エネルギー、人口など幅広い分野を取り上げている。いずれも最新の統計データを紹介しながら、世界の正しい見方を紹介している。これらのテーマは一見、難しくて遠い話に思えるかもしれない。でも、大丈夫。著者のハンス・ロスリング氏の説明は面白くてわかりやすいと評判だ。その証拠に、彼のTEDトークの動画は、累計3500万回も再生されている。また、本書では数式はひとつも出てこない。「GDP」より難しい経済用語は出てこないし、「平均」より難しい統計用語も出てこない。誰にでも、直感的に内容を理解できるように書かれている。
■ 誰しも自分の決めたことを貫けなかったり、物事を先延ばしにしたりという意志の弱さと闘いながら生きている。自分に厳しい人ほど、それを直そうと本を買うのだろう。書店には、成功者が記す自己啓発書から銀座のナンバーワンホステスの手法まで、ありとあらゆる“やる気本”が並んでいる。だが本書は、これらとは一線を画した手法を提示する。著者は、米のスタンフォード大学で「意志力の講座」を担当する専門家である。彼女は、心理学や最新の脳科学の知見を披露しながら、人間が潜在力として持つ「意志力」を引き出す訓練法を述べていくのだ。科学的アプローチによる自己啓発書という切り口が受けて、本書はヒットしている。ただ最新の科学的根拠に基づいた「やる気アップ術」を期待するのであれば、ちょっとご用心!著者はくわしい根拠を示さず、「ジャンクフード」が「意志力の保有量」なるものを減らし、「信仰やスピリチュアル関係の集まりに参加する」と、それが増えるなどとも述べる。著者が引用する個々の心理学や脳科学の知見は科学的なのだろうが、それらに交じって、ニューエイジと呼ばれる分野めいた主張が顔をのぞかせることもある。読み物としておもしろいし、人によっては、やる気アップにも効果はあるだろう。ただ、すべてが科学的かどうか疑問が残る。スタンフォードの権威を書名に冠しているが、本書の内容は公開講座。正規の授業とは別物と考えるべきだ。日本の書店では、ビジネス書とニューエイジ系の自己啓発書が混同して置かれていることが多いが、本来なら別の棚に置かれるべき性質のものだ。本書はどの棚に置かれるべきだろうか。

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