『居るのはつらいよ』を読んで⑵

この記事は、2019年に医学書院から出版された、東畑開人『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』を読んで、印象的だったところの要約・引用と、私の感想をまとめたものです。

前回記事(『居るのはつらいよ』を読んで⑴)はこちら↓


◆『会計の声』

この本で語られるデイケアは、「ただ、いる、だけ」に敷き詰められています。
メンバーさんが「ただ、いる、だけ」のために、ハカセも「ただ、いる、だけ」のが仕事でした。

しかし、実際には「ただ、いる、だけ」は容易に飲み込みがたいものであったと言います。
「いる」はとても大事だとわかってはいるけれど、「ただ、いる、だけ」の価値を問いただそうとする声が付きまといます。

 会計だ。この声は会計の原理から発せられている。
 会計の声は、予算が適切に執行されているのか、そしてその予算のつけ方そのものが合理的であったのかを監査する。コストパフォーマンスの評価を行い、得られたベネフィットを測定し、そのプロジェクトに価値があったのかどうかを経営的に判断する。
 そのような会計の声を前にして、「ただ、いる、だけ」はつらい。だって、「ただ、いる、だけ」の「ただ」と「だけ」は、そのような社会的価値を否定するメッセージを原理的に含んでいるからだ。社会復帰するとか、仕事をするとか、何かの役に立つとか、そういうことが難しくても、なお「いる」。それが「ただ、いる、だけ」だ。そういうことを超えて「いる」を肯定しようとする「ただ、いる、だけ」は、効率性とか生産性を求める会計の声とひどく相性が悪い。

同書p.317

▼「会計の声はケアに冷たい」

メンバーさんたちのなかには、デイケア以外のどこにも居場所がない人もいたそうです。
そんな「終の棲家」になっているデイケアに、社会保障財源が投入されている。
限りある予算のなかで、「ただ、いる、だけ」にお金がつぎ込まれていて、「それでいいのか?」と会計の声が迫ってきます。

実際、居場所型デイケアの診療報酬は削減されはじめていると言います。
ブラックデイケアの報道をきっかけに、セラピーが求められるようになります。

 そう、会計の声はセラピーに味方する。セラピーは変化を引き起こし、何かを手に入れようとするプロジェクトだからだ。たとえば、復職する。学校に登校しはじめる。そういうことによって、生産性が上がる。税収が増える。会計の声からすると、セラピーは何かを手に入れるための投資と捉えられる。
 これに対して、会計の声はケアに冷たい。ケアは維持し、保護し、消費する。「いる」はその後、生産に結びつくならば価値を測定しやすいかもしれないけれど、「ただ、いる、だけ」は生産に結びついていかない。だから、それは投資というよりも、経費として位置付けられやすい。

同書p.319-320

▼「『ただ、いる、だけ』の市場価値を求めてはいけない」

「投資は積極的なされても、経費は削減されていく」のは、あなたの職場でもそうではありませんか?
限りある財源なのだから、効率よく使用されるべきという会計の声は、正論であるはあるがゆえに、反論することが難しいのです。

しかも、「ただ、いる、だけ」を会計係にもわかる市場の言葉に翻訳すると、「それをより効率的に運用すべきだ」と会計の声はより大きくなってします。
このとき、「市場」の外側にあるはずのケアを、市場の論理で評価されるという倒錯的な事態が起きているのだと言います。

 おかしいのだ。サッカー場の外の公園で一日絵を描いていた人が、「お前、今日、1点もゴール決めてないよな」と言われるようなものだ。サッカーをしていない絵描きが、サッカーの論理で評価されている。
 あるいはギリシア神話に出てくるミダス王のようなものだ。黄金を愛するミダス王は、自分の触るものをすべて黄金に変えてくれを願い、叶えられた。すると、彼が触れた食べ物は黄金に変わり、愛する娘を抱こうとすると黄金になってしまった。これは悲劇だ。食べ物には美味しさを求めるべきであり、娘には愛情を求めるべきであり、金の含有量を求めてはいけないのだ。
 絵描きの価値を、ゴールを決めた数で判断してはならない。ミダス王は黄金が欲しくて娘に触れてはいけない。同じように、「ただ、いる、だけ」の市場価値を求めてはいけない。

同書p.322

→「会計の声」から「居る」を守る

私はこの話を読んで、自身の企画(「ただ居るだけ」は仕事になるのか)について考え直すようになりました。
「居る」のレベルを量的に測定できるようにすることは、効率的に「居る」ことを求める流れにつながってしまうのではないか…
たとえ「仕事になる」と証明できたとしても、「居る」にまで市場の原理が浸食してしまっていいのだろうか…

もともとは、まず「存在」から認め合える場所をつくりたかっただけでした。
しかし、私にも「会計の声」が聞こえてきて、その市場価値を明らかにする必要があるように思えてきていたのです。

私が本当につくりたかったものは、そして、いまの社会に必要な場所は、この「会計の声」から逃れられる「アジール」ではないかと思いはじめました。
そこは、この資本主義社会で罪人かのように扱われることもある、働いていない人や、職場に居ても役に立たない人、効率的に動けない人たちが、たとえ一時的にでも許される避難所です。

「でも、それじゃあ『働き方実験』にならないよね?」という声が聞こえてきそうです。笑
それについては、この本を最後まで読んでから書きたいと思います。

◆真犯人「ニヒリズム」

「それでいいのか?」をいう会計の声が響き、「ただ、いる、だけ」の本質的な価値は見失われます。
それなのに、ただ「お金になるから」という倒錯した理由で「いる」が求められるとき、「いる」は金銭を得るための手段へと変わってしまうニヒリズム。

ブラックデイケアも、このニヒリズムが立ち込めることによって生じるのです。
あるいは、さまざまなケアする施設でのケアする人のする人の苦しさもニヒリズムから生じていると言います。

 その極北に「津久井やまゆり園事件」がある。知的障害者の施設で元職員が入居者を大量殺陣した事件だ。その元職員は入居者を「心失者」と呼び、安楽死させることが会計的な意味での社会正義だと考えていた。彼はケアすることのなかに含まれるニヒリズムに食い破られたのだ。このニヒリズムの極致で「いる」は否定される。

同書p.326

▼「風景として描かれ、味わわれるべきもの」

「ただ、いる、だけ」の価値を、ハカセはうまく説明することができないそうです。
結局のところ、無力な臨床家で、ありふれた心理士であるため、会計係を論理的に納得させるように語ることができません。

しかし、ハカセはその価値を知っています。
「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を、その風景を目撃し、たしかに生きたからこそ知っているのです。
だから、ハカセはそのケアの風景を描いていると言います。

 「ただ、いる、だけ」は、風景として描かれ、味わわれるべきものなのだ。それは市場の内側でしか生き延びられないけど、でも本質的には外側にあるものだ。
 タカエス部長が居眠りしていて、その光る頭をメンバーさんが撫でている。そういうものの価値は経済学の言葉では絶対に語れない。データにすることもできないし、官僚が納得するようなエビデンスにもできない。
 それはエッセイの言葉で語られるしかない。「ただ、いる、だけ」はそれにふさわしい語られ方をしないといけないのだ。
 そして、それは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。

同書p.337-338

→「ただ居るだけ」の経験者・発信者となる

私はこの話を読んで、「会計の声からの避難所・アジール」をつくり守っていくためには、「ただ居るだけ」の場所を生き、そして、そこで見たこと・感じたことを”そのままに”語る人が必要だと思いました。

また、そのように「市場の外側を語る」ということ自体が、とても新しい働き方の実験でもあると考えます。
なぜなら、現在の「働く」あるいは「仕事」とは、市場の内側で、その原理に従い、価値ある商品やサービスをつくり、提供していくことを意味する場面が大抵だからです。

つまり、市場の外側にある「ただ居るだけ」を語るという、経済的収益性には還元できない新しい働き方の実験を通じて、「ただ居るだけ」は会計の声に縛られない新しい「仕事になる」のかを考えていきたいという結論にいたりました。

この結果を踏まえて、自主企画の研究メンバーと一緒にどのような活動をおこなっていくか決めていこうと思います。

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